雨中の邂逅の場合
6月下旬。梅雨真っ盛りの頃である。
期末テストを翌週に控えたこの日、京子の方から二人で勉強会をしようと話を持ちかけ浩太も了解してくれたのだが、当初は浩太が京子の家を訪れる予定であった。
ところが、京子がその話を家族に持ちかける前に弟の
正次の方もどうも京子に席を外していて欲しかったらしく、珍しく向こうから「姉ちゃんがいると集中しにくいから、浩太兄ちゃんのところにでも行って一緒に勉強してくれば?」と打診してきたので、形的には京子がそれを受け入れて浩太のところに行く格好になった。
もし仮に「学校の人」というのが男友達であるならば、京子に席を外していて欲しい理由はないであろうから、今日来るのは恐らく女子なのだろうと京子は想像していた。
高校に入って三ヶ月にも満たないうちに彼女候補を見つけるなんて、正次も知らないうちに色気づいたものね、と京子は妙に感慨深く感じていた。
浩太の家は京子の家から歩いて10分ほど離れた場所にある。幼い頃はずいぶん遠くにも感じたものだが、今では自転車を飛ばせば5分ほどの距離である。
雨の中を浩太の家に向けて歩いていた京子は、その途中で反対側から歩いてきた予想外の人物を見て驚いた。
長い髪をツインテールにまとめ、鮮やかな青のワンピースを着たやや長身の女の子。
忘れもしない昨年の秋。駅ビルで浩太と一緒に歩いていたM高の女子だった。
あの後、浩太からは彼女は単なるクラスメートで、クラスの用事のために一緒にいただけだったのだと説明されたが、浩太の方の認識がそうでも彼女の側がそうだったとは限らない。浩太が女の子の心の機微に疎いのは京子がよく知っている。
浩太の家にもほど近いこんな所で一体何をしているのだろう? 京子は自身でも気が付かない間に体を硬くしていた。
相手の方は最初のうち京子のことには気がついていなかったが、歩みを止めてしまった京子の姿を認めると、妙ににこやかな表情をしてこちらに歩み寄ってきた。
「こんにちは。いきなりで失礼だとは思うんだけど、もしかして、白板……京子さんかな?」
敵意というものを全く感じさせない気安い口調だった。
「そうですけど、あなたは?」
対して、こちらはやや警戒を含んだ調子になった。
「私は
恵美は一応京子に対して配慮を見せたが、かえってそれが京子の警戒心を煽った。
「構わないわ。あの時は単に私があなたに見られただけだもの」
突き放すような冷たい口調で言うと、恵美は肩をすくめた。
「随分警戒されているみたいね、私……まぁ、無理もないか」
「今日はどういう用事なのかしら?」
「あら、私がそれをあなたに言う必要があるの?」
そこで恵美は表情を改めて、京子を試すような口調になった。
「別に無理にとは言わないわ。ただ、先に話しかけてきたのはあなたなんだから、ボールを投げるのはあなたが先だと思うけど?」
努めて事務的な口調で答えると、恵美はやれやれとでも言うように大きなため息をついた。
「思っていた以上にお堅い性格なのね。話には聞いていたけど……」
「私のことはどうだっていいわ。それで……どうなの?」
話をはぐらかそうとする恵美の言葉には取り合わずに問い詰めると、恵美は「仕方ないわね……」と諦めたように話しだした。
「……今日の用事は奈良橋くんとは無関係よ。後輩から家庭教師役を頼まれたから、その子の家に向かってる途中だったの」
「本当なの? その話」
「本当よ。……何ならあなたも後輩の家までついてきてみる?」
「そこまでする必要はないわ。私も用事があるから」
恵美の言葉に嘘はないと判断して、ようやく警戒する姿勢を解いた。それを見た恵美もひとまず安心といったような表情に変わる。
「ようやく納得してくれたみたいね。一時はどうなることかと思ったけど」
「あなたと違って、こちらはあなたのことを初めて知ったんだもの。まして初めて見たときの状況が状況でしょ? そりゃ警戒もするわよ」
「あ~やっぱりあの時のことを根に持ってたのね」
「根に持ってるってほどでもないけど、自分の彼氏に自分じゃない女の子が一緒だったら誰だって警戒するでしょ?」
そう言うと、恵美は「彼氏、ね……」と複雑な色を含んだ微笑みを浮かべていった。
「やっぱりあなたも、奈良橋くんのことが最初から好きだったのかしら?」
「あなたの方はどうなの? 浩太のことが好きじゃないの?」
問い返すと、恵美はゆっくりと首を左右に振った。
「好きだった、が正確ね。去年の秋にあなたと奈良橋くんの関係を知っちゃったから、そこで私の片思いも終わったの」
「終わっちゃったって、そんなにあっさり……」
意外なほど恵美があっさり諦めているの知って、逆に恵美のことが気がかりになった。
「終わったわ。だって、どうやってもあなたには勝てないんだもの」
恵美はそこでややうつむき、自嘲気味に語り始めた。
「奈良橋くんとは一年の頃から同じクラスだったし、いい人なんだってすぐに分かったから、こちらの一目惚れだけどずっと狙っていたわ。奈良橋くんの好みとか知りたかったし、意中の相手が他に居ないかって探ったりもしたわ」
「……」
京子は静かに頷き、恵美に話の先を促した。
「でもね。奈良橋くんはそういう話には一切乗ってこなかったのよ。何を質問しても気の抜けたような返事だったり、要領を得なかったり……私も自分にはそこそこ自信を持っていたから、どうして奈良橋くんは振り向いてくれないんだろうって一時期は本気で悩んだりもしたの」
恵美は悩ましげにそういった。あの時は冷静でなかったこともあってよく分からなかったが、恵美は同性の京子から見てもかなりの美人である。背も高くプロポーションも優れていて、背もそれほど高くなく体型も平均的な域を出ない京子からしたら、場合によっては憧れの対象ですらあったかもしれない。
しかし、そんな彼女がいくら努力しても、浩太は振り向こうとはしなかったのだ。
「鈴村さん、あなた……」
「でも、あの日、あの時にあなたが現れてその場から立ち去って、それを見た奈良橋くんがひどく落ち込んでいるのを見た時に直感しちゃったの。ああ、彼の好きな人はあの子なんだなって。私なんて、最初から眼中にも入っていなかったんだって……」
恵美は唯一そこでだけ浩太のことを「奈良橋くん」ではなく「彼」と呼んだ。京子は一瞬、恵美が泣いているのではないかと思ったが、恵美はひどく覚めた表情をしたままだ。
「そこからどうなったか、あなたにはよく分かるでしょう? 奈良橋くんを狙っていた女子は私の他にも勿論いたけど、もう誰一人として奈良橋くんを振り向かせることは出来なかった。それは、奈良橋くんが自分でも気がついていなかった恋心をあの時からはっきり自覚してしまったからよ……」
恵美の独白はそこで終わった。恵美はうつむいていた顔を上げて、黙ったまま京子を見つめている。
京子もまた黙ったまま恵美のことを見つめていた。
二人が沈黙に包まれている間、傘に打ち付ける雨音だけがやけに鮮やかに響いていた。
先に口を開いたのは、京子だった。
「……全く、浩太ってば許しがたいわね……」
肩の力を抜いて、苦笑しながらそう言った。京子のその態度を見た恵美はいかにも興味津々といった表情をして、「あら、どういうことかしら?」ととぼけたように言った。
「大体、私の知らないところでモテモテだったりそれを隠しておくだけならまだしも、こんなに可愛い女の子を思いっきり袖にしておいて、しかもそれに気付かないなんて、本当に女心の分からないバカなんだから!」
あとでしっかり問い詰めてやらないと、と京子が息巻いていると、今度は恵美のほうが苦笑いを浮かべた。
「お手柔らかにしてあげてよ。奈良橋くんはあれで結構悩みだすと止まらないタイプなんだし」
「心配いらないわ。私が何年浩太と付き合ってきたと思ってるのよ?」
「そう言えばそうだったわね」
そこで二人はお互いに顔を見合わせて爆笑した。
「最初はごめんね、鈴村さん。あんなに威嚇しちゃって」
「別に構わないわ。今こうして誤解も解けたんだしね」
恵美は穏やかに言った。
「これで私も安心して次に進めるわ」
「次? 一体何のこと?」
「ええ、奈良橋くんとの片思いは半年前に終わって、その残りの精算も今日済んだから、私もどんどん次に進んでいかないとね」
恵美が思わせぶりな口調でそう言うと、それを聞いた京子は妙に心に引っかかるものを覚えた。
「……そう言えば、鈴村さんは今日は後輩の家庭教師役をしに行く、って話だったわよね?」
「うん、そうよ」
「その子、高校の後輩?」
「そりゃそうでしょ。他に誰がいるのよ?」
「今日、M高に通っているうちの弟が家に学校の人が来るって言って、私を家から出したのよ」
「あらあら、そうなの……困ったものね。私としてはお姉さんに会いたいって、何度も何度も言ってたんだけど……」
言葉とは裏腹に全然困っていない様子で恵美が答えた。もうこれ以上確認するまでもない。
「これから私の家に行くつもりだったの!?」
「最初はあんな感じだったから、最後まで黙ってようかとも思ったけどね。でも、白板さんは誠実に対応してくれたし、こちらも手札をきちんと全部見せないと失礼かなって思い直したのよ」
しゃあしゃあと言い放つ恵美に、京子はがっくりと肩を落とした。
「頼むから、そういう大切なことは最初に言ってよ……」
「だって最初から言ったら、それこそ白板さん激怒してたんじゃないの?」
「うっ……それは……」
完璧に図星を突かれてしまい、思わずうめいてしまう。
「まぁ、弟さんが何考えてるかは分からないけど、どちらにしても今日のところは本当に軽くおしゃべりでもして帰るつもりだったわ。そもそも弟さん、私があれこれ勉強なんて教えなくったって一人で出来ちゃうんだもの」
「要するに下心は最初からバレバレな訳ね……正直姉として恥ずかしいったらありゃしないわ……」
「そう言わないであげて。そもそも奈良橋くんみたいな超草食男子のほうが珍しいんだから」
「そりゃそうだけど………って、そうだ! 早く浩太の家に行かないと!」
そこでようやく本来の目的を思い出す。時計を見ると約束の時間を既に過ぎている。
「あら、白板さんは奈良橋くんの家に行くところだったの? もしかして?」
「もしかしなくても勉強会よ。浩太、放っておくと苦手分野全然やらないから」
「あ~、やっぱりそうなのね。欠点の少ない奈良橋くんの貴重な短所かしら?」
「そんな大層なもんじゃないって。本当にいつまで経っても成長しないんだから」
京子がぶつぶつ文句を垂れると、恵美はおかしそうにくすくす笑った。
「本当に仲が良いのね。やっぱり私の出る幕じゃなかったかしら」
「そうでもないわ、鈴村さん」
「恵美でいいわ」
「じゃあ、私も京子って呼んでね。……浩太もよく言っているけど、もしあの時、あなたが浩太と一緒じゃなかったら、私、きっと色々なことに気付けなかったわ」
そう言うと、恵美は苦笑いしながら小首を傾げた。
「そうかしら? 私が居なかったとしてもあなたたちはいつかきっと結ばれていたわよ」
「そんなことないわ。それに、今日こうやって恵美に出会えたってのも私には大きい出会いだったから……」
「京子にそう言って貰えると……正直救われるわね」
恵美はお世辞でない口調でそう言い、京子もそれを確認してうなずいた。
「じゃ、私、行くね……もし正次が妙なマネしたら遠慮なくぶっ叩いていいからさ!姉の私が許す」
「了解よ……じゃあね、京子、また会いましょ」
最初のぎこちなさはどこへやら、すっかり打ち解けた雰囲気になった二人は、別れを告げると改めてそれぞれの行き先へと足を急がせた。
そのあと、浩太は遅刻してきた京子から恵美の話を持ち出され、冷や汗をかきながら京子のご機嫌をとろうと必死で勉強する羽目に陥り、それと同時刻に家に来た恵美に正次は肩すかしを食らわされた挙げ句、姉に全てバレてしまっていることを聞かされてすっかり戦々恐々となってしまったのだった。
無論、正次が夜になって帰ってきた京子にこってり絞られたのは言うまでもない。
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