三つの密室
ふっふー
プロローグ
――時は十二月。街はすっかりクリスマスモードである。この季節を待ちわびていたのか、街はクリスマスというイベントにぴったりの若者で溢れ返った。若者という意味では私、
ずしん。何かひどく重たいものが心に圧し掛かる。
せっかく
……私はまだ、あの時の傷が癒えない。
「ふう」
思わず、溜め息が漏れる。
「ふう……」
そこから、長めの溜め息を吐いた。外はすっかり冷えきっている。目の前には、たった今吐いた息が白くぼんやりと広がっていく。
「……さて、今日も頑張りますかね」
ようやく私は、川越の菓子屋横丁の近くに構える、巫部探偵事務所へと入った。小江戸の街並みが広がるこの地域に相応しい、木造二階建ての事務所だ。巫部さんの祖父が昔営んでいた駄菓子屋兼住宅を、亡くなった際に譲り受けたものを改築したらしい。築四十年ほどの古い建物だが、室内はそれほど古めかしさを感じさせない。二階にその事務所はある。和室に机がどしんと三つ並べられ、机の上には数々の資料が散乱している。いや、散乱しているのは私の机だけで、巫部さんの机は恐ろしいほどに整頓されている。過去の依頼は全て丁寧にファイリングしているようだ。現在着手する依頼でさえ、きちんとファイリングされ、備え付けの本棚にしっかりと収まっている。
私がギシギシ軋む音を響かせながら階段を上る音を聞いていたのか、巫部さんはすでに、私の分のココアを用意してくれていた。
「巫部さん、おはようございます」
「うん、おはよう。夏生くん。冷めないうちに、頂くといい」
「すみません、ありがとうございます」
巫部さんに差し出されたそれを受け取る。この季節にピッタリの白いカップに並々と注がれたココアを啜った。少し甘めに調整されたココアは、冷えきった身体をじんわりと温めた。私がココアを飲む姿をゆったりと眺める巫部さんは、ニット生地の珍しい柄の浴衣を着ていた。左半身は薄い茶色、右半身は黒色の地に、確か……雪輪模様だったはず。寒さに強いからか、浴衣の中には下着を着用していないようで、襟元から鎖骨が覗いている。
……美しい。やはり、巫部さんは美しい。目立ちすぎない二重瞼に、すっと高い鼻、薄めの唇は控えめで、どのパーツも主張し過ぎることはない。そのせいだろうか。どうも私は穏やかな仏さまを目の前にしているような感覚に浸ってしまう。
私が巫部さんに見とれてから約五秒が経過したであろう。巫部さんは特に気にする様子もなく、落ち着きある声で話し始めた。
「……世間はすっかりクリスマスムードだね」
「はい。でも、此処は変わりませんね。目立った装飾もほとんどなくて」
「落ち着いているだろう。それが此処、川越の良いところでもある」
川越は、あまりクリスマスというイベントに積極的ではない。特に菓子屋横丁は、いつでも縁日のような振る舞いだ。そのせいか、他の街の装飾を見るまで、クリスマスが近づいていることに気付かなかった。
「……私は、此処が好きです。巫部さん」
「うん。それはよかった」
ほっとした様子の巫部さんも、ようやくココアを飲み始めた。少し冷ますために置いていた分、湯気はもう立っていない。彼は猫舌なのである。熱すぎるのは、どうも苦手らしい。
巫部さんのココアが半分ほど減ったところで、おもむろに今回の事件について話し始めた。
「夏生くん。今回の事件には、君にも来てもらおうと思っているよ」
「……はい」
半年前に起きたあの事件により、私がすっかり死に敏感になってしまったことを、巫部さんはよく知っている。そのためか、巫部さんは慎重に、私の顔色を伺いながら話を続けていく。
「……殺人事件だよ。それも、密室ときた」
「……密室ですか」
密室は、ミステリにおいて外すことのできない重要な要素である。たとえば、部屋の扉が固く閉ざされた状態で、中で人が死んでいたとする。そしてその死体の近くには、その部屋を開くための鍵が置いてあったりする。そうすると、まるで自殺したように見える。他殺は不可能だと感じさせてしまうのだ。事件性がないと思わせるのも、密室殺人の特徴だ。これはあくまで、これまでに読んできた小説の受け売りである。
「殺人事件ということは、巫部さん。それは他殺だと、はっきりわかっているのでしょうか」
私は巫部さんに問いかける。
「私も、他殺かどうかは、直接現場を見ていないので何とも言えないのだけれど。依頼人から、書き置きされていた言葉を貰っていてね」
一度言葉を切った後、再び口を開いた。巫部さんは、私をじっと見つめる。
「……私は、あの部屋のままに。すべて、決まっていたことなのだ。その時が来た。ただ、それだけだ。だから、心配しないでくれ。そんな書き置きがあったそうだ」
巫部さんは、依頼人から聞いた言葉を、何も見ずに丁寧にスラスラと述べた。
「それって……」
「ああ。意味ありげだよね」
自殺の書き置きにしては、些かやり過ぎな印象だ。あの部屋とは。決まっていたとは。その時とは。何を心配されることを危惧しているのか。……すべての文章に、何やら深い意味が込められているような気がしてならない。
「今回は、前回の夏鈴ちゃんの件とは異なり、依頼人の父が亡くなってから数日は経過している。既に死体は埋葬されているため、警察の検分や、目撃者の当時の証言から推測するしかない。それに、容疑者は皆、すでに現場から立ち去っている。直接聞き込みをするのも、大変になるだろうね」
なるほど。得られる情報は新鮮味がないのと、直接自分の目で確かめた情報ではない分、以前と比べるとはるかに難しくなりそうだ。
「まずは、事件があった現場に行ってみよう。依頼人はそこに住んでいる」
「わかりました。もうすぐ年末ですし、早めに動かないといけませんね」
「うん。明日、早速行ってみようか。連絡してみるね」
巫部さんはそう言うとすぐに、受話器を持ち上げ電話を始めた。巫部さんは、見かけによらず随分とフットワークが軽い。どうやら繋がったようで、トントンと話を進めていく。少しした後、巫部さんは満足気に受話器を置いた。
「うん。どうやら大丈夫そうだ。明日からはバタバタするだろうから、今日はゆっくり過ごそうかね。夏生くん」
「はい」
どうせ年末年始、することもあまりない。仕事が入ることは特段問題がなかった。しかし巫部さんは、どうなのだろう。彼は謎が多い(そもそも込み入った話を普段しないせいもある)ためか、私生活のことをほとんど知らない。巫部ファンの一人として、如何なものだろうか。少し、聞いてみてもいいだろう。
「巫部さんって、年末年始は、ご実家で過ごされたりするんですか?」
巫部さんは悩んだのか、少し間を置いた後に答えた。
「……いや、今年は実家に帰らないよ。かなり辺鄙なところにあってね、なかなか行けないのだよ。ましてや、仕事があるってわかっている今はね」
巫部さんは、寂しそうに呟いた。家族は一体どんな風貌なのだろう。きっと、とてつもなく神々しいに違いない。勝手に私は、一般人では入れないような山奥の聖域に経つ豪勢な住まいを想像する。
「そうですか。では、私もここで過ごします」
「おや、夏生くんは、実家には帰らないのかい?」
巫部さんは、何気なくそう尋ねた。その一言が、私の心に深々と刺さった。
「……はい。私が帰っても、喜んでくれる人はもう、いませんから」
「……すまない。配慮が足りなかった」
「いえ、いいんです。大したことじゃ、ありませんから」
巫部さんは、少しばかり気まずそうな顔をした。どうも、気を遣わせてしまった。私もまたずしりと、気が重くなっていく。どうもだめだな。最近は、気持ちがうんと沈んでいってしまう。
「そうだ巫部さん。せっかくなので、ここで鍋でも食べましょう」
とっさの思いつきが功を奏したようで、巫部さんもパッと笑顔になった。
「うん。いいね。では近くのスーパーへ行こう」
そう言って巫部さんは、出掛け用の羽織物を身に纏った。私も先ほどまで羽織っていた黒いコートを纏う。対比する二人の恰好が、少し面白い。
巫部さんの後を追うように外に出た。先ほどまで寒いと感じた外気に対して、もうあまり寒いとは感じなくなっていた。
……よかった。今年は巫部さんがいて。
これから訪れる凄惨な事件を前に、ほんのひと時の休息を、私は温かな感情で迎え入れた。
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