030 茶席(4)

「ん……」


 神妙な面持ちで五郎太を見つめていたエルゼベートは、やがておもむろに下を向き、喉を詰まらせたような声をもらした。


「んんんんん……」


 俯いたまま低くくぐもった声で呻くエルゼベートに、どうかしたのかと五郎太は声をかけようとした。そのとき、勢いよくエルゼベートの頭が跳ね上がった。


「面白いっ!」


 ぱっと花が咲いたようなエルゼベートの笑顔が五郎太に向けられた。


「なんて面白い趣向! まるで謎解きじゃない! こんなエレガントで知的なうたげ、初めて! あんたの国じゃみんなこんなことやってんの!?」


「ああ……まあ皆が皆、茶を嗜んでおるわけではないが、概ねそうなろうか」


「連れてって! いつかあんたの国にあたしを連れてって! ねえお願い! あたしが知らないこといっぱい、いっぱいありそうだもの!」


 目を輝かせ、身を乗り出して躙り寄ってくるエルゼベートに、五郎太は冷や汗をかきはじめた。半分はエルゼベートの豹変に意表を突かれたため、だが半分は女に近寄られたことに拠るものである。


 ほとんど接吻するほど間近に顔を近付けていたエルゼベートは、眼前で蒼くなってゆく五郎太の顔にはっと我に返り、慌てて元の場所に戻り居住まいを正した。


「……失礼致しました」


「いや……工夫を喜んでいただけたのなら何より」


 五郎太は小さく咳払いし、エルゼベートに倣い背筋を伸ばして座り直した。そしてエルゼベートに向き直り、その顔を真っすぐに見て、言った。


「そういった次第であるから、俺にはエルゼベート殿を嫁御よめごにいただく値がない。誠に有り難いお話なれど、謹んで辞退申し上げる。ついては今朝にご進言いただいたよう、エルゼベート殿から兄上にその旨お伝えいただけぬだろうか」


 そう言って、五郎太は深々と頭を下げた。……言うべきことは言った。そう思い、頭を上げた。


 けれども、エルゼベートは五郎太を見てはいなかった。壁に掛けられた絵に茫漠ぼうばくとした眼差しを向けたまま、天気について訊ねるように気のない声で言った。


「……ゴロータ様は、生涯、ご結婚なさらないおつもりなのですか?」


「ん? いや……そのようなつもりはない。できるものならば、俺も嫁御が欲しい」


「ゴロータ様の妻として、わたくしは申し分ないという評価をいただいたと考えて宜しいのですね?」


「申し分ないどころか身に余る。だが先程も申したように俺は――」


「この薔薇、わたくしがいただいても?」


「え? ああ、構わぬが……」


 何を言われているか判然せぬまま、五郎太はそう返した。


 エルゼベートはすっと立ち上がると薔薇を手に取り、五郎太に止めるいとまも与えずそれを右耳の上に挿した。


 一条ひとすじの血が白い頬を伝い落ちる。それを意に解することなく、エルゼベートは五郎太に向かい、穏やかに微笑んで見せた。


「どうでしょう。似合いますか?」


 五郎太は声が出ない。総身に痺れを覚えながら、目の前の女性にょしょうの姿を見つめていた。


 見様見真似だった己の茶に、今、ひとつの答えが与えられた――そう思い、五郎太は大きく息をついた。日ノ本を遠く離れた異国でこのような感動を味わえるとは、思ってもみなかった。


(一座建立か)


 棘のある花を取り上げ、我と我が身を傷つけてまでそれを髪に挿したエルゼベートの作意は、誰の目にも明らかだった。


 その有り難い想いもさることながら、初めての茶席に臨んでここまでの当意即妙な振る舞いを見せるエルゼベートという女に、五郎太は心底参ってしまった。


 輝くばかりに美しく、獅子のように勇猛で、遠い東の果てに息づく見も知らぬ者達の心さえ解する。このような女性にょしょうが二人といるとは思えなかった。しかし――


「負けたわ。是非とも俺の嫁御になってくれ――と言いたいところだが、よくよく考えてみるとこの件は男女なんにょの問題ばかりではない。容易には頷けぬ」


「どういうことでしょう?」


「エルゼベート殿と夫婦みょうとになるということは、俺がクリスの家臣になるということよ。……二君に仕えるは俺の本意ではない」


「ですが、ゴロータ様のお仕えしていたご主君は亡くなられたのでは?」


「……」


「兄から伺いました。それが理由でゴロータ様はご主君のあとを追い、死にたがっておられると」


「……お屋形様のあとを追わんとしているわけではないのだがな」


「同じことです。ゴロータ様ほどのお方が、そのような理由であたら若い命を散らしてしまわれるのは何とも惜しい……と、兄が申しておりましたが、これについてはわたくしもまったく同意見です」


「……」


「お察しの通り、兄は何かと問題がある人ですが、異邦人である貴方様に見所があるとみるや、わたくしとめあわせてでも取り込もうとしていることからもわかりますように、為政者としてはなかなかに非凡なものを持っております」


「……」


「ゴロータ様に、故国への未練が少しでもあるようでしたら、このようなことは申し上げません。ですが、ご主君もお亡くなりになり、もうそこへお戻りになる理由がないということでしたら、折角の機会です。わたくしを娶って、この国で成り上がるというのはいかがでしょうか?」


「……下克上か」


 熱の篭もったエルゼベートの口説文句に、五郎太は遂にそんな言葉をもらした。


 エルゼベートの話はいちいち納得のいくものだった。……と言うより、内心ではそれが己の進むべき道であると思い定めていたのかも知れない。


 下克上――それが乱世の習いであることは五郎太にもよくわかっている。お屋形様も浪々の身からそうしてのし上がった。針売りから身を起こしたという筑前守もそう。右大将様とて尾張の田舎大名から天下様にまで成り上がったのだ。


 ……五郎太とて戦国の世の武士もののふである。己の中にそうした野心がなかったかと問われれば、はっきりなかったと返すことは矢張りできない。


「お前様を娶り、この国でのし上がる……か」


 だがそこまで言われても、五郎太には決心がつかなかった。クリスの妹御であるエルゼベートを娶り、その家臣となること……それはあちらでの家中になぞらえれば、主君にとって娘婿と妹婿という違いこそあれ、左馬助さまのすけ様――弥平次秀満やへいじひでみつ様と同じ立場になるということだ。


 生半可な覚悟では済まない。クリスのためにはいつでも命を投げ出す気構えがなければお役目を果たすことなど到底できまい。同時にそれは五郎太が故郷である日ノ本を捨て、このイスパニアに骨を埋めるということでもある。


 己にとってまたとない話ではある。またとない話ではあるが……ここで膝を打ち、わかったと口に出してしまうのはどうか――


「なによ、煮え切らないわねえ」


「仕方あるまい。俺にとっては一生の大事だ」


「あたしにとっても一生の大事なんだけど?」


「お前が俺にとってまたとない女であることは重々わかった。……わかったが、さりとて仕官も絡む話となって参るとなあ……」


 そう言って、五郎太は大きな溜息をついた。


 自分でもいさぎようないと呆れる気持ちだったが、こればかりは致し方ない。生涯に己が仕えるあるじはお屋形様ただお一人……ほんの数日前までそう信じて疑わなかった五郎太にとって、そう簡単に割り切れる類の話ではなかったのである。


「だったら、また勝負するってのはどう?」


「勝負?」


「俺と結婚してくれってゴロータに言わせたらあたしの勝ち。言わせられなかったらあたしの負け」


「……」


「女にさわれない? 面白いじゃない! そんなんであたしが諦めると思ったら大間違いよ。女としてのプライドにかけて、あんたのその女ぎらい、あたしが治してあげる」


「……エルゼベート殿」


「ねえ、ゴロータ……もうゴロータって呼ばせてもらうけど、この国にはきっとゴロータの居場所がある。あたしはそう思うの。……お屋形様って人が亡くなって絶望してるゴロータに、『だったらこの国で居場所を見つけろ』って、お兄はそう言ってるんじゃない?」


「……」


「あたしは今、ゴロータの中にあたしの居場所を見つけた。ゴロータのためにあたしがしてあげられること、あるんだってわかった。……色んなものうしなって、絶望して……それでも小さな光が見えたんだから、あたしはそれに賭けてみたいの。だからお願い、もう一回あたしと勝負して!」


「――その勝負、しかとうけたまわった」


 総ての葛藤を呑み込んで、五郎太はそう返していた。


 これほどの女には二度と巡り逢えぬ――今日、もう何度思ったかわからないそんな思いが、五郎太をして亡きお屋形様への裏切りともとれるその言葉を吐かしめたのだった。


 そんな五郎太の姿に満足そうな顔でうんうんと頷いていたエルゼベートは、やがて五郎太に向き直ると、自信に満ちた晴れやかな笑顔で告げた。


「よし! なら、ゴロータは今夜からあたしの部屋で一緒に寝ること!」


「……あ?」


「ゴロータだって女ぎらい治したいんでしょ? だったら、まずは女に慣れないと! 毎日あたしと同じ寝台ベッドで寝てたら、そんなのすぐ治っちゃうわよ!」


「同じ寝台!? なにをばかな、そのようなことできる道理が――」


「いいから! この勝負はあたしの仕切り! 反論は認めない!」


 まだ不平を言い立てようとする五郎太だったが、自信満々にそう言い切るエルゼベートを、黙って首を振った。


 まだ祝言もあげていない内から早くも尻に敷かれている自分に不甲斐ないものを感じながら――その不甲斐ない思いと共にこれからを生きてゆくのも、まあ悪くなかろうと思った。


「まったく、エルゼベート殿には敵わぬわ」


「エルゼ、って呼んで」


「……では、エルゼ殿」


「エルゼ」


「……エルゼ。宜しく頼む」


「うん、宜しくね!」


 エルゼベートはそう言うと、この日一番の笑顔を五郎太に向けてきた。夏の日の陽射しのように眩しい、それは笑顔であった。


 願わくば、この笑顔を曇らせることなきよう――そんな決意の中に五郎太は、己が初めて催した茶席がこの上無い成功の内にその挙句を迎えたことを、万感胸に迫る思いで認めた。



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