027 茶席(1)

 午後。エルゼベートはその女中部屋の前に立ち、扉を敲くのをためらっていた。


 別段、不審なところがあったからではない。むしろ何の変哲もない扉であったればこそ、それを敲くのがためらわれたのである。


 申し開きの機会を与えて欲しい――あのときそう言って頭を下げた五郎太から、昼前に小間使いを介して届けられた書状は奇妙なものであった。本日この時刻に、身ひとつでこの女中部屋へ来られたし、というものだったのである。


 その書状を読んだエルゼベートは、招待に応じようかどうしようか迷った。本音を言えば、もう五郎太とは顔を合わせたくなかったのだ。


 ――エルゼベートにとって、この数日間は息をつく間もないほど目紛めまぐるしいものだった。


 皇帝である兄が巡察中に襲撃を受けたとの報があり、生死の別もわからないということで急遽、自分が摂政に立つ話さえ持ち上がっていたところへ、いつも通り何事もなかったかのように戻ってきた兄から突然告げられた婚儀。


 当然、受け容れられるはずもなく、己の尊厳を賭けて立ち向かうことになった決闘と、思いも寄らなかったそこでの敗北。……その中で生まれたひとつの想い。


 その想いの指し示すところに従い、胸の内に固めた決意。迷いながら、何度もためらいながら、震える手で扉を敲いた想い人の部屋。そして、その部屋で自分を待ち受けていたもの……。


 父皇の横死により若くして即位せざるを得なかった兄を助け、幾多の戦場を駆けてきたエルゼベートは戦士としては既に古強者と言って良い。だが一人の女として――まだ十七になったばかりの乙女としては、その総てが初めての経験だったのである。


 ……とりわけ昨夜の出来事はしたたかにこたえた。天国と地獄の間を行き来するように大きく揺れ動く気持ちに、心が疲れてしまった。


 もう何もかも終わりにして楽になりたい……そう思う心に、けれどもすっと染み込んでくるひとつの言葉があった。


『……ただの一度。一度きりで良い。どうか俺に、申し開きの機会をいただけぬか』


 最後にもう一度だけ……そう思って足を運んだ約束の場所でエルゼベートが目にしたのが、何の変哲もないこの扉だったのである。


 このような場所で、あの方はいったい何をなさるおつもりなのだろう。そんな疑問が、エルゼベートに扉を敲くことをためらわせた。


 貴族が女中部屋を秘密の逢い引きに用いるのは聞かない話でもない。だがこんな日の高いうちからするようなことでもないし、それにあの方がその気であれば、今朝の夜明けを待たずに自分は彼のものになっていたのである。


 ……けれどもそうなると、このような場所に呼びつけたあの方の意図が益々わからなくなってくる。


 ただ、そうして思い悩んでいるうちに、エルゼベートには総てがどうでもよくなってきた。……何れにしてもこれが最後。あの方が見せて下さるという申し開きとやらを、この目で確かめるより他ない。


 そう思い、エルゼベートは目の前の扉に手を伸ばした。


「――入られよ」


 扉を敲くと、その向こうから返事はすぐに返ってきた。その返事を受け、エルゼベートは女中部屋の扉を開けた。


「……」


 その部屋に踏み入った瞬間、エルゼベートは不思議な感覚に襲われた。


 壁に掛けられた肖像画と、なぜかその前に活けられた花の他は、特にどうと言うことはない。この場に自分を呼びつけたお方は、いかにも女中部屋に置いてありそうな小さな焜炉コンロで、鋳物の鉄鍋に湯を沸かしているようだ。


 部屋の中にはそれ以外に何もない。寝台も姿見も、ひとつの家具も置かれていない。そんな空っぽの小さな部屋から……なぜだろう、エルゼベートは目が離せない。


 明り取りの窓から射す午後の陽の光が、鉄鍋から立ち上る湯気が、その傍らでうつわのようなものを用意している男の所作のひとつひとつが、何か特別な意味を持ったもののように目に映り、エルゼベートはまるで御伽おとぎの国に踏み込んでしまったような、あやしい気持ちに囚われるのを感じた。


「お座りになられよ」


 五郎太にそう言われ、けれどもエルゼベートはすぐには動けなかった。


 板目の床には薄手の絨毯が敷かれている。五郎太は靴を脱ぎ、絨毯の上に置かれた小振りのクッションのようなものにじかに座っていた。その手前にはもうひとつのクッションがあって、五郎太は自分にそこに座るよう促しているのである。


 ……じかに床に座ったことなどないエルゼベートにとって、そうするには多少の勇気が要った。それでもエルゼベートは五郎太と同じように靴を脱ぎ、脚を折り曲げ膝を揃えてそのクッションの上に座った。


「……よう参られた。かたじけない」


 言いながら五郎太は黒光りする火口箱ほくちばこのようなものを取り出し、入れ子になっている蓋を開けた。そして耳掻きのように小さな匙でその中から濃い緑色の粉を掻き出し、膝元に置かれた器に移し替えてゆく。


 うつわ――それはエルゼベートがこれまでに見たこともない器だった。いびつな形をしたサラダボウルのような深鉢で、白く光沢のあるに子供の落書きにも似た稚拙な、けれども見ようによっては興味深い模様のようなものが描かれている。あれは何だろう……そもそもあの器はなにでできているのだろう。


「石山の坊主共とのいくさで程々の手柄を立てた折に、お屋形様より賜ったものよ」


 そんなことを思いながら器を見つめるエルゼベートに、五郎太の声がかかった。


「え?」


「お前様が見ておるこの茶碗のことよ。取り立てて名物というわけでもないが、美濃の駆け出しの陶工が焼いたものであるによって、同じくこれからの俺が持っているのが良かろうと言われてな」


「……」


「以来、肌身離さず持ち歩いておる。なに、毛氈もうせんくるんでおけば割れはせぬ。戦場いくさばで茶をてるのが俺の密やかな趣味なのだ」


 そう言って五郎太は鉄鍋に煮え立つ湯を……何だろう、木でできたレードルのようなもので汲み、器にあけた。


 それから……これも何だろう、短い棒の先を無数に裂いた小さな箒のようなもの――としか言いようのない道具を手に取り、それで卵を溶くように器の中のものを掻きまわしはじめた。


 そんな五郎太の所作を、夢見るようにエルゼベートは眺めた。


「……このような道具を、総てゴロータ様がお持ちになられたのですか」


「ん? ……ああいや、茶碗の他は茶筅に茶匙、あとはそこの柄杓だけよ。流石に釜などは持ち歩けぬ。この釜と風炉ふろくりやでお借りしたのだ。ちょうど似通ったものがあったのでな」


「まあ……」


 やがて五郎太は掻きまわすのをやめると、おもむろにその器をエルゼベートの前に差し出した。


「飲まれよ」


 五郎太から声がかかる。エルゼベートは器を手に取り、その中を覗き込んだ。


 ほの白く泡立ち、湯気を立てる濃緑色の液体――しばらくの逡巡があって、エルゼベートは器を口につけ、ゆっくりとその中身を含んだ。

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