003 物ノ怪(3)
「……摩利支天が」
鎌がなかった。峻険にして美麗なる主峰に寄り添って聳える小峰、摩利支天の名の由来ともなった鎌が、根元から折れてしまっている。
五郎太は一瞬絶望に身を震わせ、だがすぐにその事実を忘れた。鎌が折れたことを、ではない。槍に鎌があったことを忘れたのだ。
これはお屋形様から教え諭された思考法である。弓が折られたらもとより弓がなかったものとして、腕が切られたらもとより腕がなかったものとして戦え――在りし日のお屋形様の言葉を耳の奥に聞きながら、五郎太はいったん距離をとった。
物ノ怪はすぐさま距離を詰めてこようとする。
けれども五郎太がまたがるのは並の馬ではない。『そちの家中にこの馬を乗りこなせる者などおらぬであろう』との挑発を添えて
(――さて、どうしたものか)
つかず離れず物ノ怪のまわりを駆けながら、五郎太はこの先を思案した。
一筋縄ではいかない化物であることははっきりした。と言うより、これまで遭遇した敵の中でもとびぬけて剣呑な相手と言って良い。よほど巧みに立ち回らなければ――いや、最善を尽くしたとしても十中八九こちらが負ける。戦況を客観的にみればどうしてもそうなる。
となれば、上策は逃げることだ。そもそも五郎太の側にこのような物ノ怪と争う理由はないのである。逃げたところで咎めだてされるいわれもない。三十六計逃げるに如かず、とはまさにこのようなときのための言葉であろう。
ただ一点、心にかかるのは兵たちが守ろうとした男のことである。
物ノ怪の一撃を受け地面に倒れ伏しているが、おそらくはまだ生きている。そして物ノ怪はもともとそれが目的であったのだろうか、こちらを気にしながらも時折その男に目を走らせてはとどめを刺す機会を伺っているように見える。実際、五郎太がひときわ大きく距離をとったとき、物ノ怪は倒れている男に向かおうとする素振りを見せた。
もとより五郎太にとっては縁もゆかりもない男である。だが五郎太がこの戦に推参したのはひとえに死んでいった兵たちに代わってあの男を守るためであり、そのことを思えば武士の一分にかけて見殺しにはできない。
けれどもこの屈強な化物と戦いながら隙をみてあの男を北斗の背に担ぎ上げ、諸共に逃げおおすのは不可能に近い。虎の巣穴から猪を引きずり出すようなものだ。
「……どのみち、殺すしかないというわけか」
口の中で呟いて、五郎太は腹を決めた。
――となれば問題はただひとつ。どうやってあの化物を殺すかだ。あの鱗の硬さは尋常ではない。北斗の突進に五郎太の膂力を合わせても貫けぬのだから、このまま槍一本で攻めていても埒が明かない。
そうなると鉄砲だが、槍で貫けぬものに鉄砲の弾が通るとも思えない。南蛮胴に中てたときのように跳ね返されるのが落ちだ。
加えて、撃てる回数のこともある。万が一に備えて弾と火薬は込めてあるし、ほくちに種火が残っていることは先刻確認済みだ。だがこの切羽詰まった戦いのなか次の弾込めなどできようはずもない。
撃てて一発。そうなるとこちらの武器は、鎌のない槍と一発こっきりの鉛弾。それで一切合切だ。そのわずかな材料でどうにか勝ちを拾わなければならない。
「さて、そろそろ
耳元でそう語りかけると、馬はやるなら早くしろと言わんばかりに荒い息で嘶いた。
頼みの綱は今こうしている間も物ノ怪の攻撃をかわし続けている北斗の脚だが、それもいつまで保ってくれるかわからない。一昼夜を駆けさせられた挙げ句に待っていたのがこれなのだから、この頼もしい馬もさすがに疲労困憊の極みにあるとみて良い。
物ノ怪の戦意は衰えない。威嚇するようにこちらへ向けちろちろと火を吐き散らす紅い口の中が見えた。
――卒然、五郎太は己の中に勝機を見た。それまでより大きく距離をとって物ノ怪の正面にまわった。そこで槍を鉄砲に持ち換え、ほくちを取り出しふっと息を吹きかけて火縄に火をつけた。
五郎太が離れたことで化物は倒れている男に向き直ろうとする。その一瞬の隙を、五郎太は見逃さなかった。
「いやあああッ!」
肺腑からの雄叫びをあげ、五郎太は物ノ怪に向け突進を開始した。
男に向かおうとしていた物ノ怪はその雄叫びで五郎太に向き直り、大きく口を開け火を吐きかけようとする。だがその口の中に炎が巻き起ころうとするまさにその瞬間、充分に接近した銃口から物ノ怪の口の中へ赤熱した一発の鉛弾が放たれた。
「ギアアアッ!」
口の中に吸い込まれた弾がどこにどう中ったのかわからない。だが弾はその勢いを虚しくせず、物ノ怪は絶叫して苦しげに身悶えた。
すかさず五郎太は馬の向きを変え、再び物ノ怪から距離をとってその横手にまわる。鉄砲を投げ捨てて槍を構え、今度は雄叫びはおろか息さえも殺して馬の腹を蹴り、悶絶する物ノ怪めがけて一直線の突撃に打って出た。
「いやあッ!」
馬が化物にぶつかろうとする瞬間、五郎太は鋭い声で吼えた。その声に反応して物ノ怪の頭がわずかに動き、血走った目が五郎太に向けられる。
――その目に、ありっ丈の力をこめて五郎太は槍を突き立てた。槍は勢い余って柄の半ばまで物ノ怪の中に埋まり、反動で馬は二歩三歩後ろへ退いた。
刹那、質量のある塊がうなりをあげ、五郎太の身体があったところを通り過ぎていった。振り下ろされた物ノ怪の
「……グェ」
――そこで物ノ怪は動きを止めた。踏み殺された蛙のように大きく口を開けて喉の奥から絞り出すような声をもらし、四肢を突っ張らせて一頻り全身を震わせた後、ゆっくりと崩れ落ちた。
その姿を、五郎太は馬上から静かに見守っていた。
口の中に見舞った鉛弾も眼窩に突き刺した槍も、遂には物ノ怪の致命傷になり得なかった。けれども物ノ怪が振り下ろした腕が槍の柄を押し下げることで、眼のまわりの骨が支点となっててこにより頭の中に埋まっていた槍の穂を持ち上げ、そこに収まっていた物ノ怪の脳味噌を掻きまわしたのだ。
物ノ怪の腕の攻撃がもっぱら上から下へのそれであることに、五郎太は気づいていた。うまく入ったのは運も大きかったが、五郎太の思惑通りの結果でもある。
物ノ怪は五郎太の筋書にまんまと嵌り、文字通り自らの手で
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