002 物ノ怪(2)

 が目に入ったとき、我知らず五郎太は呻いていた。


 争っていたのは人ではなかった。……いや、人には違いない。けれども人と人とが争っているのではなかった。


 累々と横たわる焼け焦げたむくろの中、残された数人のつわものどもが相手にしているのは、五郎太がこれまで見たこともない巨大な物ノ怪だった。


 物ノ怪とは何とも子供じみた言い方だが、そうとしか言いようがない。あるいは悪鬼羅刹とでも言うべきか。


 人の三倍――いや、優に五倍はあろうかというそれはフカのような大顎と牙、そこへ大角を生やした怪異な頭を持ち、鱗に覆われた深緑の肌を見ればさながら竜だ。


 だが竜にしては奇妙に思える。四ツ足で地を這う竜など聞いたこともないし、何より口から火を吐いている。竜であれば地を這い火を吐くのではなく、天翔けて雷を呼ぶものではないか。


 ……などと愚にもつかないことを考えてしまうほど、目の前の光景には現実味がなかった。今しも一人の兵が物ノ怪の腕に半身を薙ぎ払われ、臓腑を撒き散らしてこと切れようとしている。


 断末魔の絶叫――それを耳にしてもなお、五郎太には実感がわかない。ただここで問題となるのはあの物ノ怪が何物かではない。このままでは全滅するのは必定とみえる彼らを助太刀するために己が推参するか否か、唐突に五郎太に突きつけられた選択肢はそれだった。


 また一人、兵が火に包まれる。人肉が焼けるにおいが鼻をつく。


 ……嫌なにおいだ。幼き日のこともあってか、五郎太はどうしても焼き討ちが好きになれない。戦術として有効だとわかってはいても、自分が将であれば決してその手段はとらないと断言できる。生死は戦場の常であるにしても、なすすべもなく火の中に苦しみ悶え死ぬ無念はいかばかりであろう。ましてあのような異形に虫けらのように焼かれて死んでゆくあの者たちの想いは――


 そのとき、五郎太は兵たちの中に、彼らとは明らかに異なる装束で悠然と立ち尽くす男の姿を認めた。その男に向かって振り下ろされようとする物ノ怪の爪、それを身代わりに受けて一人の兵がまた命を散らす。


 ――あるじだ。あの者たちは主を守るために命をかけている。


 化物の爪が最後の兵を引き裂き、余勢で彼らの主である男の背を袈裟に払った。地面に膝を突き、そのまま倒れ臥す。命に関わる傷かは判然しない、だが次の一撃がくればもう終わりだ。


 あの男は無惨に殺され、勇敢な兵たちの死はまったくの無駄になる。そう思ったとき、五郎太の身体は動いていた。


「はいッ!」


 腹を蹴るや、北斗は物ノ怪に向かい真っ直ぐに駆け出す。一瞬のためらいもないその動きに、五郎太は思わず口元に笑みを浮かべた。


(さすがは北斗よ)


 腹の中で感嘆する。元来、馬とは臆病な生き物である。鉄砲がまだ珍しかった頃はその音に驚いて背の者を振り落とす馬が続出したという。


 その中にあって北斗は、耳元で大筒の音が鳴ろうとも身じろぎすらしない大胆者として家中では有名だった。


 決して大人しいわけではない。『上悍じょうかんの中のかんとはこのことよ』というお屋形様のお言葉通り、五郎太の他はまたがることすら許さぬ聞かん気の馬で、その大きな馬体も相まって誰にも乗りこなせなかったものを特別に賜ったのだ。


 だから五郎太としても北斗の剽悍さには信を置いていた。けれどもこんな得体の知れない化物を前に遅疑なく突っ込んでいけるほどの肝を持っているかまでは、当然わからなかった。


 俺が愛するこの馬は、なるほど飼い主と同じように度の過ぎた命知らずのうつけ者よ。胸のうちにそんなことを思って、つい吹き出しそうになるのをこらえながら、言葉が通じるとも思えないその化物を相手に五郎太は高々と名乗りをあげた。


「我こそは惟任日向守これとうひゅうがのかみ様が家臣、坂本五郎太重光さかもとごろうたしげみつなり! 悪鬼羅刹のたぐいと見た! 仔細は知らねど義によって助太刀致す!」


 最初の一撃。五郎太は物ノ怪の肩口を狙った。


 槍で突く標的として頭を狙うのは下策である。頭蓋の骨は意外に硬く、球形に近いこともあって突き刺さらないのだ。


 片鎌槍である摩利支天で真っ先に狙うべきはクビ。人が相手であればの話だがそれに尽きる。鎌で頸の血脈を掻っ切ればその時点で勝負はつく。事実、五郎太は数えきれぬほどの古強者をその手で屠ってきた。


 物ノ怪に頸脈があるかは未知数だが、大角が生えた頭蓋はいかにも硬そうに見える。まず一槍ということであればやはり他よりは柔らかそうな頸のあたりを狙いたい。


 もちろん物ノ怪とてただ槍を突き立てられるものではない。兵たちにそうしたように燃えさかる炎を吐きかけてくるが、北斗はまるでそれがわかっていたかのように横っ飛びに跳ねてそれをかわした。


 五郎太は何の指示もしていない。ただ鐙に足を踏ん張り、膝を締めて北斗から振り落とされまいとしていただけだ。あの程度の炎、北斗ならば難なくよけてくれる。五郎太の中にはそんな信頼があったのである。


 おかげで五郎太は充分に狙いを定め、渾身の気合いをこめて槍を繰り出すことができた。けれども槍の穂が物ノ怪の身体に触れたとき、五郎太は今一度驚愕の声をあげざるを得なかった。


「なんだと!?」


 がきん、と大岩を突いたような音がして、槍は弾き返された。


 ……信じられなかった。二人の鎧武者を一突きに重ねて刺し貫いたことさえある摩利支天である。いかに相手が物ノ怪とはいえ傷のひとつもつけられずにはね返されるとは尋常ではない。


 だが、戦場に思い込みは禁物である。事実を事実として認めない者はすぐさま死ぬことになる。近づいて見ればおおきな蜥蜴のような化物の肩口はその実、少なくとも槍では刺し貫けないほどに硬い。まずはそれを認めなければならない。


 けれども槍が通らぬでは勝負にならない。どこかに貫ける部分があるはずである。あれが蜥蜴の化物であるとして、最も柔らかい部分があるとすればそれはどこか――


「いやあッ!」


 裂帛の気合いと共に繰り出した槍は物ノ怪の脇腹に中った。だがまたしても信じられないことに、穂先は肉の中にめり込んでゆかない。体表がわずかにへこみはするのだが、鱗がよほど硬いのか貫けないのだ。


 歯が立たないとはまさにこのことだ――そう思うやいなや、物ノ怪の足が動いた。反射的に馬を後退させる。しかし、脇腹に突き立てようとしていた槍の穂がわずかに逃げ遅れた。


「……ぐっ」


 物ノ怪の爪が摩利支天の穂先にかかった。弾き飛ばされそうになるのをどうにか持ちこたえ、五郎太は離脱を試みた。


 ばきん、と大きな音がして槍にかかっていた力が抜け、直後、五郎太は虎口を脱した。けれども距離をとって仕切り直すために槍を構えたとき、五郎太の両目は愕然と見開かれた。

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