幽谷山列

 山と谷を縫うようにして走る荒れた山道を、リーズは一心不乱に駆け抜ける。

 かつては、中小諸国と旧カナケル王国を結んでいた険しくも重要な交易路だったこの道は、整備されていたころでも徒歩で最低10日はかかると言われていた。それが今では、踏み固められていた地面は崩れ、突然変異した魔獣がそこらじゅうを闊歩している。平らな土地にあった宿場町は廃墟と化し、体を休める場所すらほとんど残っていない。

 こんな道を苦労して進んでも、その先にあるのは瘴気に汚染されている(と言われている)人の住むことができない土地が広がるだけ。生半可な覚悟では、生きては帰れない地獄の道だ。


「ふぅ…………今日はもう休もうかな」


 荷物を背負っているうえに、馬よりも速く駆け抜けてきたというのに、今まで休むこともなく飲まず食わずで来たリーズだったが、そろそろ日が沈みそうな時間になると、さすがに止まらざるを得なかった。

 真っ暗になって何も見えなくなってしまえば、野営の準備をするのも難しくなる。そもそも冒険者なら、日が暮れてからの野営の準備では遅いのだが、リーズはそこまで本格的な野営をする気はない。ほんの少し食べて寝て休むだけだ

 その辺で朽ち果てていた倒木を、剣で適当な大きさに切り刻むと、炎魔術で着火して灯とする。


 疲れはほとんどなかったが、喉はカラカラで、おまけにとても空腹だった。

 リーズは背負ってきた背嚢から、大きめの水筒と、各地の仲間から貰った保存食を取り出し、丸呑みするように口に含んだ。


「んっ……ドライフルーツ入りの燻製肉、意外とおいしい。こっちのパンはチーズが入ってるっ」


 運動能力が桁違いな代償として、人一倍よく食べるリーズは、ここ数日で背嚢の中に入っていた保存食を大量に消費してしまった。普通の人ならあと10日以上は持つ量が残ってはいるが、リーズの消費速度ではあと3日で底が尽きるだろう。


「食べ物もちょっと少なくなっちゃったね。でもいいもん、シェラに会えたら、一杯ご飯を食べさせてもらおっと♪」


 夕食を食べ終えて、食糧の残量を確認したリーズ。もし、ロジオンの情報が間違っていて、この先に誰もいなかったら大変なことになるが、リーズはこんな時でも前向きに考えている。

 勇者が仲間を訪問して早々食べ物を集るというのは、よくよく考えるとあまりよろしくないことだが、久しく食べていなかったアーシェラの自慢の手料理の味を思い出すと、リーズの口の中からたちまちよだれがあふれてくる。


「シェラのご飯…………ふっくら焼かれて、肉汁がじゅわっと溢れてくるハンバーグ♪ お野菜とお肉がトロトロに煮込まれた、アツアツのシチュー♪ マカロニが入ったサクサクのグラタン♪ あとはデザートに、ウサギさんの形に切られたリンゴがあると嬉しいなぁ♪ えへっ……えへへっ……♪」


 頬杖をしながら炎を見つめるリーズの頭の中に、世界で一番大切な人が作ってくれる、世界一美味しい料理の数々と――――エプロンをつけてフライパンを握る、笑顔のアーシェラの顔が思い浮かぶ。


「休んでいる場合じゃないっ!!」


 リーズは突然そう叫んで立ち上がると、広げかけた荷物を乱暴にまとめて背嚢に詰め込むと、風魔術で突風を起こして、キャンプファイアーをこれまた雑に吹っ飛ばして片付けた。

 薪にはまだ炎がくすぶっていたが、この辺に燃える木は少ないので山火事になることはないはず。そんなことよりもリーズにはやらねばならないことがある。


「暗いのがなんだっていうのっ! リーズは勇者なんだから、暗い山道でも灯があれば楽勝なんだからっ!」


 どうやらリーズは、休んでいるうちにアーシェラに会いたい気持ちが高まりすぎて、我慢できなくなったようだ。

 もちろん勇者であっても、知らない山道を見通しの悪い状態で駆け抜けるなど危険極まりない。下手な場所に踏み込んで道に迷ったり、見えない谷底に落ちたりしたら、一巻の終わりだろう。


 それでもリーズは、寝る時間も惜しんで先に進むことにした。

 光魔術で光源となる灯の球を周囲に4つ浮かび上がらせ、魔獣が寄ってくることを承知で駆け抜ける。

 幸い旧街道はほぼ一本道で分岐などはほとんどなく、一歩間違えれば谷底に落ちるような箇所も見当たらない。かつては馬車がすれ違えるほどの広さの道だったのだから、その辺は安全なのかもしれない。


 何度か魔獣の襲撃を突破し、険しい坂道を登っていき、やがて空がうっすらと明るくなってきた頃――――リーズの前に、幅の広い崖谷と、そこに架かる幅広の吊り橋が現れた。

 これこそ、旧カナケル王国の国境「天絶の隙間」

 晴れた日でも谷底が見えない深さのこの谷は、古来、別世界への出入り口だと言われていた。そして何よりも、かつて魔神王の侵略があった際、避難民がこの道を逃げるときに橋が落ちて、大勢の人間が亡くなり、大勢の逃げ遅れた民が邪心教団にとらわれて生贄にささげられたという話もある。

 そう、こここそが、アーシェラの弱点である高所恐怖症を植え付けた、いわくつきの場所なのだ。


「橋が新しい。少なくとも、この先には誰かがいるみたい」


 橋のつくりを確認したリーズは、少なくともこの先にだれもいない可能性がなくなったことに安堵した。このまま進みたいところだが、夜も眠らずに駆け抜けてきたせいで体に倦怠感を感じていた。

 万全な状態で橋を渡るために、リーズは手早く朝食を腹に入れると、なるべく安全な場所を探して、2時間ほど仮眠をとった。


「橋の状態、よしっ! 一気に渡っちゃおう!」


 体力を回復し、頭もすっきりしたリーズは、改めて吊り橋を渡り始める。

 荷物満載の馬車が一度に数台通ってもびくともしない橋を渡ることに恐怖感はなかった。そこが知れない谷間を端から覗いてみると、リーズにはむしろその壮大なスケールの景色に感動すら覚えた。


「シェラ……ここを通るとき大変だったんだろうな」


 高いところが苦手で、高所に登るときは毎回涙目になっていたアーシェラが、自分のトラウマを作ったこの谷を渡るのには多大な恐怖を感じたことだろう。

 どうやって作ったのかはわからないが、これだけ立派な吊り橋を作るのには時間もかかったに違いない。

 それでもアーシェラは先に進むために、何日も我慢して…………


「あっさり渡っちゃったなぁ。でも、これで半分は進んだ」


 感傷に浸るまでもなくあっさりと橋を渡り切ったリーズ。彼女はわずか1日と少しで旧街道を半分まで進んだことになる。あまりの速さに、リーズ自身も少し驚いていた。

 リーズはふと、自分が進んできた道を振り向いてみる。

 リーズが歩いたことで少し揺れている吊り橋、その向こうには、暗い中リーズが駆け抜けてきた道が細く長く続いている。


次にこの景色を見るのは、リーズがアーシェラのところから帰るときだろう。


(そしてリーズは……泣きながらこの道を帰っていくんだろうな……)


 リーズがこの道を、今見ている方向に進む。それは、リーズがアーシェラに会えなかった時か、アーシェラに帰ってくれと言われた時か、はたまた王国に連れ戻される時か……

 いずれにせよ、リーズにとっては耐え難い悲しみになるだろうが、だからと言っていつまでも帰らないというわけにはいかないだろう。


(もう、振り返るのはやめよう)


 帰る時のことはその時になって考えればいい。

 再び前を向けば、まっすぐに下っていく道が続いている。今は一秒でも早く、アーシェラに会いたいのだから、進む以外に選択肢はない。

 駆け足で坂を下っていくリーズは、もう二度と来た道を振り返ることはなった。

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