6話「泥水と風と」
6話「泥水と風と」
冷たい。苦しい。怖い。
空澄は冷たい沼の水の中でもがいていた。
必死に腕をバタつかせて顔を上げる。
「ハァッッ………ゴホゴホッ………だ、誰か………」
必死に沼から這い上がろうと岸辺の草や枝を掴む。けれど、どこも滑りがあり上手く掴めないのだ。足場も悪く何とか地面に足を伸ばそうとしても水草なのか藻などに足が絡まり上手く動かせないでいた。
もがき苦しみながらも必死に手を伸ばすが届かない。そうしていく内に、体が重くなっていく。洋服が水を吸っているのもあるが、冷水で体が冷え、動いたことにより疲労が貯まってきたのだろう。このままでは、自分の体が沈んでしまう。その瞬間、更に空澄に恐怖が襲った。
(どうしよう………このままじゃ、本当に死んじゃう……苦しい…………)
静かな公園内にバシャバシャと水音だけが響く。けれど、まだ薄暗い明朝。公園内、しかも昨日白骨が見つかった場所など誰もくるはずもない。そんな事は空澄もわかっていた。だが、空澄は誰かが助けてくれるのを待つしかなかった。
「お願いっ………誰かっ………誰かー!!助けてっ!!っっ、ゴホゴホッ………」
力を振り絞って大きな声を出した時だった。泥水が口の中に入り、空澄はむせてしまう。それと同時に体に力が入らずそのまま沼底へと体が沈んでいく。
(もうダメだ………誰か………璃真………)
最後に璃真の名前を読んだときだった。頭の中に最後に彼と話した時の記憶が蘇ってきた。
『もし何かあったら、空澄のお母さんの呪文を唱えて』
お母さんから何度も伝えられていた呪文。
何か危険なこと、自分では解決出来なくなった時、死んでしまいそうな時、いざと言う時のため使うのだと教えて貰っていた。
『その呪文はあなたをきっと助けてくれる。だけど、辛い経験もするかもしれない。だから、使わない方がいいのだけれど………』そう迷いながら教えてくれたのだ。
その呪文を使ってもいいのだろうか?そう迷ったのは一瞬だった。
迷っている暇などない。今、ここで命を落としてしまえば、その呪文の意味もなくなってしまうのだから。
空澄は最後の力を振り絞って顔を水面から付き出した。思いきり息を吸い込み、最後のチャンスを呪文を唱える事に決めた。
間違えてしまってはダメだな。焦りながらも、空澄は繰り返し頭で覚えつつけてきた言葉を初めて口にした。
『‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐』
何の意味かもわからない言葉の羅列。
けれど、声に出すと何故か不思議もしっくりした。そして、その呪文を口にした瞬間、自分の声とは思えないほど頭に響き渡り、それがとても遠くまで届くイメージを感じた。そして、その言葉が輝いているように感じられたのだ。
不思議な感覚を覚えながら呪文を最後まで言い終えると、突如白い光が空澄の体から発せられ、それは薄暗かった空に向かって高く高く舞い上がった。そして、何かに向かっていく光がどこかの地上に落ちた時に、そこから真っ黒な羽が沢山が舞い降りてきたのだ。
その光が落ちたのだすぐ近くの公園の木々の間だとわかり、空澄はそちらを見つめたけれど、もう力が残ってはおらず、そのまま沼の中に全身が沈んでいった。
すると、刹那。沼の上に突風が走った。それを空澄が感じる事はなかった。その風は沼の中にまで及んだ。まるで、空澄を包むように風が発生したのだ。
空澄は溺れてしまいそうになっていたが、突然ゆっくりと体が浮いてくるのがわかり、驚きながらも、何度も咳き込んだ。突風は、空澄の周りをぐるぐると周り、球体のような形をつくるように風が吹いていた。
「な、何これ………」
やっと呼吸が整ってきた空澄は、辺りをキョロキョロと見回す。風に触れてみるが、そこにただの風の通り道になっているだけであり、くすぐったい感覚を感じるだけだった。けれど、この風が自分を支えていると思うと不思議な力だと思い、こんな事を出来るのはこの世界であの存在だけだと思った。
「………もしかして、魔女の力?」
「それはおまえの力だ」
空澄の後から声が聞こえた。
ハッとし、後ろを振り向こうとしたけれど、その前の体を抱き抱えられるのを感じた。気づくと、脚と腰を支えられ、所謂お姫様抱っこという状態だった。
そして、空澄はその人の顔を見上げると、そこには夜があった。
真っ黒な髪に、黒いコート。黒の上下の服を着込んだ男が目の前にいた。瞳は、深海のように青くそして暗かった。けれど、キラキラと朝日が射し込む瞳は不思議と輝きな持っており、空澄は思わずそれを見つめてしまう。綺麗だなと思った。
すると、その男はニヤリと笑った。切れ長の瞳に長い睫毛、そして真っ直ぐに伸びた眉毛と高い鼻。口角が程よく上がった唇。整い過ぎているその男はまるで映画に出てくる俳優のようだった。がっしりとした体は、大きすぎず、しなやかにも見える。
思わず見惚れてしまっていた空澄を、その男は「何だ?初めて魔力使って疲れたか?」と、今度は心配そうに空澄の顔を覗き込んだ。
綺麗な顔が間近に迫ってきたので、思わずドキッとしてしまったが、彼の言葉の意味を再度考えハッとした。この男は魔力を使ったのがまるで、空澄自身だと言いたげだった。
「………私が魔力を使った?何言ってるの?私は魔女じゃ………というか、あなたは誰?あなたが、魔王なんじゃ………」
「質問が多いな………だけど、ここで悠長に話している時間はなさそうだな」
いつの間にか風の球体は失くなっており、空澄の体が浮いているのは彼が何か魔力を使っているからのようだった。
どうして、知らない相手、しかも魔王に抱きかかえられているのか不思議な状況だったけれど、彼から離れてしまったらまた沼に落ちてしまう。だから、仕方がなく彼の体にしがみついているのだ。そう思うようにした。
それに、彼は魔王と言われても怖いと思わないから不思議だった。
青黒い瞳をキッと睨み付けて彼はどこかを見ていた。けれど、それがまだ暗い西の空から、何か光っているものがこちらに向かって飛んできているのがわかった。飛行機やヘリコプターなどかと思ったけれど、それよりも大分小さく、そして早く見えた。
「これだったら………撒けるな。おい、空澄。俺に掴まってろ」
「え………?」
「そんなんじゃダメだ。腕を首にまわして」
「は、はい……」
「いくぞッ!」
この魔王は何故、自分を助けてくれたのか。
母から教わった呪文は何だったのか。
そして、目の前の男はどうして自分の名前を知っているのか。
そんな疑問が頭をよぎった。けれど、その考えは一気に消えてしまう。
ジェットコースターのように、突然体が勢いよく動き出したのだ。
「ーーーーっっ!!」
あまりに高速で、叫び声も出なかった。
必死に彼にしがみつくと、男が「くくくっ」と笑う声が聞こえてきたけれど、それに文句を言っている暇もなく、空澄は苦しさと恐怖に耐えたのだった。
けれど、それもあっという間の体験だった。
男は空澄の家に戻り、鍵がしまっているはずのドアに手を差しのべ「-----------」と、聞いたこともない言葉を発すると、ガチャンとドアの鍵をかけ、そして今度ほ長い呪文を唱えた。
「これで、今日は諦めるだろうが……」
と、男は独り言を呟いていた。
沼の水で濡れた冷たい体を抱きしめながら、恐る恐る彼を見上げる。
すると、その黒の男は空澄の方を向き、安堵した表情で優しく微笑んだ。
「やっとあの呪文を言ってくれたんだな」
その声と表情を見てしまったら、空澄はその男が怖いとは思えなくなってしまった。
それぐらいに優しく、そして懐かしい微笑みだった。
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