1話「最後の日常」






   1話「最後の日常」





 携帯のアラームが鳴り、目を覚ますとコーヒーと甘いパンの香りを感じる。この家に誰か居るのだと教えてくれる。安心する瞬間だ。

 

 空澄は欠伸をしながらアラームを止める。布団から出した腕でひんやりとした空気を感じ、思わずまた布団の中に腕を戻したくなる。が、ここで寝てしまったら同居人の彼が怒ってお起こしに来る事が容易に想像でした。普段優しい人が怒ると怖く厄介だというのは、本当だと空澄は常々思っている。


 空澄は意を決して布団を剥ぎ、体を起こした。洗面所で歯磨きをして顔を洗い、部屋に戻ってから着替えとメイクをして出勤の準備をした。その間、スマホもテレビも音楽も付けない。支度に集中しないと遅れてしまうギリギリの時間に起きてしまうからだ。余裕を持って起きればいおのだが、社会人になってそんな生活を何年も続けていると、それが習慣になってしまう。

 メイクを終えて、ミルクティー色の髪をハーフアップにしてシュシュで髪を結ぶ。空澄の髪色は元からそんな色のため、みんなに羨ましがられたし、空澄自身も気に入っていた。

 全身鏡で身だしなみをチェックする。まだ4月の頭の寒い時期だが、厚手コートは着ないでニットで中を温かくして、トレンチコートを持って部屋を出た。




 「おはよう」

 「おはよう、空澄」



 空澄が起きてきたのがわかったのか、コーヒーを淹れて待っていてくれたようで、彼からコーヒーを受け取ってダイニングのテーブルに座った。並べられているのは、ハムエッグとサラダ、そして野菜たっぷりのサンドイッチだった。食卓には2人分が向かい合って置いてある。



 「いつもご飯の準備ありがとう」

 「僕の方が料理が上手いから」

 「………璃真は朝から意地悪ね」

 「冷める前に食べようか。いただきます」

 「いただきます」



 空澄はじとっとした視線を目の前に座る璃真(あきさね)に送りながら、手を合わせて挨拶をした。

 新堂璃真は空澄の幼馴染みだった。

 両親を早くに亡くした2人は、空澄の家で共に暮らしていた。学生の頃は空澄の祖母が面倒を見てくていたが、社会人になる少し前に祖母が亡くなってからは、空澄と璃真の2人きりで暮らしていた。空澄は小さな会社のOLで、璃真は大手銀行のSE(システムエンジニア)だ。彼は「空澄の家で暮らしているのだから」と家賃を入れてくれていた。空澄は断っていたが、勝手に毎月入金してくるからたちが悪い。毎月多めに入れるため、空澄の貯金はかなりの額になっていた。そのため、光熱費や食費などは全て空澄もちにしていた。


 黒のスーツを着た璃真は、背筋をピンっと伸ばしたままとても上品に朝食を食べていた。ふわふわな茶色の髪に、少し明るい赤茶色の瞳。柔らかい雰囲気の顔にとても合っていた。身長も高くほっそりとした体のため、璃真は昔からモテていた。それなのに、彼女が居た事はほとんどなかった。



 「何?僕の顔に何かついてる?」



 彼の顔を見たままボーッとしてしまっていたため、璃真が怪訝な顔で空澄を見ていた。隠すことでもないので、空澄に今の気持ちを彼に伝えることにした。



 「璃真はかっこいいし料理も上手いし、お金だってあるし、仕事も頑張ってるし……それなのに何で彼女作らないかなーって」

 「何それ」

 「だって、そうでしょ?お花見デートとか行かないの?」

 「そんな相手いないよ」

 「勿体ないねー」



 その話は終わりとばかりに璃真はサンドイッチに噛りついた。こう言う恋愛話になると、璃真とすぐに話を終わりにしてしまう。

 空澄は苦笑しながら仕方がなく、食べることに集中したのだった。



 2人の出勤時間がほとんど同じなため、璃真と空澄は一緒に家を出る。璃真が作ってくれたお弁当を持ち、そして冷蔵庫から水筒とある物を持っていく。



 「毎日それで飽きないの?」

 「だって違う味だと食べてくなかったのよ」



 そう言って、空澄はヒールの靴を履き玄関の扉を開いた。



 「おはよー、海!」


 

 玄関を出るとそこには小さな庭がある。そこに、真っ黒な鴉が居た。空澄を見つけると、ちょんちょんと小さく飛びはねながらこちらに向かってくる。



 「今日も可愛いねー」

 「アーッッ!!」



 海(うみ)と呼ばれた鴉は、空澄に頭を撫でられると、青色の瞳を閉じて気持ち良さそうに体を近づけてくる。海は、空澄が子どもの頃から懐いており、外に出るといつも海が近寄ったり、遠くで見ていてくれていた。それは大人になっても変わらずであった。



 「はい。今日のチーズだよ。今日はカマンベールチーズにしてみましたー」

 「カァッ!」



 海がチーズを3切れ差し出すと、くちばしを上手に使い、1つずつ食べ始めた。



 「チーズが好きなんて、本当に変わってる鴉だよな」

 「チーズが入ってるものなら何でも食べるよね」



 表情がないように見える鴉だけれど、チーズを食べている時はいつもよりも顔が柔らかくなっているように空澄は感じていた。

 海という名前は空澄が勝手につけたものだった。両親が居た頃からいるこの鴉は、普通の鴉と違って瞳の色が真っ青だった。深くそして澄んだ青はまるで海のように思えて、子どもの時に「海って名前ね」と言って決めたのを今でも覚えていた。その時に両親は驚きながらも微笑み「ぴったりだ」と喜んでくれ、海も大きな声で鳴いて、羽をばたばたとさせてくれたのだった。



 「ほんと、この鴉は変だよな。チーズが好きなんて」

 「変って言わないの。好みなんだからねー」

 「いや、変だろ」

 「カァーー!」

 「ほら、怒った。……璃真と海は本当に仲が悪いよね」



 璃真が海の悪口を言うと、海は彼に向かって抗議を言うかのように大きな声を出して飛びかかろうとした。璃真は咄嗟に後ろに下がって避けて「………ほんと、俺には懐かないよな」と苦笑した。

 海は空澄と昔から一緒。ということは、幼馴染みである璃真と海もずっと一緒なのだが、何故か彼には懐いていなかった。



 「空澄、そろそろ行かないと遅刻するぞ」

 「そうだね。じゃあね、海」



 空澄は海に小さく手を振って別れる。けれど、海は空高く飛び上がり電線に止まった。

 そして、空澄を追うように海はずっとついてくるのだ。電車に乗って、職場に行ってもいつの間にか近くの建物の屋上のフェンスや近くの公園に海は居るのだ。見守っていてくれているようで、空澄は嬉しいがきっと食べ物がほしいのだろうな、と思っていた。


 近くの駅に着いてからは、璃真とは違う電車に乗るので改札で別れる。



 「今日の約束覚えてるよな」

 「うん。今日はダブルバースデーのお祝いだからね」

 「そうそう。場所は僕が予約してあるから、教えた駅で待ち合わせね」

 「うん、わかった。じゃあ、また後でね」

 「あぁ………。なぁ、空澄?」

 「ん?」



 離れる間際、璃真は空澄の手を取った。

 彼の手はとても冷たく、空澄は驚いてしまった。けれど、璃真の表紙がとても真剣で、まっすぐ見つめられていたので何も言えなくなってしまう。



 「………ごめん、何でもない。話は夜するよ」

 「何?気になるよ……」

 「遅刻するから。……仕事、頑張って」

 「うん」


 

 先程の彼はもうそこには居なかった。いつもの優しい笑顔の璃真が目の前に居る。普段の違う様子に戸惑いながら、空澄は彼に向かって手を振って見送った。

 いつもならば、すぐにホームに向かうはずだが、今日は璃真が見えなくなるまで背中を見つめていた。

 そうしないと、何故だか彼が消えてしまうような気がしたのだ。




 その予感は当たっていたのだと気づくのは随分後になってから。

 この時から、空澄の今までの「普通の生活」を過ごすことは出来なくなる事のだった。








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