至聖
夏鴉
至聖
「神はいつも見ておられます。天上より私たちの行いを見守っておられるのです」
その教会のシスターは模範的な聖女だった。
弱きに手を差し伸べ、強きに屈さない。清貧を重んじ、差別も区別もなく教会を訪れる者たちを清廉なる笑みで受け入れる。
治安は最悪。警察など機能していない地域でありながら、シスターの性質の故か、教会でだけは誰もが平等で、平穏だった。
「あなた方の苦しみも神は知っておられます。だからこそ、あなた方は此処に導かれた」
「おお……聖女様……」
「どうか涙を流さないで。此処に苦しみはないのです。さあ、このパンを」
かさついた老人の手に固いパンを握らせてシスターは微笑む。その足には無垢な子供たち。舌足らずにシスターを呼び、丸い瞳を細める。彼女がそれを退ける筈もなく、白い手が子供の頭を撫でる。
「神は慈悲深くいらっしゃいます。誰もが此処では救われねばならないのです」
「なんとお美しい」
「こんな所にいて良い方ではない」
「この方こそ神に愛された御子に違いない」
口々に誰もがシスターを褒めそやした。しかしシスターは微笑するばかり。
「誰もが神に愛されているのです。私だけではなく、誰もが」
子供たちを柔らかく外へと促し、貧富を問わず集った信者たちに向き直る。彼女の背後で教会の戸は閉ざされた。
「神は祝福を与えてくださいます。誰もが、それを受け取る資格があるのです」
シスターのウィンプルがふわりと揺れる。人々の集う真中をゆったりと歩みながら、彼女は穏やかに話し続ける。
「私は神より啓示を受けました。苦しむ人々に祝福を分け与えよと命じられたのです。苦しみより解き放ち、楽園への道標を与えよと」
教会に備えられた大きな十字架。うっとりと見つめてシスターは笑む。人々には見えていない。
「ああ、神に感謝します。私に人々を救うという使命をくださった」
彼女は向き直った。シスターの目の前には講壇。その上には並々と水の注がれた水差し。おもむろにシスターは懐から小さな包みを取り出し、かさりと開いた。
白く、きらきらとした粉。
清廉な笑みはそのままに、シスターは粉を注ぎ入れた。瞬く間に粉を溶かし、元の透明を取り戻す水。ずらりと並べられたカップに水を注ぎ分けながら、歌うようにシスターは言う。
「享受せよ、さらば楽園は目前に」
・・・・・
そのシスターは敬虔なる信者であった。
誰もを分け隔てなく扱った。彼女が恐れるのは神の啓示に背くこと。神の怒りのみであった。
だから、シスターはいつも微笑を崩さない。剣呑な男たちに四方を囲まれていたとしても。
「シスターさん、ほら、今回の分だよ」
「ああ、ありがとうございます」
寧ろ男たちの方が気味悪そうに眉根を寄せながら、彼女に包みを手渡す。それでもシスターは変わらない。心の底から安堵したように笑みを零す。
「アンタたちはお得意様だからなあ、ま、今後ともよろしくな」
「はい、もちろん」
人一人を容易く殺せる程の、それどころではない大量の薬の包みを抱えながら、シスターは頷く。
「だが、今度から値段は上げるぞ」
「何故ですか?」
「俺たちも人々を“救って”やりたいんだがなあ、財政難って奴でね」
「まあ!」
目を丸くしてシスターは驚く。
「そうだったのですね……」
そして心から憐れむように目を伏せる。
「あー、ま、そういう訳でね、次からは――」
「ではその腕の飾り物は?」
ぴしりと、場の空気が固まった。
「見た所とてもお高そう……そのお召し物も。売ればきっと、まとまったお金になります」
「あ、ああ、まあ」
「それに」
彼女の首が傾げられる。
「大司祭様に聞きました。そちらにも、仰られていると」
「当たり前だろ! 金がなきゃアンタらにヤクを卸せねえんだからよ」
「ああ神よ。哀れなこの者をお救いください」
男たちは鼻白んだ。シスターと会話が出来ていない。噛み合わないまま、シスターばかりが言葉を継いでいく。
「富は人を狂わせます。権力は人を堕落させます。私たちは分け与えて生きていかねばならないのです。だって、神は見ておられるのですから」
「何だコイツ……!」
「大司祭様も嘆いておられました。お前たちの罪を告発するなどと、惑乱して叫ぶあなた方に悲しんでおられました。富を独占せんとするその心、神に背くその言動」
「頭がおかしいんじゃねえのか!」
「ああ、あなた方は――悪魔に魂を売ってしまったのですね!」
シスターは、叫んだ。彼女の、彼女だけの理論と結論。周りの誰もを置き去りにして、シスターは懐に手を差し入れた。
「であるならば、神に許しを請わねばなりません!」
「殺せ! このイカレ女を――」
無数の銃声が、暗い路地に木霊した。
・・・・・
「享受せよ、さらば救われん」
教会に集った人々は我先にとシスターに与えられた水を飲み干していく。血走った眼を隠しもせず、しかし静かに。
やがて、教会の中に笑い声が弾ける。
芯のない、意思の篭らぬ虚ろな笑声。からんからんと人々の手からカップが落ちる。
「ああ神よ」
意思の攪拌された廃人たちを前に、シスターはうっとりと微笑む。
「祝福に感謝します」
至聖 夏鴉 @natsucrow_820
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