第6話 リンゴの獣の耳


 目を覚ますと、ソファに転がされていた。後頭部がズキズキと痛む。


「目、覚めたの?」


 仁王立ちの詩が俺を睨んでいた。ここ最近で一番、冷たい目をしていた。おかしい。夏なのに涼しい。主に背筋が。


「お姉ちゃん、ショックだったな。弟が変態だったなんて、知りたくなかった」

「悪かった……」


 俺はとにかく頭を下げた。


「私は別に良いけど。どうせ姉弟だし。それより、まずはリンゴに謝ってよ」

「リンゴ?」


 詩の背後から、おずおずと顔を出したのは、例の浮浪児だった。彼女は詩のシャツを、まるでワンピースのように着ている。頭にはバスタオルを巻いていた。


「お前、リンゴって言うのか?」


 彼女が頷いた。


「……悪かったよ。ごめん」


 俺が言い終わるなり、詩の背中に隠れてしまった。


「ねえ、リンゴ。そんなに怖がらなくても、大丈夫だよ」

「……おこってる」

「違う違う。そういう顔なだけだから。ほら。怖い顔のイヌ(※注 おそらくシベリアンハスキーの事を言っている)っているでしょ? あれと一緒。元々、そういう顔してるだけで、怒ってはないの。そういう生き物なの」

「詩姉。そういう生き物って……」

「ほんとうに、おこってないの?」

「怒ってないよ。だから、それを見せても全然、大丈夫。ね?」

「おい。何の話だよ」


 リンゴはしばらく悩んでから、おずおずと詩の背後から出てきた。そして、彼女はこんなことを問う。


「いじめない?」


 こいつは、俺のことを何だと思ってるんだ。


「虐めねえよ」


 リンゴが詩の顔を伺う。彼女は頷いた。それを確認してから、少女は躊躇いがちに言った。


「……じゃあ、みて」


 そして、頭に巻いたバスタオルを外す。するりと落ちた布の下から現れたのは、伸びに伸びたボサボサの髪の毛。明るい茶色の柔らかな猫毛だ。そして、その髪の間に見え隠れする、耳。


「お前さん、この耳……」


 ただ、その耳は本来在るべき場所に無かった。頭の上に在った。三角形の形をした耳が二つ、頭の上に並んでいる。その耳にも、柔らかい毛がびっしりと生えている。

言うならば、獣のそれ。


「これって、秋葉原とかで見かける人じゃないよな?」


 一部の好事家は喜びそうだが。


「分かってると思うけど、コスプレとかじゃないよ」

「触っても、良いか?」


 リンゴが頷いたので、俺はおずおず手を伸ばす。


 温かい。


 確かに、三十六度前後の、人が発する温かさだ。造り物ではない。俺の指がくすぐったいのか、時折、耳がピクピクと動く。普通なら耳があるべき場所を見るが、そこには何も無い。真っ平らだ。


「はずかしい」

「あ、悪い」


 慌てて手を引っ込める。俯きながら頬を染める彼女を見ていると、とても悪いことをしている気分になった。


 風呂場で詩が上げた悲鳴の原因は、リンゴの耳だったのか。確かに、驚くのも無理はない。


「これは、いつから?」

「きづいたら」

「気づいたら?」

「……うまれたときから」


 もう良いでしょ、と言わんばかりに、リンゴはバスタオルを被った。


 虐めないか、と彼女は訊いた。


 その質問から、彼女がどんな人生を送って来たのか容易に想像できた。


 敢えて、俺はそいつのバスタオルを剥ぎ取る。


「え、な」


 俺は怯える彼女の目を真っ直ぐに見据え、彼女に言い聞かせる。


「珍しがって悪かったな。虐めたりはしねえから、心配するなよ」


 その言葉が本当である事を示すために、そいつの頭に掌を置いた。ワシワシと撫でる。


「ほらな?」

「……う、うん」


 そんな俺の様子を見ていた、詩が言った。


「かっこいい事するじゃん。証のくせに」

「一言、余計だろ」


 それから、リンゴは、もやしカレーを美味しそうに平らげると、眠くなったらしい。


 大きなあくびを一つ。


 俺のベッドは、当たり前のようにリンゴに充てがわれた。

詩は彼女に寝床を案内すると、リビングに戻ってきた。俺の隣、ソファに、すとんと座る。


「ねえ、証。何か心当たり無いの?」

「心当たり?」

「あの耳」

「……いや。聞いたことない」

「そっか……」

「異常進化、かもしれない」


 異常進化生物。


 それは、ニ○三○年代になって突如として現れた、異形の生物達だ。彼らは既存の生物は持たないような形質や特性を持つ。廃病院で出くわしたモグラも、その一例だ。


「でも、リンゴは人間だよ」

「人間だって生物だ」


 人間を記述コードする遺伝子も、カエルを記述する遺伝子も、アデニン、シトシン、グアニン、チミンという四種類の塩基対から成る。


 極論、人間と他の生物を分けるのは、その四種類の塩基対の並ぶ順番だけだ。人間だけが持つ「人間因子」なんてものは無い。言葉を操り、科学文明を築き上げようとも、人間が生物である事に変わりはない。


 様々な生物をベースにした異常進化が報告されている。人間も同じだ。ただ、人間の場合、遺伝性のナンタラ疾患ということで処理されるが。


 もしかしたら、俺達、律術士も、似たような存在なのかもしれない。


「まあ、リンゴの耳は、見た目ほど大きな変異では無いと思うけどな」

「そうなの?」

「耳の位置が、少し頭の上に寄っただけだ。そうだろ?」


 そして、そのくらいの変化は、起きても不思議ではない。


 その理由を、かいつまんで説明する。


 一人の人間を構成する細胞の数は六十兆ほど。


 驚くべきは、その六十兆もの細胞が全て、正しい場所に位置する、という事だ。眼を造る細胞は、きちんと頭蓋骨の二つの穴に収まる。手の平に目玉が現れることは、普通なら有り得ない。


 しかし、六十兆もの細胞を、どうやって制御しているのだろうか? 

 

 その答えが、Hox遺伝子と呼ばれる遺伝子だ。


 この遺伝子は、発生の段階で、各々の細胞に有るべき場所を教える。例えるなら細胞の道案内係だ。もしも、このHox遺伝子に突然変異が生じたら、耳の位置や形状が少しばかり変わった人間が生まれても不思議ではない。


「異常進化が現れる前から、六本指の人間だって報告されてるくらいだ。リンゴの耳も、そこまで常識外れじゃない」


 即席の講義を終えると、詩がまじまじと俺の事を見つめていた。


「何だよ?」

「改めて思うんだけどさ、証ってオタクだよね」

「……最初の感想が、それ?」

「尊敬はしてるよ? 一応」

「一応……」

「尊敬してるって! 流石は最年少律術士!」

「はいはい。元だけどね」


 そもそも、律術士にとって科学全般は必修科目だ。詩が勉強しなさすぎる。だから彼女は、いつまでも律術士(補)なのだ。


「リンゴの話じゃ、耳は生まれつきだろ? たぶん、今すぐに命が危ないとかは無いと思う」

「うん。それなら良いんだ」

「それより、詩姉。あいつ、どうするつもりだよ?」


 俺の問いかけに、詩は毅然として答える。


「怪我が治るまでは面倒を見るよ。その後は彼女に任せる。青色地区を出たいなら、助ける。戻るなら、それも止めない」

「まあ、妥当だな」

「でも、私は、青色地区には戻らないで欲しい」

「あいつは戻る方を選ぶ」

「何で?」


 リンゴの耳は、普通の位置が十センチずれただけに過ぎない。しかし、それだけで「獣だ」という強烈な印象を、見る者に与える。人間は普通じゃないモノが嫌いだ。

虐めないか、とリンゴは訊いた。


 その質問から、簡単に推測する事ができた。


「多分、あいつは人間が怖いんだ」


 そんな人間が、社会に溶け込むことが出来るのか。社会に居る限り、人と関わらざるを得ない。青色地区であれば、一人で生きていくことも出来た。最期、泥の中で野垂れ死ぬことになっても、少なくとも一人では居られる。


「そんなの悲しいよ」


 詩が言った。


「……そうだな」

「ねえ、証。目一杯、あの子に優しくしてあげてよ」

「目一杯、優しく……」


 どうなのだろう。


 それが正しい行為なのか、俺には自信が無かった。


「……まあ、飯くらいはきっちり食べさせてやるよ。あいつ、ガリガリだし」

「うん。そうだね」


 栄養の付くものと言えば、肉や魚。どれも値段が張る。さて。どうやり繰りしようか。そんな事を考えていると、俺は思い出す。詩に、訊かなければいけない事が有った。


「ところで、だ」

「何?」

「椿のシャンプー、買った?」

「そんな訳ないよ」

「そんな訳ないよ」


 嘘を吐いているくせに、その声の調子も、表情も、いつもとまるで変わらない。我が姉ながら恐ろしくなる。


「じゃあ、今から風呂場に確認しにいっても良いか?」

「買ってないって。お姉ちゃんの事を信じられないの?」

「買ってないなら、確認しても問題ないだろ?」


 流石に誤魔化しきれなくなったらしい。


「仕方ないじゃん! 髪は女の子の命なんだから!」


 詩は滑らかな亜麻色の髪を、見せつけるように掻き揚げる。


「素敵なお姉ちゃんのためなら一本三千円くらいのシャンプー安いもんだ、ってくらいの甲斐性は無いの⁉」

「さ、三千円⁉ シャンプーって、そんなにするのか?」

「当たり前じゃん」


 詩はふてぶてしくも言い放つ。


「良いじゃん。美人なお姉ちゃん。学校で自慢できるじゃん」

「そんな事しても、腹は膨れねえんだよ!」


 夏休み最初の夜は、久々の姉弟喧嘩で更けていった。

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