第18話
リンゴは、俺が掛けた保険だった。
煙幕の中、枝や根が張り出し、瓦礫の転がる夜の森を歩ける人間など、そうそう居ない。
しかし、リンゴにはそれができる。類稀な聴覚を以て、闇の中をすいすいと進むことができる。だから、スクーターでマフィアを振り切れなかった時には、この森に逃げ込む手筈になっていた。予め、リンゴに待機して貰っていたのだ。
ただ、詩は申し訳なさそうに言う。
「ごめん。リンゴにまで、こんな危ない事させて」
詩は最後まで、この保険に反対していた。しかし、リンゴは言った。
「わたしが、たすけたいの。わたしの、ともだちを、わたしがたすけたい」
詩はそれ以上、言葉を継げなくなってしまった。
「リンゴ。助かった」
彼女の頭に手を置く。すると、詩が俺の手をピシャリと叩いた。
「素直に褒めてやれよ」
「褒めないよ。危ないんだから」
「……詩姉が言うか?」
その時、リンゴが俺たちの手を引いて言った。
「ちかづいてきてる。ひとり」
リンゴが指で示す。しかし、目を細めてみても、その先は煙るばかり。それでも、
リンゴには分かるのだ。その耳は、この闇を見通す。
近くの瓦礫に身を隠す。間もなく、リンゴの言った通り、足音が近づいてきた。俺は瓦礫の陰を飛び出すと、そいつの鳩尾に拳打を叩きこむ。同時に万象律を発動。
雷霆の万象律
不意を突かれた男には、成す術も無かった。
そのまま地面に倒れたきり動かなくなる。気絶したそいつの手首足首を、結束バンドで縛る。そのどさくさに紛れて、男の首に掛かったドックタグのような装飾を引きちぎる。後で地下市場に売りに行くつもりだ。詩には黙って。
「一丁、あがり」
実際、夜の森で、リンゴは敵無しだった。相手が俺達に気づく前に、俺達が相手に気づける。後は逃げるなり、不意を突いて叩きのめすなり、自由自在だ。
やがて、森が途切れた。眼前、黒々とした水を湛えた運河がのっぺりと広がっている。遠く、ビルの灯りが、幽かに川面に写り込んでいた。
「リンゴ。大体、撒いたか?」
「ちかくには、もうだれもいない」
「ここまで来れば、もうすぐだな」
下流の方を見れば、橋が見えた。あれを渡れば、病院はすぐそこだった。
木立を抜け、橋に向かって一歩、踏み出す。
その時だった。
鼻先を何かが掠めた。
まるで、不可視の斬撃に撫でられたように。
鼻を手で押さえると、ヌラリと、生温い感触。見れば、ベットリと赤く濡れていた。血だ。肌が裂け、そこから血が流れている。
「伏せろ!」
叫ぶと同時に、リンゴを抱えるようにして森に飛び込む。這ったまま移動し、手近な瓦礫に身を隠した。詩も、猫のように素早い身のこなしで、瓦礫の隙間に滑り込む。
コンクリートに背中を預けながら、
「証。今の」
と詩が問う。
「多分、狙撃」
俺の鼻面を掠めたのは、狙撃銃から放たれた弾丸だ。俺の皮膚がパックリと切れて、血が流れていた。あと十センチ踏み出していたら、死んでいた。
「まずいな……」
病院に辿り着くためには、河を渡らなければならない。しかし、障害物の無い橋の上を歩いていたら、的にしてください、と言っているようなものだ。かと言って、このままここに身を潜めていても、マフィアが押し寄せるだろう。今頃、狙撃手は、仲間に俺達の事を連絡しているはずだ。
進めば狙撃銃。
留まればマフィアの群れ。
さて、どうする。
「お困りです?」
「当たり前だろ」
こんな時に何を言ってるんだ、と声の方を向けば、そこに居たのは詩でもリンゴでもなかった。
「春譜⁉」
「こんばんは。あーちゃん」
散歩でもしていたら出くわしたような調子で、彼は声を掛けてくる。
「お前、何してんだよ⁉」
リンゴまで驚いていた。彼女も気付かなかったらしい。靜動の万象律か。
「それはこっちの台詞ですよ」
呆れたように春譜は言う。暗闇の中でよく見れば、春譜は黒を基調とした迷彩柄の野戦服に身を包んでいた。
「お前さん、情報本部だろ? マフィアまで相手にするのか?」
俺の質問に、春譜は憤慨しながら答えた。
「巻き込まれたんですよ。別件で近くに来ていたんですけど、急にマフィアが銃撃戦を始めたんです。抗争だか何だか知りませんが、まったく、迷惑な話です」
「……それは災難だったな」
「あーちゃん、何か知ってます?」
「さあな」
「だったら、ここで何をしていたんですか?」
春譜が俺を睨む。
「さ、散歩だよ」
「嘘が下手過ぎですよ……」
冷や汗が一筋、こめかみを流れ落ちる。誰かを助ける為とは言え、詩が持っている麻酔は、違法な品物である事に変わりない。そして、こいつは自衛官だ。現行犯であれば、俺を捕える権利を持つ。
どうやって誤魔化すかと思案していると、
「春ちゃん。聞いて」
詩が口火を切った。そして、彼女は麻酔の事を全て、洗いざらい白状してしまった。
俺達まで罪に問われかねない。
それでも詩は、そんな事、毛筋ほども考えていかった。無辜の少女を助ける為であれば、多少、法律を無視するくらい仕方ないと、彼女は信じ切っていた。
詩が語るのを聞きながら、俺は俯いていた。
詩がしようとしている事は、確かに正義だ。
百人に訊けば、九十八人くらいは、正しいと答えてくれるだろう。
だけど、詩姉。
思い出してくれよ。
そんな正義が尊重される世の中なら、俺達は孤児なんてやってなかったはずだ。
案の定、春譜は言った。
「それは違法です。そして、僕は自衛官です。この意味、分かりますよね?」
「だけど」
詩は食い下がる。
そんな詩の様子を見て、春譜は笑った。
「まあ、手は貸すんですけどね」
「は?」
「もちろん、助けますよ」
あっけらかんとした調子で、春譜は言った。
「……お前さん、でも、違法だって」
「実際、法律とかそう言うの、あんまり気にしてないんで。さっきのは、あーちゃんが困る顔を見たかっただけです」
こいつ、本当に良い性格してんな。
「お前さん、一応、自衛官だろ?」
「そうです。だから、今回、手を貸すのは、一人の友人としてです。これは一つ貸しですね。というわけで、今度、何処かに遊びに行きましょう。デートです」
「デート? 頭湧いてんのか?」
不意に、殺気。
少し離れた場所に、松島が潜んで居た。野戦服の迷彩が、巧い具合に夜の森に溶け込んでいた。周囲を警戒していたらしい。殺気の出所は彼女だった。
「……で、デートな。考えておくよ」
俺は言い直す。
「それで、狙撃手が居るんでしたっけ?」
「あ、ああ」
「不法者の分際で夜間狙撃ですか。……スナイプ用の暗視装置なんて、何処で買ったんですかね? 最近、軍隊の払い下げ装備が出回ってるからなあ。特に、旧ロシアとか。しっかりして欲しいですよ……。まあ、取りあえず、ボクに任せてください」
ぶつくさ言いながら、春譜は森の外へ向けて歩いていく。
「お、おい! ちょっと待て」
「大丈夫、大丈夫」
鼻歌でも聞こえてきそうなほど軽い足取りで、彼は一歩、森から踏み出した。
瞬間、風切り音。
弾丸が飛来したのだ。
「大丈夫ですよ」
それでも春譜は、呑気に手を振ってくる。
銃弾は外れたらしい。
「松島。まだ?」
「申し訳ございません。今、しばし」
俺は、春譜たちの意図を察した。
ただ、余りにも常軌を逸している。
彼らは、狙撃手の位置を割り出そうとしていた。
しかし、その為に、生身の春譜が囮として姿を晒しているのだ。
馬鹿げている。
命中するのも時間の問題だ。
二発目の弾丸。
幸い、それも外れた。
その時、松島が言う。
「発射点、把握しました」
彼女までもが、春譜の横に並び立つ。その間にも弾丸は飛来する。しかし、彼女は表情一つ変えない。弾丸は幸運にも彼らを逸れたが、それが当然であるかのような顔をしている。
松島は、傍らに、松葉杖ほども有ろうかと言う狙撃銃を携えていた。その巨大な火器は、闇の中に在って、艶消しの黒に塗られてもなお、強烈な存在感を放つ。
彼女は立ったまま、その狙撃銃を構えた。
「……おい。嘘だろ」
思わず、声が漏れる。
人の頭を、直径三十センチメートルの円だとしよう。一キロ先の標的を弾丸で撃ち抜く時、許される銃口の向きの誤差は、僅かに〇・〇〇八度。最早、心臓の鼓動すら無視できない。さらに、そこに風や、温度、湿度の影響が加わる。
そんな長距離射撃を、立射という最も不安定な体勢で行おうとしている。
「頭部への着弾を確認。目標、沈黙」
その時、不意に松島が言った。
「え?」
銃声は思いのほか小さかった。余りにも呆気なく、一つの命が散った。まるで日常の動作のように、彼女は眉一つ動かず、遥か先の命を摘み取ってみせた。
「うん。良い腕だ」
招鳥が言う。
「恐縮です」
松島が恭しく答える。素人の俺でも、良い腕、なんて水準ではない事は分かる。神懸かり、とでも言えば良いのか。それから、春譜が無線越しに言った。
「こちらベータスリー。現在、E‐十八ブロックにて、銃撃を受けています。応戦中。どうぞ」
二言三言、言葉を交わすと、通信は終わった。
「行ってください。じきに応援が来ます」
「今回は借りが出来た。近いうちに返す」
「はい。楽しみにしています」
春譜がにやりと笑う。
その時だ。
リンゴが、春譜の腕を掴んだ。
そのまま、彼の腕をグイッと引いた。
瞬間、発砲音。
一瞬前まで春譜が居た場所を、弾丸が通り過ぎた。
茂みの中に、マフィアが潜んで居たのだ。
「春譜様。油断しました。申し訳ございません」
松島はそう言いながら既に、マフィアを地面に押し倒していた。マフィアの背中を膝で踏みながら、ナイフを彼の首筋に押し当てている。
春譜は青い顔をして答えた。
「……狙撃中だった。仕方ない」
リンゴに向き直ると、頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました。……ですが、ボクも、松島でさえも気づかなかった。どうして?」
「おとで」
「音? ……いや。その耳は?」
彼女の頭に、帽子は無かった。
いつの間に。
いや。
マフィアから逃げながら、夜の森を歩き回ったのだ。気づかないうちに帽子を落としていても、不思議ではない。
「悪い!」
春譜とリンゴの間に割り込む。
「この埋め合わせは、近いうちに必ず」
リンゴの背中を押した。
「待って!」
春譜がそう言うのも構わず、俺達はその場を走り去った。
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