第13話
「久しぶりだね。本気で喧嘩するの」
詩は敵でも見るような目で俺をにらむ。
「ガキの頃は、しょっちゅうだったけどな」
「無理矢理教えて貰うけど、我慢してね」
「無理だよ。詩姉は俺より弱い。弱いくせに望むことばかり大きい。嫌いだよ。詩姉の、そういうところ」
拳を構える。
「丸腰で良いの?」
「詩姉こそ。言っておくけど、手加減はしないから」
「あ、そう」
詩が静かに目を閉じた。そして、再び開かれたその瞳には、強い光が宿っていた。比喩ではない。本当に光っている。
強視の万象律
視力はもちろん、動体視力も底上げする。
「行くよ」
言い終わるや否や、詩は跳び出した。
しなやかな身体のバネ。
踏み出す一歩。
気づいた時、彼女は俺の目の前に居た。
勢いそのまま、右の上段廻し蹴り。
屈んで躱す。
空振りするも、詩は回る。
回って、左の裏拳に繫げる。
それも躱す。
全部、見えていた。
強視の万象律
俺の目にもまた、光が宿っているはずだ。
その時、詩の拳が、俺の頬を掠めた。実際、その一撃は見えていた。
しかし、見えるから、躱せるとは限らない。そのくらい、彼女の拳速は速い。厄介だ。早く決めないと。逃げてるだけじゃ、そのうち捕まる。
詩の右フック。
躱し損ねた振りをして、俺は重心を横にずらす。
それを、詩は好機と見た。
槍のように鋭い、前蹴りを放つ。
そう。
その大振りの一撃。
それが欲しかった。
その蹴りは直線的で、横に一歩踏み出せば、簡単に躱せた。
俺のよろめきが演技だったことに、詩は今更ながら気づく。
もう、遅いけど。
拳を、無防備な彼女の腹にめり込ませる。
詩の身体がくの字に曲がった、が、すぐに跳び下がる。
「詩姉。そんな大振りじゃ当たらないよ」
詩は、口元に垂れたよだれを拭う。
「……うるさい」
再び踏み込んでくる。今度は武器を持っていた。パイプだ。スイカ割に使った、鉄製のパイプ。
振り下ろす。
迅い。
後ろに下がって躱すしかできない。
しかし、ここは屋上。
逃げる場所は無い。
すぐに行き詰まる。
背中が鉄の柵に触れた。
詩はパイプを構えながら言った。
「何が有ったか教えて」
「嫌だね」
「そう」
詩はパイプを頭上に掲げた。そして、俺の肩口目掛けて振り落とす。固く鋭い音。
息が詰まる。まるで、金属と金属がぶつかり合うように、激しい音だ。事実、金属と金属がぶつかり合っていた。
帯磁の万象律
屋上を囲う柵を磁化した。瞬間的に発生した磁場がパイプを吸い寄せ、詩の手から奪い取っていた。
不意に無手となり、隙だらけの詩。慌てて距離を取ろうとするが、させない。地面すれすれを薙ぐように蹴って、彼女の足を払う。詩が尻餅を着く。そこには、水溜まりが有った。スイカを冷やして置いた鍋を、一連の攻防の間にひっくり返しておいたからだ。その水溜りに、俺は手を浸す。
「終わりだ」
氷結の万象律
瞬間、水溜りが凍る。
温度とは、原子の運動の激しさだ。ただ、二十五℃といっても、全ての原子が、同じ激しさで動いているわけではない。激しく動く原子も有れば、穏やかに動く原子も有る。二十五℃というのは、その平均だ。
もしも、偶々、運動の穏やかな原子が一か所に集まった場合、その温度はどうなるのか。
その結果がこれだ。
詩の身体は氷に絡めとられ、コンクリートの地面に磔になっていた。
そんな彼女を、見下ろしながら言う。
「詩姉。これじゃ弱すぎる。こんなんじゃ、何も変えられない」
「……何言ってるの? まだ、喧嘩は終ってないけど」
ミシ、ミシ、と音がする。最初、何の音か分からなかった。しかし、音の出所が分かると、今度は俺の背筋が凍った。詩が身体を起こそうとしていた。ミシ、ミシ、というのは、氷に亀裂が入る音だ。
「止せ!」
「やだ!」
ぐい、と詩が身体を起こす。彼女の肘が氷から外れる。力任せに剥したせいで、氷に貼り付いていた皮膚が破れる。血が滲み、その下の赤い肉が見える。それでも詩は、立ち上がろうとする。
「詩姉! 止めろ!」
「止めないよ」
躊躇いなく、もう片方の腕も引き剥がしにかかる。咄嗟に、詩の手を押さえつけていた。腕が震えるくらいに、力を込める。そうでないと押しとどめられない程、立ち上がろうとする詩の力は強かった。
「……みんな、良い奴だった」
詩は言う。
「てっちも、みなみも、シロも、あかねも、みんな、良い奴だった」
詩の口から出たのは、昔の仲間の名前だった。
「……だけど、誰も助けてくれなかった」
食べる物がない時も、寒さで震える夜も、誰も、俺達を助けてはくれなかった。
当然、彼らが死に行く時も。
「仕方ねえだろうが。そんなことは……。そういう世の中だったんだから……」
「仕方なくない。てっちも、みなみも、シロも、あかねも、仕方なくない」
詩は言う。
「そんな世の中、私は許すつもりは無いし、そんな世の中の一部になるつもりも無いの」
だから私は誰かを助ける、と彼女は言う。
「詩姉……」
この人は、何て強いんだろう。彼女と同じ経験をしたはずの俺が、彼女の様に考えることはできなかった。気づけば、俺の口から、自然と言葉が溢れ出していた。
「……だけど、嫌だよ。……詩姉まで、何処かに行っちゃったら」
俺を一人にしないで欲しい。だから、詩には危ない事をして欲しくない。結局、俺が思うのは自分の事だけだ。俺は詩のようには考えられない。詩のように強くなんてないのだ。どうしようもないくらい、ちっぽけだった。
いつの間にか、氷は溶けていた。周囲に立ち込める白い水蒸気だけが、そこに氷が在ったことを物語る。温くなった水溜りに、二人、重なるように寝転ぶ。俺は彼女の胸に顔を埋めていた。泣いていたのかもしれない。
不意に、ぽんぽん、と頭を叩かれた。
「……ごめん」
ポツリ、と詩が言った。
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