京都アニメーションテロと隻手音声とペイ・フォワード

隅田 天美

その手を握るために

 年末、師匠に勧められて『ペイ・フォワード』という映画を見た。

 流石、師匠が勧めただけあり名作であり、私の心に来るものがあった。

 特に、主人公の担任には似たような経験を持つ私も同情したし共感もした。

 そして、何故か京都アニメーションのテロ事件を思い出した。


 もう、話題にも上がることが少なくなったが今年の七月に『青木』なる人物が京都アニメーションで焼身テロを起こした。

 多くのアニメーターや監督が亡くなり、日本は元より海外等からも義援金や追悼や義援金が寄せられた。

 幸か不幸か、かの『青木』なる人物も大やけどを負ったが一命をとりとめたらしい。

 ネットやワイドショーなどでは『青木』容疑者は精神病を患っていたなどの真偽不明な情報が流布され、世論などは怒りを覚えた。

 私自身、精神病を持っているから言えるが、精神病を持っている全ての人が犯罪に走るわけではないし、多くの患者は自分と必死で戦いつつ仕事や家事をこなしている。


 年も暮れ始めの頃。

 インターネットサーフィンで私は、何故か白隠禅師の絵(禅画)を多く見るようになる。

 その頃の私は気分が陰鬱で目の前がモヤモヤしていた。

 今思えば、今年の夏に就職して、その疲労がかなり溜まっていたのだろう。

 みんな慰めたり優しくしてくれるが、それが自分の中で惨めさや情けなさを際立た出せた。

 死のう、と積極的に思わないが生きている意味や喜びを感じられなくなっていた。

 その時、出会ったのが『隻手』と呼ばれる片手の絵である。

 たぶん、モデルは描いた本人、つまり、白隠禅師の手だろう。

 白隠禅師が生きていた時代は江戸時代で、今よりも庶民の識字率は低かった。

 だから、絵を使って布教させる。

 禅画はそのために作られた。

 もちろん、『隻手』も意味がある。


 ここで、あなたに問題を出そう。

 両手で手を叩いてもらいたい。

 パンっとかペチンっなどと音が出る。

 では、片手で音が出せるか?


 解釈は色々あるし、たぶん、本当の正解は地獄だか天国だかにいる白隠禅師に直接聞かないと駄目だろう。

 ただ、最近、『隻手』を見るたびに想像する。

 白隠禅師が言っているように思う。

――お前さん、この手を握る勇気があるかい?


 私は怖がりだ。

 泣き虫だ。

 世の中も世界も他人も自分も怖くて怖くてたまらない。

 でも、私は仙人でもなければ神でもない。

 食べなければ死ぬ。

 食べるためには仕事をしないといけない。

 社会と関わらないといけない。

 冒頭のペイ・フォワードの教師も自分を守るために周囲に厚い壁を築いた。

 『理解する』『分かりあう』というのはドラマや小説などで美辞麗句のように言われるが、それは相手に傷を見せることだ。

 極端なことを書けば相手に対して弱みや気味悪いのを見せることだ。

 私が恐れたのは(そして、映画の教師も)恐れたのはそれだ。

 弱みを見せることで攻撃され、気味の悪いものをさらけ出すことで周囲から人がいなくなり孤立すること。

 それは、社会的な死だ。

 かの『青木』の言動を見ていると他人に弱みを見せることを嫌い、虚勢を張っていたのがよくわかる。

 いや、今の時代は人は「常に強くなければならない」という抑圧がある。

 強き者が勇者なのだ。


 でも、それは本当だろうか?

 白隠禅師が残した賛(禅画の解説)には「仏性は裸の心にある』という。

 では、仏性って何だろう?


 これもいろいろな解釈があるが、「本当の強さ」だと思う。

 もちろん、自分一人で何事も完結できればいいだろうし、それが理想なのだろうし、そうなる努力はもちろん必要。

 しかし、そうなれるのは文字通り仙人とか神様で人間は欠陥がいっぱいある。

 だから、足りない部分を誰かに助けてもらう。

 直接かもしれないし間接的にかも知れない。

『感謝』とは『ベイ・フォワード』のように恩を他人に施す『恩送り』なのかも知れない。


 それ以上に問題なのは、その助けの手を握る勇気だ。

 私は、この勇気がなかった。

 周りが必死で手を伸ばしても過去のいじめや裏切りを思い出し触れることを禁忌タブーしていた。

 仮に握ったとしても恐怖だった。

――何か返さなければ離される

 これが騒動トラブルになったり重圧プレッシャーになった。

 仮に白隠禅師が生きていて手を差し伸べても私は泣いて拒否しただろう。


 実のところ、完璧ではないにしろ政府や民間で引きこもりなどの問題に取り組み、相談窓口を設けている。

 もう一度書くが、彼らも完璧ではないし、予算などの割り当ても少なく今後も要努力なのだが……

 でも、手を差し伸べている。

 一番の問題は、差し出した手を握ることに恐怖することだ。

――怒られないか?

――冷やかされないか?

――馬鹿にされないか?

――裏切られて『自己責任』とか言われないか?

 などなどの悪い妄想(本人たちからしたら「予測」)で手を握ることができない。

 だが、差し伸べられた手を握るためには自分が腕を上げ手を広げて相手の手を握らないといけない。

 例え、千手観音が目の前に現れて全ての手を差し伸べても手を握らないと意味がない。


『ペイ・フォワード』を見て、『隻手』を考え、『京都アニメーション』のテロを思い出して新年に思いをはせる。

――希望を捨てちゃいけない。

――生きている限り、希望は残る。

――泣いても前から目を逸らしても生き続けろ。

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京都アニメーションテロと隻手音声とペイ・フォワード 隅田 天美 @sumida-amami

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