Part.2

 闇夜に同化する黒いシャツワンピースに光沢のある革靴、栗色の長い髪をした少女の歩く姿は、どこか異国じみていた。道路を挟んだ反対側の敷地では柵の外に向かって狂ったように吠える番犬のシルエットが薄っすらと伺えたが、少女はそれにはお構いなしに俯いて腕時計を眺めている。


 周囲を見回しながら歩みを進める少女は外灯の下で立ち止まり、夜空を見上げた。濃紺の背景に琥珀色の有明月が放物線を描き、淡い光を放っている。新の視線に気づいた彼女が素早くベランダの方を見遣ると、二人は束の間、視線を交わした。まるで幼少期に眺めた水星を思わせる少女の青い瞳に、彼は思わず目を奪われた。


 二人は互いに言葉を発することなく見つめ合っていたが、やがて悠然と姿勢を正した少女は彼に向かって小さく会釈を寄越した。新が反射的に同じ動作をすると、彼女はたおやかに髪をなびかせながら再び歩きだした。


「はぁ……。都会の子って感じだなぁ」


 うっとりした声を漏らしながら去り行く彼女の後ろ姿を目で追った新は、すっかり冷え切った身体を摩りつつ室内に戻り、段ボール漁りを再開した。


「お、あったあった」


 友人から貰った小箱を見つけた新は、何の躊躇もなく蓋を開いた。中には何の変哲もないキーホルダーがいくつか収められている。実のところ、彼は小学生の頃にはすでにその箱を開けてしまっていた。


 当時は何が入っているのかと期待したものだが、いざ開いてみると中身は空っぽで、拍子抜けした彼はしばらくそれを放置したのち、使わない雑貨や硬貨を入れる用途で今まで利用してきた。当初よりも埃や擦り傷が目立つが、思い出の品はなかなか捨てられないものだ。


 小箱をひっくり返して中身を空にした新は、玄関にある靴箱の上にそれを飾り、今後は部屋の鍵置きとして活用することに決めた。


「うん! いい感じかも」


 電子レンジで頂いたタッパーを温め、ひとまず適当な段ボールを机代わりに食事を始めていると、携帯電話に着信があった。


「もしもし」新はじゃがいもを口に運びながら、電話を耳に当てる。「――父さん?」


「どうだ、片付けは大体終わったか?」


「うん、大体ね」と彼は答えたものの、未だ半分近くの段ボール箱が腹を空かせた雛鳥のように口を半開きにして順番を待っていた。


「まぁ、初めての一人暮らしだ。ゆっくりやれば良いからな」


 父はまるで彼の状況を悟ったように優しい口調でそう答えると、「宮沢さんには、もう挨拶に行ったか?」と続けて尋ねた。


「うん、昼間に行ってきた。おばさんもおじさんも相変わらずだったよ」


「修哉に、……あぁ。おじさんには時々気にかけてもらうよう頼んでおいたが、あまりご迷惑をかけないようにな」


「うん。分かってる」と答えながら、新は頂き物の肉じゃがを堂々と食している。


「父さんは、正直まだ不安なんだよ。新が一人暮らしだなんて…」父は電話口の向こう側でため息を漏らし、「東京には、一度も連れて行ったことがないのにな」


「大丈夫だよ。父さんは心配性だよね」


 あっさりとした口調でそう答えた新は、箸で摘んだ人参を床の上に落とした。「――おっと」


「どうした!?」


「なんでもなーい」


「……そ、そうか」と再び父がため息を漏らすのが聞こえ、「そのうち父さんも遊びに来なよ」と新が明るい口調で応えると、彼はふっと息を吐くように笑った。


「そうだな。落ち着いたら一度、様子を見に行くよ。咲ちゃんには会ったのか? くれぐれも、失礼のないようにな」


「あぁ。それはちょっと、……助言が遅かったかも」


 食べ終わったタッパーをキッチンのシンクに置いた新は、蛇口を捻って水を流し始めた。「でも、たぶん大丈夫」


「新……」


 父は三度目のため息を漏らし、「そういう楽観的なところ、母さんそっくりだな」と言った。目尻に皺を寄せて苦笑いを浮かべる彼の姿が、新にも容易に想像ができた。


 通話を終えた新は、台所に立って鼻歌交じりにタッパーを洗い始めた。のんびり屋が過ぎる彼の性格を案じ、大学からは田舎を離れて一人暮らしをするよう母より命じられたのだが、本人は至って呑気なものである。過保護な父親は息子が心配なあまり裏から密かに手を回し、昔馴染みの宮沢家が管理するアパートを契約していた。


「こんなもんでしょ」


 洗い終えたタッパーを水切り棚に並べた新は満足げに頷いたが、それらは水分を含んだまま密着した状態で放置されていた。


 前途多難な、一人暮らしである。



「きみきみ! テニスとか興味ない?」


「はい。僕はテニスに興味がないですね」


 七回目にもなると、さすがに断ることへの躊躇ちゅうちょがなくなった新は、まるで英会話の例文を読み上げるように淡々と返した。


 入学式の日もそうだったが、オリエンテーションにやって来た本日もサークルの勧誘員がそこかしこに配置され、数メートル毎にジャージ姿の集団や派手なのぼりを見かける。新の地元では、お祭りの日ですらこれほどの混雑にはお目にかかれない。


 オリエンテーションを終え、さっさと退散しようと考えた彼は、自然と人気のない方へ足を運ぶ。ようやく人混みから脱したかと思えば、そこは太陽光の遮られたどこかの校舎裏だった。地面の土はねっとりとした湿り気を帯び、白衣を纏った学生がぽつりぽつりと渡り廊下を横切る姿を見かけるものの、皆一様に考え事をするような表情で静かに通り過ぎていく。


「あれ、あの子って……」


 向かい側から、一人の少女が歩いてくるのが目に入った。見覚えのある黒いシャツワンピース姿に、栗色の髪。それは先日の夜にベランダから見かけた女の子だった。色白の肌をした少女は明るい場所で眺めると思いのほか顔立ちが幼く、背も低い。とても大学生には思えなかった。彼女は今日も俯いて腕時計を眺めながら、時おり周囲を見回している。


 すれ違いざまに新と視線が合うと、立ち止まった少女は姿勢を正し、口元に薄っすらと笑みを浮かべながら会釈を寄越した。太陽光を帯びた青い瞳は、瑞々しさがひときわ増しているように感じられた。


 新も同様に会釈を返すと、すぐさま腕時計に向き直った少女は静かにその場を歩き去った。


「はぁ……。やっぱり、都会的だなぁ」


 感心したように頷いた新は、気を取り直して校門にあるバス停を目指した。しばらく歩いて見えてきた停留所には、長蛇の列が出来ている。溢れかえった新入生の群れは幾度も折り返され、今にも道路へはみ出さんばかりである。


「初詣みたいだな……」


 バスが到着する度にすし詰め状態で乗り込む人々を眺めていると、新はひどく気分が萎えていった。「――これは、無理でしょ」


 バスを諦めた新は、春の陽気に汗ばみながら駅を目指して歩き始めた。初めは意気揚々と足を進めていた彼だったが、住宅街へ入った途端に細長い一軒家が密集して建ち並び、入り組んだ狭い路地では何度も袋小路に行き当たった。


「ご近所さんがくっつきすぎだよ」などとぼやきつつさらに歩き回ると、いつしか彼は完全に方向感覚を失っていた。


「あの、すみません。駅ってどっちに――」


「急いでますので」


 通りを歩くスーツ姿の女性に声を掛けると、目も合わさず足早に通り過ぎていった。『都会の若者は、時間と追いかけっこをしている』と噂には聞いていたが、どうやら嘘ではないようだった。


 足に疲労感を覚え、燦燦さんさんと輝く太陽に向かって喉の渇きを訴え始めた彼は、角を曲がったところで運良くコンビニを発見し、ひとまずそこで飲み物を買うことにした。


「いらっしゃーませー」


 間延びした挨拶をする店員を横目に店内の端を歩き進み、奥のドリンクコーナーで飲み物を選んでいた新は、ふと思った。「そっか、店員さんに聞けばいいんだ」


 早速レジへ向かおうとすると、商品ラックに囲まれた狭い通路の中ほどで屈みながら、お菓子を見つめる少女の姿があった。


 それはつい先ほどにも見かけた、栗色の髪の少女だった。偶然見かけただけとはいえ、すでに多少なりとも親近感を覚え始めていた新が立ち止まって見下ろしていると、視線に気づいた彼女は静かに立ち上がり、例のごとく会釈を寄越した。


 都会の挨拶にはもはや慣れたものだと言わんばかりに会釈を返した彼は、そのまま澄ました顔で通り過ぎようとしたが、今回はすれ違いざまに腕を掴まれた。

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