小さなスプーンおくさん

プラナリア

小さなスプーンおくさん

穏やかな土曜日。私はいつも通り、キッチンで夕食の支度をしていた。

溜まった家事を片付けたら、PTAや地域役員の仕事。休日はあっという間で、きっと明日も同じ。月曜からは、また仕事に追われる日々。

もうすぐ、休日出勤した夫と、遊びに行った息子も帰ってくる。

今日のメインはシチュー。小学3年生になった亮太の、昔からの大好物だ。牛乳をとろりと入れ、弱火で煮込む。目分量でやったら、水を入れすぎたようで味が少し薄い。小さじを出すのは面倒で、手近にあったティースプーンでコンソメをすくってお鍋に投入。手元が狂ってスプーンが床に落ちたが、無視。お玉でぐるぐるかき混ぜ、味見をした私は頷いた。もう少し煮込めば、完成だ。


と、お玉を置いた途端、奇妙な感覚に襲われた。

世界が、どんどん遠のいていくのだ。

見下ろしていたはずのコンロが気づけば遥か視線の上になり、床が近づいてくる。

見慣れたキッチンが、見たことの無い世界に変容していく。視界いっぱいに広がる白。遥かに続く白い壁は、普段お鍋を出し入れしている収納だと途中で気付いた。


…もしかして、私が、小さくなってる?


床に転がるティースプーン。私はそのスプーンと、同じくらいの大きさになっていた。


なんで?いきなり、どういうこと!!??


チャララ~ララ、チャラララララ~♪


私の混乱した思考を遮るように、場違いに呑気なチャルメラが響き渡った。

携帯の着信だ、と気付く。

全速力でキッチンを駆け抜け、リビングに回り込む。面倒で床にバックを放置したままだったのが幸いした。ジャンプして取手を掴み、床に引き倒す。中に入り込んで携帯に抱きつく。そのまま床に転がり落ちた。

かなり時間がかかったが、しつこく携帯は鳴り響いている。液晶には、「亮介」の文字。夫だ。習慣で画面上に指を滑らせるが、反応しない。そうだった、小さくなっちゃったんだった。体ごとスライディングすると、やっと着信音が止まった。


「もしもし?みや子?」


聞き慣れた筈の亮介の声が、天からの救いの声のようだ。このタイミングで電話してくるなんて、さすが!!

お願い、助けて!!


「ごめん、仕事まだかかりそうだから、遅くなる」


はあぁぁぁ!?!?何言ってんの?昨夜もダラダラ夜更かししてゲーム三昧で、今朝も自分だけ朝寝坊して、さっさと出勤すればいいものを昼過ぎにチンタラ出ていったくせに、この緊急事態に遅くなるだあぁぁ!?

ばかあぁぁぁ!!


喉元まで上がってきた叫びを、飲み込む。

…緊急事態だけど。だけど、この事態を何て説明すればいいわけ?


「じゃ、夕飯先に食べてて」


私の沈黙を肯定と受けとめたのか、さっさと切電しそうな気配。


「待って!今日は、早く帰ってきて!!」


思わず電話にすがりつく。


「は?…何か、あった?」


私の切迫感を感じとったのか、亮介の声の調子が変わる。

えぇと、何かって、それはですね。


「あ…愛してるから!!早く帰ってきて!」


叫んでしまってから、我に返った。

何、言っちゃってるわけ!?

頬が上気していくのが分かる。


「……………」


しばしの沈黙の後、電話は切れた。


「何よ、その反応!!」


またしても叫んだ私の背後で突如響く破壊音。


ブシュウゥゥ!!ジューッッ!!


嫌な予感が走り、キッチンを振り返る。巨大なカウンターに邪魔されて見えないものの、白い湯気が立ち上っているのが視野に入った。


まずい、お鍋が吹き零れてるんだ!

このままじゃ、シチューが黒焦げ!

下手すりゃ火事!

まだローンが27年残ってるのに!!


私は再び、キッチンに駆け戻った。息を切らせてコンロを見上げる。

遥か彼方から、鍋蓋をガタガタいわせる不吉な音。吹き零れたシチューを舐めて、鍋底に赤い炎がちらつく。

私は歯噛みする。

どうすれば、夕飯と家を守れるわけ…!?


「せっかくいい気持ちで寝てたのに、騒がしいね。アンタ、何なんだい?」


突然、ドスが効いた低い声が響いた。

振り返ると、いつの間にかすぐ近くに、巨大な白い獣が忍び寄っていた。

妖しく光る瞳、牙が覗く口元。

しかし、上方にちらりと見えた赤い首輪に見覚えがある。


「フク!私よ、みや子よ!!」


私は愛猫に向かって叫んだ。

フクは、まだ両手にのるくらいの仔猫の時に、我が家にやって来た。

名付け親は、私だ。

痩せ細った小さな体が、ふくふくになりますように。そんな願いを込めた。

丸くなった寝姿が、大福みたいになったフク。

帰宅すると足にすり寄ってきて、私達を幸福にしてくれたフク。

家族として、ずっと一緒に生きてきたフク。


「…みや子?ネズミみたいなサイズになっちまって。そんなんじゃ猫缶も出せないね」


フクはつまらなさそうにそっぽを向いた。


ふくふくにはなったが、その分、図太くなったフク。

ブランド品のバックの上で昼寝し、一張羅のスーツを毛だらけにし、こちらの隙をついて一目惚れしたレースカーテンに爪を立てる。

そうだった、大事に育てた筈なのに、コイツはこういう奴だったと私は脱力した。


ブシュウゥゥ!!


上方から響く破壊音で、私は当初の目的を思い出す。


「フク!猫缶がどうとか言ってる場合じゃないわ、コンロの火を止めなきゃ!このままじゃ火事よ、あんただって猫の丸焼きよ!」


「はぁ?コンロ?そんなこと言って、どうやって止めるわけ?」


「それは、そうだけど、でも…!」


私はキョロキョロと辺りを見回す。ふと、転がったスプーンが目に入った。瞬間、閃く。


「あのコンロまで、フクなら跳べるわよね。私を乗せて、跳んで!」


フクは訝しげに私を見る。


「跳べるけど、アタシに火は止められないよ」


「フクじゃないわ、私がやる。これで、コンロのスイッチを押すの!」


私はスプーンを肩に乗せながら言った。


こう見えて、高校ではテニス部だった。

出産後ぐんぐん増加の一途を辿る体重をのせ、思いっきりスプーンで叩けば、スイッチが入るかも!


「…高校って、何十年前の話だい?」


「いいからやるの!うまくいけば、高級猫缶買ってあげるから!」


「成功報酬かよ!!」


ぶつぶつ言いながらも丸焼けは嫌なのか、フクが身を屈めた。首輪に手をかけ、背中によじ登る。片手にスプーンを持ちながらで、なかなかの重労働だ。

なんとか登りきり、呼吸を整える。スプーンを構えて、デジャ・ビュを覚えた。

何か、こういうの見たことある。


「もののけ姫」で山狗やまいぬに跨がるサンの姿だった。


私は思わず吹き出し、首輪をぐっと掴んでフクに呼び掛けた。


「行くよ、フク!」


フクが走り出す。BGMは勿論、美輪サンだ。


ジュウゥゥゥ!!


一際大きく不穏な音がした。


フクが跳躍する。


私はタイミングを見計らい、コンロに再接近した地点で、体ごとスプーンを叩きつけた。


「チェストおおおぉぉぉぉ!!」


確かな、手応え。


カチッと消火する音が響き渡った。


フクはコンロ横に積みっぱなしだった生協の箱に着地。

鍋を振り返ると、踊っていた鍋蓋が止まり、煮たっていたシチューは徐々にフェードアウトしていった。


…目標は、完全に沈黙した。


達成感にうち震える私を余所よそに、フクはクールに床に降り立つ。


「ほら、さっさと降りな」


「はいはい。ありがとね、フク」


ホッとしたのも束の間。


ピンポーン♪


今度は、玄関のチャイム!

きっと、亮太が帰ってきちゃったんだ!


亮太には、家の鍵を持たせていない。

私は青ざめる。

キッチンから廊下に続くドアは、固く閉ざされている。その先には、鍵がかかった玄関。

…どうしよう!?


私はドアへと走った。

ドアノブは、遥か上空。いつもなら何のことはないドアが、私の無力さを嘲笑うかのように立ちはだかる。


「…どうするんだい」


フクが低く呟く。答えられない私は、拳を固く握りしめた。


ピンポーン♪


戸惑うように、二度目のチャイムが鳴る。


「このまま、姿を消すって方法もあるんじゃないかい?」


はぁ?


予想外のフクの言葉。戸惑いを隠せない私に、フクは淡々と言う。


「その姿で家族の前に出るのかい。もう、食事を作ることも、洗濯も掃除もできない。亮太や亮介を抱きしめることさえできない。…それでも?」


正直、目の前の出来事で精一杯で、そこまで考えは及ばなかった。自分の足元が崩れ去るような衝撃。言葉が出ない私を、フクはじっと見つめる。


「みや子には世話になったからね。もし、そのままでも私が世話してやるよ。この家にいるのが辛ければ、外の世界に出よう。別の飼い主を見つけてもいいし、野良として生きていってもいい。アタシは狩りは得意だからね。何とかなるさ。自由気ままに生きていくのも悪くはないよ」


のろのろと言葉を吐く。


「私に、猫缶食べろって言うわけ?」


「高級猫缶もっと買っとけばよかったね。最近はいろいろ出てるから、気に入るのがあるかもしれないよ」


瞳を閉じる。


ドアの外で、私を待つ亮太の姿が見えた。


泣きそうな顔。震える手で、三度目のチャイムを鳴らしていいのか、逡巡している。

唇が動き、声にならない言葉が漏れる。


おかあさん。



私は瞳を開け、フクを見据えた。


「フク、私を乗せて、跳んで。私がドアノブにしがみつく。ノブが動いたら、体当たりしてドアを開けて」


フクが瞳を見開いた。


「アンタがぶら下がったって、動くか分かんないよ。だいたい、どうやってドアノブから降りるんだい?あの高さから飛び降りる気かい?」


「…落ちたとしても、私は死なない。亮太が待ってるのに、死ねないよ。私が動けなくなったら、フク、私をくわえて玄関に運んで。私には玄関の鍵を開けられないけれど、きっと亮介が帰ってきて、開けてくれる。それまで、亮太に声をかけてやりたいの。きっと心細い思いをしてる」


黙ったままのフクに、必死で訴える。


「フク、お願い、力を貸して。私は、ちっぽけな存在だけど…それでも、最後まで亮太と亮介のために、私にできることをしたいの。二人が私を拒否するなら、ありがたくあんたの舎弟にでも何でもなるわ。だから、お願い…最後まで、やらせて」


嗚咽が混じりそうになるのを、歯をくいしばって堪える。

フクが視線を外した。


「マタタビも追加しな」


え?


フクは跳躍し、その巨体ごとドアノブにぶら下がった!


ギイィィィ…


立ちはだかっていたドアが、あっさりと開く。


「えぇぇ、どういうこと!?あんた、そんな裏技持ってたの?さては、そうやって抜け出して寝室の布団の上で寝てたんでしょ!てっきり私が寝室のドア閉め損ねてたからだと思ってたのに!毛だらけの毛布、洗うの大変だったんだから!!」


「うるさいね、だったら猫ベッドさっさと買い替えな!何年同じの使わせるんだい、へたっちまって寝心地悪いったらないよ!」


私は廊下に駆け出し…

立ち止まった。


フクが、私のすぐ隣に座った。

モフモフの毛が、くすぐったい。あたたかな温もりが伝わる。


「ここで見ててやるよ」


私はフクにもたれ、頷いた。


「ありがとう」


もう一度走り出す。広大な玄関の前で、声を限りに叫ぶ。


「亮太!」


ガチャガチャッ!


途端、玄関の鍵が回るのが見えた。同時に、懐かしい声。


「お母さん、出掛けちゃったのかな?亮太、早く入ろう」


目頭が熱くなる。

亮介。帰ってきてくれたんだ。


「お帰りなさい!」


私の家族に向かって、叫んだ。


背後で、フクの眼差しを感じる。


ドアが開いて…


突然、世界が変容した。

床がぐんぐん遠退き、遥か上空にあったドアが目の前の高さになる。見慣れた日常の風景。


亮介と亮太が、怪訝な顔をして立っている。


「なんだ、いたのか?」


「お母さん、どうしたの?すぐ出てくれないから、びっくりしたよ」


私は笑う。瞳の端に、ちょっぴり涙を浮かべて。

亮太をぎゅっと抱きしめた。


「ごめんね、いろいろあって。でも大丈夫、私はいつでもお母さんやってるから」


閉じたドアの鍵を閉める。廊下の先のドアを開ける。それだけのことに、感動した。


フクを振り返る。くわあぁ、とアクビをしながら伸びをしている。そっと頭を撫でた。


「やったー!シチューだ!」


「盛大に吹き零したな。コンロ、ひどいぞ」


二人に向かって、声をかける。


「もし、私が小さくなっちゃったら、どうする?」


亮介がどうでもよさそうに答える。


「みや子は普段からぎゃーぎゃー喚いて存在感だけはあるからなぁ。小さくなったくらいでちょうどいいんじゃないか?」


亮太はきょとんとしている。


「小さくなっても、お母さんはお母さんだよ?」


なるほどねぇ。そうかぁ…。


「明日は、お買い物に行こう」


私は何とか焦げずにすんだシチューをお皿によそいながら、フクにウィンクする。


「フクの特上猫缶と、マタタビと、猫ベッド買わなきゃね!」


僕にも何か買って、と亮太が膨れる。亮介が疲れたとぼやきながら、冷蔵庫からビールを取り出す。我が家の、いつもの夕飯が始まろうとしていた。


床に落ちたままのスプーンを拾い上げる。


たとえ、スプーンくらいの大きさになったとしても。

私は変わらない。あなた達と共に、在りたいんだよ。


「にゃぁぁぁお」


フクが労を労うかのように足にすり寄った。あるいは、夕飯の催促かな。私は隠しておいた、とっておきの猫缶を開ける。


「明日は、一人でゆっくり出掛けてこいよ。亮太のことはやるから、たまには息抜きでさ。…いつも、ありがとな」

亮介が不意に背後で呟き、そそくさとテーブルへ去っていく。

どうしたんだろ。もしかして、電話の一言が効いたかな?

溜まった家事や仕事が頭をよぎるけれど…。でも、今日の私、我ながらよくやったよね。頑張り続けるために、たまには息抜きも必要だよね。

じゃあ、遠慮なく。明日は買い物して、久々に映画でも観ちゃおうかな。気になってた作品、まだ公開中だったよね?


私は夕飯をお盆にのせて、家族の食卓へ運ぶ。


「ご飯だよー」


いつもの風景。

毎日誰かが褒めてくれるわけではないけれど、精一杯頑張った自分に、心の中で拍手を贈る。

今日も一日、お疲れさまでした。

































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