遊行 晶

 「あれは不思議だったなぁ、って言うのよ」と、母が祖父の言い方を真似ながら話した。私がまだ大学生だった、二十年以上前の事だ。祖父が亡くなり、葬儀やそれにまつわる事務も落ち着いた頃だった。母は数十年忘れていた事を、父親の思い出につられて記憶が呼び覚まされたように話した。


 母の実家は北関東のS市の町医者で、母の父、つまり私の祖父が自宅で医院を経営していた。祖父はS市郊外の山間の小さな村落の出身で、東京の医大を出て研修を終えたあと、勤務医の募集に応じて都内の病院に就職し、そこで数年働いて資金を貯め、故郷に近いS市で開業した。

 S市は中心都市部こそ商業施設や学校、大企業の工場などが集積し、日本中どこにでもあるような地方都市の賑わいを見せていたが、市域のはずれは山地の裾野に接し、市内のどこからも遠景に山脈が見渡せた。祖父の自宅兼医院は、市中心部の国鉄駅から山地に向かう在来線(単線で、この国鉄駅が始発駅である)に乗り換えて半時間ほど行った無人駅のそばにあった。

 駅前に一軒小さな商店があるだけで、駅前の喧噪もなく、駅舎自体も小さな木造の平屋建てだった。駅の周辺は住宅地だが、都市部のそれと違って高層のマンションなどは皆無で、古くからある一軒家が大半なので各家の敷地も広く、空が広い事と相まってどこか寒々した印象がある。それに駅から少し歩けば住宅も途切れ途切れになり、田畑が広がる風景に変わる。そしてS市中心部よりも山が近い。

 駅のホームが途切れたすぐ先に線路と交差する通りがあり、踏切がある。祖父が経営するT医院(母の旧姓でもある、祖父の苗字がそのまま医院の名前になっていた)はこの踏切の近くにあった。木造平屋建てで、通りに面した入口の木枠のガラス戸に医院の名と電話番号がペンキで縦書きされ、入ると正面に待合室と診察室(仕切りの奥には手術台も装備)があった。医院の入口と自宅としての玄関は共用で、医療関係の部屋の脇の廊下を進んだ奥に家族用の台所や居室があった。

 祖母は医師ではなかったから、医療行為は専ら祖父がおこない、患者の受付や会計など医院の事務全般を祖母がおこなっていた。


 祖父の専門は外科だったが、都会に比べて大病院どころか医療施設自体が少ない田舎町のこと、祖父は子供の風邪ひきから年寄りの体の痛みの訴えまで、何でも診た。お産の手伝いもした。田舎の町医者とはいえ、長い医療人生の中では色々な事があった。喧嘩で斬られたやくざ者が血の噴き出る傷口を押さえながらT医院に駆け込んできたこともあったという。

 戦争には行かずに済んだそうだ。医療技術があるので軍医に取り立てられたが、アジアの前線の野戦病院などに送られてはかなわない。軍の人事を掌るお偉方に色々な理屈を捏ねて国内の軍病院に留まったのだと、“おじいちゃんから聞いた話”として以前母から聞いた事があった。S市中心部は空襲に遭ったが、T医院のある地域は運良く戦災も免れた。

 母は女姉妹で、それぞれの結婚相手も医師ではなかったので、祖父には後継ぎがおらず、祖父が高齢により現役を引退した時点でT医院は閉院となった。私がまだ幼い頃の事だ。祖父が現役の医者として働いている姿は、私の記憶にはない。

 私は東京で生まれ、両親と共に東京に住んでいたが、正月や夏休みなどに両親に連れられてしばしば祖父母の家を訪ね、同じく里帰りした伯母の子供である従兄妹達と、当時はもう使われなくなっていた診察室に忍び込み、奥の手術台でお医者さんごっこに興じたものだった。


 「たしかわたしが小学生だったから、戦後間もない頃じゃないかしらね」と母は言った。その頃、鉄道の線路を挟んだ反対側の地区、T医院の前の通りを踏切を超えてしばらく行った先に、戦前から続く資産家の屋敷があったそうだ。私が子供の時分、この通りはまだ未舗装で、いつも埃っぽかった記憶がある。母自身も子供の頃に何度もその屋敷の前を通った事があるが、当時の田舎町にあれほど大きな邸宅、しかも洋館は珍しく、かなり目を引いたそうだ。

 母によると、何を生業にしていたのか分からないが、身なりの良い一族が数世代の大所帯で暮らしていた。そこに、親族ではない召使いの老婆が一人同居していたそうだ。ところが、この老婆に対する家人の扱いがあまり良くなかった。「わたしも、たまたま家の前を通った時に、お婆さんが叱りつけられている大声を何度も聞いた事があるわよ」と母は言ったが、どうだろうか。各家庭の事情などさほど深く理解しようもない子供時代のこと、大人たちの噂話を漏れ聞くうちに、無意識の想像がいつの間にか本物の記憶として定着してしまった、という事もあるかもしれない。

 ある日、近くの駐在さんと町人数人が、慌ただしくT医院に駆け込んできた。その日は少し前から外が騒がしく、電車のけたたましい警笛音やブレーキの金属同士が激しく擦れ合う音が響き渡り、その直後から人々の叫び声や怒鳴り声、駆け回る足音が聞こえていた。T医院の建て付けの良くない木枠の引き戸を開けるのももどかしく、駐在さんが「先生っ、先生っ」と怒鳴る。「何だね、どうした」と白衣姿で戸口に出てきた祖父は聞きながらも、それまでの騒々しさから何が起きたのか察しが付いていたのかもしれない。往診かばんを持ち、そのまま外出できる準備が出来ていた。「人が轢かれた、○○の所の婆さんらしい」と、駐在さんは祖父を促しつつ踏切のほうに向けて駆け出しながら、資産家一家の名前を口にした。


 踏切で資産家一家の召使いのお婆さんが投身自殺をした数年後、祖父はその資産家一家に呼ばれ、例の洋館を訪ねた。一家で一番若い夫婦の、嫁が身籠っていた。田舎の町医者は、産婦人科の役割も担っていたらしい。祖父は定期的に洋館を訪ね、若夫婦に生活の様子を聞き、奥さんのお腹に聴診器を当て、経過が順調であることを確認した。

 お婆さんの事は、あの事件以後、一家の誰も口にしなかったという。亡くなり方が凄惨だったし、一家の面々には「自分達がお婆さんに厳しく当たり過ぎたのでは」という罪悪感もあったのかもしれない。お婆さんが自殺だった事は、電車の運転手と、車両の前ほどに乗車して窓越しに前方を見ていた乗客達の証言から明らかだった。運転手は踏切のかなり手前から、線路脇に人が立っているのに気付いたが、まさか投身自殺を決心しているとは思わない。駅に近づいていたので速度を落としてはいたが、無論急に停止できるものではない。線路脇にいたお婆さんは、運転手が自分の動きを認めてもブレーキは間に合わない、でも確実に自分を轢かせるために電車より先にその進路に入れる、という絶妙の機を見て迷うことなく線路の真ん中に進み出てきたという。青ざめた顔の運転手が駐在さんに、震える声でそう話していた場面を、野次馬に混じって現場を見に来ていた母は覚えているという。しかし、お婆さんの無残な姿は、野次馬達が邪魔になったからだけでなく、「子供は見ちゃだめだ」という大人達に制されて見ていない。


 資産家一家の若い奥さんの経過は順調だった。問題は何もない。祖父は食事内容など、妊婦の生活について助言を与え、身体のデータを採り、医師としての職務を遂行していた。体温を測り、血圧を測り、時に採血もする。祖父は医師なので、当然だが相当大量の血液を見たところで動じないし、そもそも専門が外科なので、人間の身体にメスを入れ、骨や臓器などを直接目にするばかりか切ったり貼ったりもする。

 「だけど、あれは酷かった」そうだ。身投げした召使いのお婆さんの身体は、いったん電車の前方に跳ね飛ばされてレールの上に投げ出され、そこをブレーキを引き摺りながらも止まり切れない車体が通り過ぎた。明らかに即死だが、手続き上、祖父が医師として検死をおこなった。遺体は、腹の周り、ちょうど臍の高さで車輪に轢かれて二つに千切れてしまっていた。


 「いよいよ生まれそうだ。もしかしたら、少し長くなるかもしれん」と祖父は家人に言い残し、新生児を取り上げるのに必要な用具を携えて、資産家の家に行った。長くなる場合というのは、難産のときだ。しかし、結果的には安産で、時間はかからなかったようだ。

 大きな男の子で、祖父が取り上げると同時に元気な泣き声を上げ、健康そのものだった。だが。生まれてきた子の腹の周り、ちょうど臍の高さを一筋、青い痣が取り巻いていた。

 「先生、この筋は」と、この子の父親となった若旦那が、明らかに何かに怯えたように聞く。祖父は何食わぬ顔で「ああ、蒙古斑です。年齢が行けば自然と消えます」と答えたが、このように筋状に腹周りを一周しているものなど見た事が無かった。

 祖父はその後もしばらく、資産家一家に誕生した子どもの検診をおこなった。そのたび、“新生児に対する通常の手続き”である事をさり気なく強調しながら、入念に子どもの身体に異常が無いかを調べたが、子どもは健康そのもので、異常は一切見られなかった。

 「それで、その子はその後どうなったの」と私は母に聞いたが、「わたしも知らないのよ。そのうちにその一家はどこかよそへ引っ越したみたいね」との事だった。


 「あれは不思議だったなぁ」

 母からの伝聞であり、私が直接聞いたわけではないのに、腕組みしながら唸る祖父のイメージとともに、嗄れ声が私の耳の奥に響く。

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