第10話 後輩社員とはぐらかし
俺も上京するまで知らなかったのだが、千葉県は意外に広い。松戸・柏エリアや船橋・津田沼エリアは東京の一部と化しているが、千葉市から向こうはどちらかというと地方都市だ。
俺が篠田彩香を連れて向かったのは、千葉市の端っこの緑区にあるホキ美術館。
ここは閑静な住宅街で、都内のゴミゴミした雰囲気とは無縁。緑区土気町は道路と住宅が計画的に整備されており、こういう静かなところでゆっくりと住みたくなる。豊洲のタワーマンションとは対照的な存在だ。
「あの、私、美術館とか行ったことないんですけど」
都内の騒々しい雰囲気とかけ離れた街に近づくにつれ、助手席の篠田は慌て始めている。
「女子って美術館とか好きじゃないの?」
「だって絵とか見てもわかりませんもん。映画とかカラオケとかばっかりです。いま女子力低いって思いましたね?」
「いや別に。それが普通だろ。俺だって絵のことはわからない。でも今日行くところの展示は素人が見ても面白いよ」
予想以上におしゃれで格式高いデートコースを提示された篠田は最後まで戸惑っていたが、ホキ美術館の展示を見るとすぐにその美しさに惹かれていった。
ホキ美術館は、日本でも珍しい現代写実主義の絵画を専門とする美術館だ。
ルネサンス期から始まった古典的な絵画を理解するには、バックグラウンドとなる知識が相当必要になるが、ホキ美術館の展示はそういうものがなくても単純に『美しい』と感じられるものばかり。
この日は人物画の企画展示だった。どれも写真かと思うくらいのリアルな造形。いや、写真よりもリアルさというか、絵画から人間の温かみが漏れ出しているような感じがある。
「ほえー……」
篠田は俺なんかそっちのけで絵画に見入っていた。このときは俺も、篠田といることを若干忘れて作品鑑賞に集中した。
「すごいですね。絵って古いのがいいんだと思ってましたけど、今でもこんなに綺麗な絵を書く人がいるんですね」
「そうだな。人物画っていうと『モナ・リザ』みたいなのを想像してしまうけど、現代の日本人が油彩画でこんな風に美しく描かれているのを見ると、芸術っていうのは生きているものなんだって実感するよ」
「なんかすごくくさいセリフですけど、同意しちゃいますね……あっ」
二人で歩きながら鑑賞していると、篠田がある作品の前で足を止めた。
裸婦画だった。日本人の若い女性がモデルで、どこも隠していない。
ここの客はみんな達観していて(なにせ千葉の片田舎までわざわざ見に来ているのだ)、
裸婦画でも顔色一つ変えずじっくり鑑賞しているのだが、美術館初心者の篠田には刺激があったらしい。篠田は裸婦画を直視できていなかった。
「み、宮本さん、いま私の身体のこと想像しましたよね?」
篠田と裸婦画を交互に見たためか、篠田が顔を真っ赤にして言う。
俺にそういう気持ちはなかったのだが、綺麗な裸婦画と篠田を一緒に見ているとつい重ね合わせてしまう。
「いや、すまん、つい男の性で一瞬想像してしまった」
「……こんなにスタイルよくないですよ」
実物の女の子を嫉妬させるほどの美しさ。現代美術恐るべし。
一瞬ムスッとした篠田だが、足を進めるにつれ慣れてきたようで、音声ガイド付きの展示を全部聞くまで進まないほど熱中していた。
全ての展示を見終え、俺と篠田の二人はホキ美術館名物のやたら遅いエレベーターで出口まで上がる。
「どうだった?」
「すごくよかったです。私バカなのでうまく言葉にできませんけど、絵を見てこんなにいい気分になったのは初めてです」
「それはよかった。いい時間だし、ここでランチにするか」
「えっ、ここでですか?」
「実はもう予約してある。俺のおごりだから心配するな」
「えっ?えええええっ?宮本さんのおごり?」
「普段はあんまりおごれてないし、今日くらいはいいよ」
俺は後輩と女の子にはなるべく奢るようにしている。奢られて嫌なヤツはいないし、その時の恩で俺のことを優しいヤツだと錯覚してくれれば、数千円の出費など安いものだからだ。
だが篠田には出会って最初の数回以外、昼飯を奢っていない。いつも一緒に外回りをするから毎回奢っていると財布が持たないのだ。悲しいかな、同じ会社の人間だとお互いの給料がなんとなくわかるので、むしろ篠田が俺に気を使って奢らせなくしている感じすらある。
そんな訳で、俺は美術館併設のレストランのランチを予約していた。
「こ、これコース料理ですよね……お高いんじゃ……」
「気にするな。ってか、そんなにビクビクしないでいいよ」
「千円以上の食事は高級品だって親に教えられたので……牛丼屋とかでもよかったんですけど」
「二十年くらい前はそうだったけど、今は物価も上がってるし千円超える外食なんて珍しくないと思うが……」
最近の外食高いよね。特に都内の。
ラーメンとか好きなようにトッピングしたら普通に千円超えるし。
「篠田って、意外と安上がりな女なんだな」
「清貧と言ってください!節約は庶民の務めです!ぜいたくは敵だ!」
「まあ俺もめったにこんな高い食事しないし、浪費しないという点ではいい嫁さんになりそうだよな」
「そ、そう、ですか……?」
ちょっと褒めると、照れて無言になる篠田。実にわかりやすいヤツだ。
結局、篠田は最後までおどおどしていて、見ているこちらが可愛そうになるくらいだった。でもコース料理は残さず食べていた。
低年収社畜の俺としては、高い店でふんぞり返られるよりずっとマシなのだが。そういえば篠田、出先の昼食はコンビニのサラダだけみたいな日もあるし、たまにはいいもの食わせてやらないとな……
レストランを出ると、午後二時を過ぎていた。俺と篠田は愛車マークXに乗り、ホキ美術館を出る。
「明日は仕事だし、今日はこれで帰るか」
「……はい」
あとは帰るだけだというのに、なぜか篠田は緊張した顔をしている。
「都内まで車で行くのきついから、悪いけど蘇我駅まででいいか?」
「はい……えっ?」
「ん?やっぱ寮まで送った方がいいか?」
「あれ、えっと、その」
「どうした?俺に遠慮なんかするなよ」
「私、このあと先輩の家にお持ち帰りされちゃうんじゃないんですか……?」
「ぶっ」
何を心配していたのかと思ったら、そういうことか。
俺は思わず吹き出してしまった。
「わ、笑わないでくださいよ!」
「それ、他の女の子に言われたの?お持ち帰りされるかもしれないって」
「初めてだしないと思うけど、宮本さんクズいからあるかもしれないって、レイカちゃんが下着まで選んでくれたんですよ!」
「レイカちゃんの俺の評価どうなってるんだよ……今日はそんなことする気ないから安心しな」
「わ、私の身体には興味ないってことですか?」
「身体がどんなに綺麗でも、俺は初めて遊びに行く女の子を家に連れ込んだりしないよ。節操なく手を出す男だと思われても困るからなあ」
「そう、ですか……私、男の人と、その、で、デートしたことなかったので、どうすればいいか全然わからなくて」
「彼氏とかいなかったの?篠田ならそこそこモテそうだけど」
「片思いしかしたことないんです」
その言葉だけ、俺の目をまっすぐ見て言われ、少しはっとしてしまう。
四年近く一緒に仕事をしてるただの同僚とはいえ、久しぶりのデートは俺にとっても楽しいことだったが。
俺は、篠田と付き合うつもりは、今のところないのだ。
「いつか想いが実るといいな」
「なんですかそれ……」
これ以降、車中は微妙な空気になり、別れ際に「今日はありがとうございました」と言われた以外、俺と篠田は一言も話さなかった。
* * *
篠田彩香は、俺のことが好きなのだと思う。
たまたま俺が先輩として篠田の業務ペアに選ばれ、成り行きで仕事以外にもいろいろな話をしているうちに、いつの間にかそうなっていた。俺としては篠田と付き合いたいだなんて全く思わず、ただの可愛い後輩のつもりだったのだが。
俺だけでなく、会社の同僚や上司もそれを認めている。飲み会の場で俺と篠田が二人きりになるよう仕向けられた(偶然を装っていたが、やられる方はわざとだとわかる)こともある。
篠田はいい女だと思う。俺の前だと慌ててポンコツになることもあるが、仕事はよくするし、愚痴や弱音をあまり吐かない。おまけに貧乏性で財布にも優しい。
俺と篠田がもし結婚すれば、理想的な共働き社畜カップルの誕生だ。いま年収が低いとはいえ、将来の昇給を見込めば絶望的なライフプランではない。
俺は二十八、篠田は二十七。結婚適齢期であり、周りで早い友達たちが結婚しだして焦り始める年頃だ。
でも俺は、篠田と付き合おうとは思わない。
俺は――
俺のことを好きな女が、どうしても苦手なのだ。
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