第35話 集中砲火
アイシャ・シルベーヌにとってエマ・ローウェルとは――ずっと憧れてきた強くて優しい『エミーお姉様』だった。
最初に会ったのは六歳のとき。湖の畔にあるローウェル家の別荘で、銀色の髪と日に焼けた肌の、まるで太陽のように笑うエマの姿に、アイシャの心は一瞬で奪われた。
エマが誰にでも優しくて、自分が特別な存在でないことくらい、幼いアイシャにも解っていたが――話し掛ける度に明け透けな笑みで笑ってくれて、アイシャが泣いていると優しく抱きしめてくれるエマは、彼女にとっては本当に特別な存在だった。
それから毎年、アイシャは父親にせがんでは、エマのいる真夏のローウェル家の別荘に連れて行って貰ったが――エマが勇者パーティーに選ばれたことで、アイシャの掛け替えのない日々は終わってしまう。
それでも――アイシャは、ずっとエマに憧れ続けて来た。
「私たちのシルベーヌ子爵領の隣に、モーネルト伯爵領があることは、エミーお姉様も知っているでしょう? 二つの領土を跨いでラゼル川が流れているんだけど、その水の使用権について、モーネルト伯爵領と争いが起きているのよ」
アイシャは淡々とした口調で説明した。
川上に当たるモーネルト伯爵領から流れてくる水について、以前からモーネルト伯爵は色々と難癖をつけては、シルベーヌ子爵に度々使用料を要求してきた。
それでも、シルベーヌ子爵の手腕もあって、さほど大きな争いにまで発展することはなかったのだが――魔族の戦いが本格化する中、ジョセフ国王が軍事に重きを置いている隙にエドワード王子が勢力を拡大してから、状況は一変した。
エドワード王子という後ろ盾を得たことで、モーネルト伯爵は強硬的な態度を取るようになった。川を堰き止めて、あからさまに使用量を要求するようになったのだ。
シルベーヌ子爵は背後にエドワード王子が居ることを知らずに、王家に仲裁を求めたが――その回答として、エドワード王子は仲裁料を要求してきた、
そこからは、モーネルト伯爵とエドワード王子に交互に金を要求されることとなり、シルベーヌ子爵は財産を次第に擦り減らしていった。
「父も途中から、エドワード王子が糸を引いていることに気づいていたけど……下級貴族に過ぎないシルベーヌ家が王子を糾弾などしたら、逆に取り潰しに合う。それでも……たとえ爵位を剥奪されても、領民が幸せになるなら父もそうしたわ。でも……エドワード王子が接収した土地の領民にどんなことをするか、私たちも知っているから……」
エドワード王子が直轄領に課す重税の話は、決して噂話のレベルではなく、公然の秘密とされていた。
「それで……もう今年は、水の使用料や仲裁料として払うお金もなくて。だから……私はエドワード王子に進言したのよ。私が側室となる代わりに、モーネルト伯爵に使用料を二度と請求しないようにさせて欲しいって」
女好きも、エドワード王子の悪癖の一つとして知られていた。
王族である以上、側室を持つことは一般的な話ではあるが――エドワードは二十代で、すでに五十人以上の側室を抱えている。
「アイシャ……」
この話に、エマは衝撃を受けていた。アイシャくらいの年齢で結婚する貴族の子女も少なくはないが――本人が望んでいる筈もなく、自らを売り渡すような選択を、こんな幼い少女がしなければならないとは……
「あ、でもエミーお姉様、とりあえず安心して。この話は保留になったから。エドワード王子にお目通りしてから、話を進めることになってたんだけど……理由は解らないけど急に話が流れて……後日連絡するから、それまで待つように言われたわ」
ああ、なるほどねと、カイエは思った。
ローズとの事件で立場の弱くなったエドワード王子は、今のタイミングで貴族絡みの暗躍を国王に知られたくない筈だ。だから、とりあえずは、ほとぼりが冷めるまで大人しくしていようと考えたのだろう。
(止めるんじゃなくて保留というところが、いかにも小者のエドワードらしいわね?)
アリスも同じことを考えており、二人は互いの呆れた顔を見て苦笑する。
「でも……使用料の件は、何も解決していないのよ。すでにモーネルト伯爵は川を堰き止めていて、農作物の被害はもう出でいるし、このままの状態が続けば……」
今のシルベーヌ子爵家に、全ての農家を援助するだけの財力はなかった。
アイシャは塞ぎ込んだ顔で下を向く。エマに助けとくれと言ってはみたが今回の話は、第三者が解決できるような話ではないのだ。
エマに金を融通して貰うという選択肢はあるが――エマにお金を貸す義理などないし、アイシャも、そんなことは頼みたくなかった。
それに、もし借りたとしても……今の状態が続けば返す当てなどないのだ。
それでも――エマはアイシャのために何とかしてあげたかった。
「あのね、アイシャ……こんなことを言うと、気を悪くするかも知れないけど……」
アイシャがお金を無心しているのではないことは解っていたが、他に選択肢がないのなら――
「エマ……あんた、ホント馬鹿よね?」
突然口を挟んできたアリスに、エマが怒った。
「何だよ、アリス? いきなり馬鹿とか、ひどくない?」
「じゃあ、他に何て言えば……あんただって、そんなことをアイシャが望んでいないことくらい解ってるでしょ?」
呆れた顔をするアリスに、エマは唸る。
「うーん、そうだけどさ……でも、だったら、他にどうすれば良い訳?」
「そんなの簡単じゃない。あの馬鹿王子が、国王以外で一番恐れているのは誰か……あんたも謁見の間にいたのに気づいてないの?」
国王がローズに対して正式に謝罪した場で――同席したエドワードがカイエに怯えていた様子をアリスも目撃している。
ローズを救い出した夜に、カイエが一人でエドワードの元を訪れたことも知っており――カイエが何をしたのかまでは解らないが、相当恐ろしい目にあったのだろう。
アリスに目線で促されて――皆がカイエの方を見る。
「……何だよ、俺の話か? 別に大したことはしてないからな?」
「あら、そう……まあ、カイエが何をしたかなんて、この際どうでも良いわ。重要なのは、馬鹿王子があんたを恐れてるってことでしょう?」
カイエの言うことなど全く信用していない感じで、アリスが鼻で笑う。
「……つまり、俺がエドワードを脅して、モーネルトって奴に今すぐ川を堰き止めるのを止めさせて、二度と金を要求しないように圧力を掛けさせろって事だよな?」
「あら、人聞きが悪いわね? 私はカイエに、
しれっと適当なことを言うアリスに、カイエは頬を引きつらせる。
「あのなあ……でも、そんなに上手く行くか? エドワードが圧力を掛けたところで、モーネルト本人が止めるとは限らないだろう?」
「それは問題ないわ。モーネルトはエドワードに借金があるから、絶対に言うことを聞くわよ」
アイシャの口から直接聞く前に――アリスは彼女が抱えている問題について、その背景を含めて全て調べ上げていた。
アイシャがエマにベタベタし始めた時点で、何かあると思ったアリスは『
エドワードと貴族の繋がりや、彼らの懐事情など、裏世界の情報網を使えば簡単に調べることができた。
アイシャの事情を知った時点で、エマに忠告することもできたが――アリスはエマのことを思って、自分で解決させるために黙っていたのだ。
「借金か……なるほどね……」
このときカイエが考えたことは二つ――金絡みであれば、最悪モーネルトと直接交渉すれば良いし……もっと直接的な方法を使っても、金で解決できる。
「カイエ、あんた……今、物凄く悪い顔をしてるわよ?」
アリスに突っ込まれて――カイエは自分が笑っていることに気づく。
「そうかもな……こいつは楽勝かなって、思ってさ?」
そう言うとカイエは、アイシャの方に向き直る。
当のアイシャは――話の展開に付いて行けず、まだ不安そうな顔をしていた。
円らな瞳で見上げられて――カイエは思わず頬を掻く。
「まあ、その何だ……俺も一応、エミーお姉様の仲間だからさ? おまえが抱えている問題くらい、全部サクッと解決してやるよ」
「カイエ……」
「ラクシエル様……」
エマとアイシャの二人に乙女の眼差しを向けられると――さすがにカイエも、もう限界だった。
「じゃあ早速だけど、エスト……」
二人の視線から逃げるようにカイエが振り向くと――もっと熱い……灼熱の業火のような二組の視線が待ち構えていた。
「カイエ……これは、どういうことかな?」
「へえー……カイエがロ○コンとは知らなかったよ?」
カイエに逃げ場はなかった。
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