第2話 不思議な眼鏡と委員長

 教頭じきじきのお説教とあってか、休み時間の職員室の空気は最悪だった。

「君ね。分かっていると思うが、あまり評判が芳しくないね」

 ぼくは黙って、教頭の節くれ立った手を見詰める。教頭はやつれた膝を握って、椅子に座っていた。ふーと吐いた息が、ぼくの所まで届きそうだ。銀縁の眼鏡を、細長い中指で神経質に直し、そこへ皺を集める。職員室には狭い所に無理矢理、押し込んだみたいに、事務机が窮屈に集まっている。その机の上にも、沢山の本やファイルが煩雑に立て掛けてある。教頭の机は、ここで一番眺めのいい場所だった。二三人の先生が、ちらちらこちらを盗み見た。いい見世物だ。

「まあ、いいさ。そうやって、粋がっているのも今のうちだ。少し手順は違うがね。今すぐここへ行きなさい」

 教頭は突っぱねるみたいに、ぼくへ紙片を渡した。

「髪が伸びてるんじゃないか。ううん? だらしない格好をするな、切りなさい」

 教頭は、初めてぼくを真面に見たように言った。その口調は、どこか穏やかだった。

 その黒猫が悪いとは思わない。が、ぼくの不満は解消させない。そうだ。女の子だ。きっと彼女のせいだ。付いてない日なんて、日常茶飯事なのに、ぼくはいつしかが、彼女のせいにしていた。


 ぼくの高校は、一学年に十一クラスある普通科高校だった。一年生の教室は、校内の中央の建物で、二年生はその三階と別校舎の一階、三年生は別校舎の二階と三階を占める。渡り廊下を挟んで、特別教室ばかりの建物と、大きな体育館が、四角い箱の中に積み木のように収まっている。その上空に、まるでお城みたいに七本の尖塔がそびえる。ところが、これからぼくが赴くクラスは、その十一の数には入っていなかった。それだけでも、不安が募る。

「地下だって?」

「いや、屋上だよ」

 ぼくは、指定された教室へ向かう。この時ばかりは教室中、いや学校中の注目の的だ。何とも間抜けな格好をしている。重い机の上へ逆さの椅子を載せ、覚束ない足取りで歩く。歓声とも、冷やかしとも取れる声が廊下に漏れる。奴らは、まるでお祭り騒ぎだ。妙に浮かれている。腕が段々と痺れてきて、弱音を吐きたくなった。

 ぼくがこの学校に通って、三カ月近くになる。校内のことは、大概知ったつもりでいた。しかし、尖塔には一度も足を運んだことはなかった。一年生が、他の学年の教室に近寄らないように、そこへ赴く考えも起こらなかった。ぼくの毎日の行動範囲に、尖塔の上り口は存在しなかったのだ。もっとも尖塔は、校舎の一番端に配置されていた。

 どこかの廊下で、自由になった腕を伸ばし、机と椅子の上で、もう一度紙片を広げる。自然と眉間に皺が寄る。ここの廊下は静かだ。奴らの馬鹿騒ぎも、ここには届かない。それとも、もう祭りは終わったのだろう。教頭から渡された地図は、お世辞にも分かりやすいとは言えなかった。硬質な黒のボールペンで、几帳面に描いた長方形の図形が数個、あちこちで連結している。その端に、小さな円が見える。第六塔と書いて、矢印で引っ張ってあった。問題は何本もある尖塔のどれが、地図の第六塔で、その上り口がどの建物と繋がっているかだ。それが、さっぱり分からない。ぼくは独り唸って、顔を上げる。目の前に壁が迫ってくる。

「おっと、おっと」

「あっ、ごめんなさい」

「いえいえ、こちらこそ」

 淀みない女の子の声が、顔を見せないまま謝るから、ぼくも釣られて詫びを返した。分厚い本を何冊も重ねて、両手で懸命に抱えている。度の強そうな眼鏡が、積み重なった本の横を支えるくらいに飛び出している。長い黒髪が雑草みたいに、方々に伸びている。ほとんど手入れもされていない。ぼくは、さり気なく自分の髪に手櫛を入れた。彼女は、それには全く気付かず、顔を少し傾ける。積み重ねた本に当たった眼鏡だけが、喜劇のように不自然にずれた。ぼくの目を釘付けにした。

「どうかしましたか?」

「ああ。えーと、ここへ行けと言われたんですが、迷子になったみたいです」

 ぼくは、場所を示した紙片を何気なく差し出した。彼女はそれへ目を落とさずに、ぼくを見た。

「あのー、これ。お願いできます?」

「本、持ちましょう」

「いえ、眼鏡を直してもらえれば、結構です」

「はあ」

 ぼくは狼狽え、彼女を見返した。屈託のない微笑がそこに見える。ぼくは、最低限の方法を選んだ。ぎこちなく女の子の体に触れるみたいに、ずれた眼鏡を一度外した。彼女の眼鏡は、思いの外重い。眼鏡のない女の子が見える。健康的な濃い肌色に、切れ長の大きな瞳を、長い睫毛が一緒に驚いたみたいに瞬きして、ぼくをドキドキさせる。眼鏡があるときは、それに気付かなかった。

「凄い眼鏡だね」

「私もそう思います。でも、これが無いと全く見えなくて、仕方ありません。それじゃあ、お願いします」

 彼女が目を閉じたから、ぼくの手は余計に震えた。本が邪魔をして、眼鏡を上手く掛けられない。

「あー、それじゃあ。先にこれ、片付けちゃいますね。そこなんで」

 彼女は当惑するぼくを促して、一度積み重ねた本を抱え直すようにすると、歩き始める。十歩も歩かないうちに、廊下の扉の前で動かなくなった。それ以上は、動けなかったのだ。

「ここまでは、考えてなかった。あのー、お願いできます?」

 重い本で振り向けないらしく、彼女の声だけが、ばつが悪そうに廊下に響いた。

「あ、はい」

 頭上には、図書室の札が差してある。ぼくは、脇へ寄る彼女の前に立つと、体を止めた。両手で眼鏡を持ったままだ。ぼくがどうしようか迷う側から、彼女が言った。

「掛けてもいいですよ」

 彼女の丹精な顔には、小鳥が跳ね回るような笑みがこぼれていた。眼鏡を外した分、彼女の感情がよく伝わって、親しくなった気持ちになる。眼鏡って、内心を隠す仮面だというけど、本当にそう思える。

「どうぞ。でも、あまり長く掛けていると、気分が悪くなりますよ」

 彼女はじれったそうに、ぼくを急かした。眼鏡を掛けたぼくは、初めての気分だった。でも、大したことじゃない。ちょっとびびったけど、すぐに図書室の入り口の扉に、四本の指を引っ掛けた。ゴーと重い音を立てて、扉は簡単に開いた。

「ここで待っていて下さい。すぐに終わらせますから」

 彼女は積み重ねた本を、扉の中へ押し込んむように入っていった。ぼくは、彼女の背中を追う。洞窟の入り口に立ったみたいに、薄暗い図書室の中を見回す。

 図書室の景色が奇妙に曲がって、目眩がした。入った所から本のぎっしり詰まった棚が、数列立って狭い道を作っている。どれも大きさの不揃いな本ばかりで、乱雑に並べたようだ。薄暗い中で窓のカーテンから飛び出た流星が、きらりと輝く尾を引いている。その突き当たりの窓際で、隠れん坊する学生机と椅子が一組見えた。ぼくは、そこまで認めると、眼鏡を外した。それ以上、必要なかったからだ。明らかに図書室の景色が変わった。不明瞭だった物たちが、はっきりと輪郭を現した。棚の本は、どれも使い古してあったが、背表紙を揃えて整然と並べられていた。窓のカーテンからは一筋の光が漏れ、室の中に射し込んでいた。ところが、窓際の机と椅子は消えていた。ぼくは、もう一度眼鏡のレンズ越しに確かめた。

「どうかしましたか?」

 彼女がいつの間にか隣に来て、ぼくの顔を覗いている。

「ううん? 机と椅子が見える」

 彼女はぼくから眼鏡を受け取って、同じ所を眺めた。

「どれどれ。あー、見えますね。それが、どうかしましたか? 誰かが、あそこに置いたんだ。不必要になったとかでね」

「でも、眼鏡を外すと見えない」

「ええ、私も見えません。あっ! あなたも相当、目が悪いんじゃないですか。私と同じだ。イヒヒヒヒ」

 彼女の笑い方は、こちらが引くほど独特だった。急に思い出したように告げた。

「そうそう。私、これから急いで戻らないといけません。さっきの紙を見せて下さい」

 ぼくは慌ただしくズボンのポケットに手を突っ込む。紙屑みたいにくしゃくしゃになった所を、急いで伸ばし彼女に差し出した。

「ここですか? ここは確か……。ああ、クラス替えですね」

 彼女は、やんわりと言葉を選んで言った。ぼくはそんな言い方をする生徒に、初めて会った。彼女は紙片の上下を逆さにして、こうすればどうでしょうと提案した。

「ここが第六塔で、ここが今、私たちがいる所、図書室はここです。どうです。分かりました?」

 あーと、ぼくは感嘆の声を上げた。納得したという気持ちも含んで、口から勝手に出た声だった。ぼくと彼女は思わず顔を見合わせ、その表情も鏡に写したくらいに、そっくりだった。急におかしくなって、二人で笑った。不思議な人だ。さっき出会ったばかりなのに、もう友達のように打ち解けている。

「おっと、もう行かなきゃ。それでは、さようなら。あっ、手伝ってくれてありがとう」

「こちらこそ」

 ぼくは、忙しく去る彼女に、どうにかそれだけ返事した。

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