かつてハーレム主人公だったというおっさんに出逢って。

目鏡

第1話

 僕は二十歳で無職、求職中だ。前の会社はノルマ達成最優先の社風が肌に合わず、ほどなく出勤できなくなり退社した。出勤できなくなった、この事実は次の職を探すという行動にも影響を与え、僕の足はとても重かった。足だけではない、体も心も全てが重く、常にずぶ濡れの服でも着ているかのような感覚に毎日悩んだ。これが挫折感なのか? そう自己分析したところで、何も変わらない。どうすれば変われるのか? 何も分からない。それでも、僕にとって唯一の、求職中という在って無いような、実はなくとも辛うじてカテゴライズできるこの肩書を失うわけにはいかない。只々それだけの為に、僕はハローワークに足を運んだ。只、失業給付金を求めて。


 その日も只漫然と、就職相談を受けようと考えていた。


 窓口の受付番号発券機に手を伸ばすと、突然横からヌッと無骨な腕が伸びてきて、僕は直前で手を止めた。思わずその無骨な手の主に目を向けると、穏やかな顔つきの、多少脂ぎったこてこてのおっさんが、にっこりとしていた。

「おう! なんでい、にいちゃん、おめえさんも相談かい? 取りなよ、先に取りなよ。仕事ってのはぁ未来のある若者が優先だってねぇ。ほら、取りなよ」  

「あ、はい。ありがとうございます」

 軽い調子のおっさんに面食らった。というか、明らかにこのおっさんが横入りだろ! とも思いながらも、僕は軽く頭を下げて受付番号票を取った。

「おっと、俺は就職相談より先に、ここいらを回ってパンフレットを頂戴しようかなぁ、っと」

 そう言って、おっさんは口笛を吹きながらふらっと行ってしまった。この常に陰鬱な空気漂うハローワーク内を、とても楽しそうに。


 僕もそうだと思うけど、ハローワーク内は顔の見えない人の溜まりのようだ。そこから一歩でも出ると、その中に居た人の顔など、一人も覚えていない。覚えられない。それぐらい印象が暗くて、見えないのだ。だけど、そのおっさんの笑顔は、妙に新鮮に心に映った。

 

 それからしばらくして、僕が順番を待っていると、

「おうっ! さっきのにいちゃん、まだなのかい?」

 と言って、先程のおっさんが僕の横にドカッと腰かけてきた。

「えっ、まぁ、はい──」

「まあまあ、就職なんざぁそう焦ることでもねえさな。若いしね」

「あ、はあ──」

「にいちゃんはよ、いるのかい?」

 と、おっさんは小指を立てて見せた。

 それはつまり、彼女とか恋人を指しているのだろうけれど、今どきそんなことする人、居るんだ! と、びっくりしたし、寧ろ逆に新鮮さを感じた。そしてなんだか面白くなって、クスっと笑ってしまった。

「い、いえ、いませんよ」

「えー、にいちゃん、ニヤニヤしてよぉ、嘘ついてるだろ? ほんとはいるんだろぉ? 可愛い恋人がよぉ」

「いないですよ。ほんとに」

「そっかぁ、そりゃいけねぇなぁ。職探しよりもよ、恋人探しだ! 恋人探しの方が大事だよ、にいちゃん」

「そうなんですか?」

「そりゃ、おめぇ、そうよ! 男は仕事が肝心、なんてぇ言う奴もいるけどよ、俺らぁ、違うな。男も女も、恋人が大事よ! 生涯の伴侶ってぇやつを見つけるのがぁ一番大事だ。そして難しい! そりゃあよ、己の人生を探すようなもんだからよ、なぁ」

「そんなにですか?」

「あったりめぇよ!」

 ここまで話して、普通なら、ウザいおっさんに絡まれたと! と感じるのかもしれない。いや実際そう感じてるかも知れない。けれど、このおっさんは不思議と嫌でもなく、寧ろ心地がよかった。


「でも、恋人探しより職探しの方が簡単なら、まずは職を探した方がいいんじゃないですか?」

「おうっ! こりゃ一本取られたなぁ。にいちゃん、頭いいなぁ。まぁな、女ってのは、愛だの恋だのが好きでもよ、これが案外現実的でよぉ、男の経済力ってのもよーく見てるからよ。つまりよ、男として何でもいいから職よ、つまりコレだ! 腕を磨かないかんちゅーことだな。こりゃ」

 と言っておっさんは、自分の腕にぴしゃりと平手打ちした。

「腕を磨く?」

「何でもよ、仕事ってのはぁ極めれば職人みたいなもんよ」

「はあ」

「にいちゃんは何やりたいんだ?」

「いや、あの、まだ、そこまで、はっきりとは、自分に何が向いてるかも分からないですし、その──」

「そっかぁ。まぁ、あれだ、将来の伴侶と同じでな、己ってやつも、そう簡単にはみつからねぇ。色々やってみなってことだな」

「でも、そもそもどうして仕事より恋人の方が大事なんですか?」

「そんなもん、にいちゃん、おめぇ、簡単よぉ。仕事ってのは場合によっちゃあ、いくらでも変えられっだろ? それに倒産やリストラ、不景気、嫌な言葉が多いけどよ、色々あるだろ? 時代に応じてコロコロ変化してぇ、こうカメレオンのようによ、色変えて生きて行かなくちゃぁいけねぇ時だってあるわけよ」

「はあ」

「だがよ、伴侶はずーっと同じよ。唯一無二。一生を共に寄り添って歩いていく。困った時にはお互いに支え合って荒波を越えてゆく。そんな大切な伴侶は、自分にとってぇ一番のかけがえのねぇ人を選ばなくちゃぁいけねぇ。信頼できる、心を通わせられる相手じゃなきゃやってらんねぇだろ? つまりよ、伴侶は人生の根幹よ。この相手を見誤っちゃあ大変だ。それによ、流行りモノみてぇに伴侶をコロコロ変えていたらよ、人生あっちゃこっちゃ露頭に迷っちまうってもんよ」

「なるほど」

 僕は話に引き込まれていた。確かに、おっさんの言うように、結婚は人生の一大事だろう。けれども、そもそもこんな僕が出来るのだろうか。

「じゃあ、おじさんはもう大切な伴侶がいらっしゃるんですね」

「おうっ! にいちゃんイテェとこ突いてくるなぁ、それがよぉ、俺もな、まだなのよ。こいつが。いやぁ、まいったまいった」

 って、居ないのかよ! とツッコミたくなったが、とりあえず心の中でそうしておいた。

「大事と分かっていても居ないんですね」

「かぁーっ! そこは勘弁してくれぇ。でもよ、俺らぁ、若い頃はこう見えてもモテたんだぜぇ。にいちゃんぐらいの歳かぁ、いや、もう少し若かった頃か、高校ん時なんざぁ、恋人候補が周りにいっぺぇいてよ。そりゃもう5人、いや最終的には6人か、毎日家に押しかけられるは、学校でも登下校中も常に取り巻かれてよ、そりゃ大変でよぉ」

「何故その中から伴侶を選ばなかったんですか?」

「それがよぉ、その女の子達が皆えれぇ美人揃いでよ、俺にはもったいねぇくれぇ、気立てもよくて人間も魅力的ないい子でよぉ、それで俺らぁ、とうとう選べなかったってぇ訳よ」

「ええ!」

「1人を選ぶと残りの子達を泣かせることになっちまう。ってなぁ。俺らぁ男として、女の子は誰一人泣かせたくはなかったんだなぁ。参っちまったよ」

 ハーレムかよっ! 高校時代はハーレム主人公かよっ! と僕は心の中でツッコミを入れた。

「まるで恋愛漫画の主人公ですね」

「おうよっ! そうそう、にいちゃん上手いこと言うねぇ、そうよ。俺らぁモテすぎちまってぇ、どうにもならねぇ。皆いい伴侶になれそうだったのによぉ、断腸の思いで全員から身を引いたってぇ訳よ。皆に均しく幸せになってもらいたい、ってなぁ」

 羨ましいやら、羨ましくないやら。


 とその時、ポーンと音が鳴り僕の番号が掲示板に示された。

「あ、僕の番だ」

「お、そっかぁ、じゃあ、にいちゃん、頑張ってこいよぉ!」

 とおっさんに背中を押され、僕は立ち上がった。


 相談口に行くと、女性職員が待っていた。歳は僕よりも一回り以上は上だろうか、落ち着いた雰囲気でとても綺麗な人だった。やや目尻の小皺が年齢を感じさせるけど、逆に優しく温かい印象を与える。僕はホッとした。というのも、僕自身がなんの展望もなく求職中を装っているだけなのもいけないけど、その上で仏頂面の職員に色々質問されたり、説教じみた就活手順をくどくど説明されるのも苦痛だったからだ。文句を言う資格は無いのだけれども。


「希望の職種や業種、業界などは決められていますか?」

「あの、いえ、特に、その、僕に何が出来るか、よく分からなくて」

「なるほど、では、以前はどのようなお仕事をされていました?」

「健康美容食品の営業と販売です」

「営業や販売というのは、様々な職種に経験を活かせますからね、とても良いですよ。では、営業のお仕事というのは、自分にとってどうでしたか?」

「僕には合わないと思います。出社できなくなりましたから」

「販売もですか?」

「はい」

「そうですか。では少し戻って、その会社に就職したきっかけなどはあるのですか? もしくは、別の部署の配属を希望されていたとか?」

「いや、その、特に、あの、就活中に何社も落とされて、とにかく受け続けて受かっただけで、もう正社員で雇ってもらえるならどこでも良かったんです。周りが内定を次々に決めていって、僕は焦ってて、追い込まれていたんです」

 

 僕は何時と無く本音で答えていた。きっとこの人の印象がそうさせているのかもしれない。本当は働く意欲もなく、就活してるフリして給付金だけは貰おうとして、僕はくだらない人間だ。そしてこの期に及んで、職員の女性が綺麗な人だからって、いつもより話しをしようなんて。突然、こんな気持ちが僕の中に溢れた。


「なるほど。では少し視点を変えましょう。どんな小さなことでもいいですよ。好きな事とか、やってみたい事とか、子供の頃の夢とか、そういったものを聞かせてもらえますか?」

 子供の頃の、夢──、

 

 たしか、宇宙飛行士。


 でも、そんなの、今じゃほんとに夢のまた夢。


 今の僕は──、


 「なんでもいいですよ。趣味とか。ちょっとした、小さな希望でもね」


 小さな、希望──。

 

 相談員さんは優しく僕に語りかけた。急かさず、ゆったりとした空気で。でも僕は、何も言えなくなった。


 ふとその時、背中に視線を感じ振り返った。


 待合席に座ったおっさんが、またこてこての笑顔で僕を見ていた。


 きっと僕が情けない顔をしていたからだと思う。おっさんはふと立ち上がり、歩み寄ってきたのだった。

「ようっ! にいちゃん、どうしたぁ?」

「あっ、その──」

「ねえちゃんよぉ、このにいちゃんは、ほんとはよぉ、頭いいし、いい奴なんだよな。だからよ、いい仕事みつけてやってくれねぇかなぁ」

 と、おっさんはその辺にある丸椅子をひぱって、ドカッと僕の隣に座ったのだった。

「え! あの、おじさん──」

「いいよ、いいよ、渡りに船ってんだ。俺らぁ、このにいちゃんの職探しを手伝いてぇんだよ。いいだろ? ねえちゃんよぉ?」

「えっ!? あなたは──、あ、ええ、まぁ、彼の邪魔にならなければ、ええ」

 相談員さんは一瞬、凄く驚いた表情を見せたが、すぐに優しい笑顔で応えた。

「このにいちゃんはよ、頭はいいが、ちょいと口下手なところがあっからよ、あれだ! なんかぁ、モノ作る仕事とかいいんじゃねぇのかい? どうだい、ねえちゃんよ」

「そうですね。営業と販売が苦手だったということならば──」

「あれ? てかよぉ、ねえちゃん、あんた、あれれ? どっかで逢ったかい? もしかしてぇ──」

「そうね。お久しぶりね、大ちゃん」

「あれっ?! まさか、おめぇ、アエカ!? 愛花か?」

「そうよ。大ちゃん、もうかれこれ何年振りかしら? やっと家を出て仕事する気になったの?」

「いやー、俺らぁ、あれよ、ええとぉ──」

「みんなずっと心配してたんだよ。私もそう。大学受験の失敗から、跡取りの宮司も婿養子に取られて、それでもみんな、ずっと大ちゃんを──」

 

 跡取りの宮司?


「やめてくれぃっ! 昔話はもう忘れちまったい。そ、そんな事よりもよぉ、愛花、おめぇ、いつまでも美人で変わらねぇなぁ。あれか? もう結婚して、幸せな家庭を築いてるのかぁ?」

「もう大ちゃん、そんな事言ってごまかさないで。でも、ここに来たって事は仕事を探しているのね。いま私、とっても嬉しいのよ」

「お、俺らぁ、いつだって仕事をしてたんだぜぇ、西へ東へ旅しながらよぉ、そんでぇ、久々に故郷へ戻ってきたって訳よ。なあ、にいちゃんよぉ」

「え!?」

「あ、そっかぁ、にいちゃん、さっき会ったばっかで知らねぇかぁ、こりゃ参ったな」

「いい加減なことばかり言って、ずっと大社の離れに引き籠っていたって、みんな知ってるのよ。神職でもないのに」

「ば、ばかやろうっ! お、俺らぁ、生まれた時から神に仕える身よ、馬鹿親父が妹の婿養子なんざに宮司の跡取りやらなけりゃあ、俺だってよ──」

「もういいのよ、大ちゃん。大社なんて関係なくても、大ちゃんは大ちゃんだし、みんなずっと大ちゃんのこと、いえ、私はずっと──」

 おっさんからアエカと呼ばれた相談員さんは、少し涙ぐんているようにも見えた。

「やめちくれいっ! 俺が親父に勘当されたと知ったら、皆俺の元を去って行ったのによぉ──」

「そんなこと──」

「あ、あのぉ、僕は──」

 突然勢いよく始まったこの二人のやり取りが、余りにも終わりそうになかったので、やむなく僕はツッコミを入れた。

「あら、ごめんなさい。就職相談の途中で、内輪話を」

「おうっ! こりゃいけねぇ、にいちゃんの就職相談邪魔しちゃいけねぇ、ま、とにかくよ、愛花、このにいちゃんにいい仕事見つけてやってくれや、俺の大事な友達だからよ」

 友達! もうすでにおっさんフレンズですか!?

「ごめんなさいね。つい昔の、古い友人に出逢ったものだから、つい、ごめんなさい」

 僕の相談時には、冷静かつ優しい物腰で知的な大人だったけど、おっさんに対してはとても感情的だった。この女性が、嘗ておっさんの周りにいたヒロインの1人だったのは、容易に想像できた。こんな綺麗な人が──、というか! おっさんの言う事はあるあるの、ではなかったのか?!


 その後、おっさんは照れ臭そうに頭を下げて、どこかへ行ってしまった。


 そして就職相談は終了した。あの後も相談員さんは親身になって、様々なアドバイスをくれたのだが、おっさんとのやり取りが気になってほとんど頭に入らなかった。


 ハローワークを出て、正面入り口の階段を降りると、そこになんと、おっさんが突っ立っていた。また、あのこてこての笑顔を浮かべて。


「にいちゃん、就職相談終わったのかい? さっきはほんと、すまんことしたなぁ。邪魔しちまってよぉ」

「あ、いえ、全然そんなことないですよ。相談員さんとのやり取り聞いててちょっと面白かったですよ」

「参ったなこりゃ」

 と、おっさんはばつが悪そうに頭を掻いた。

「てか、僕、聞いちゃってよかったんですか?」

「いやいや、いいってことよ。あの愛花は俺の取り巻き、って言っちゃあ悪いかな。俺に仲良くしてくれた女の子達の1人でなぁ、なんだかんだ、今思い出すとよぉ、あいつが一番優しかったなぁ」

「そうなんですね」

 じゃあなんで彼女と──、と言いかけて僕はやめた。

「ところでどうだい? にいちゃん、これも何かの縁だしよ、この後、就活の成功を祈ってよ、どうだい? 一杯よ」

 と、おっさんは手で杯をやる仕草をした。

 普通なら、その日に出会った知らないおっさんと飲みに行くなんて、僕は絶対にあり得ないけど、この後の予定もなく、そしてなにより、おっさんのこの人柄に、僕はある種の救いを求めていたのかもしれない。

「本当ですか? いいんですか? 僕なんか──」

「いいよ、いいよ、俺らぁにいちゃんが気に入っちまってよ」

「はい、ありがとうございます」


 そして僕は、おっさんについて行った。


 てっきり居酒屋か屋台か、店で一杯やるものだと思っていたけど、コンビニで缶ビールやらスルメなどを買い、公園のベンチに座っていた。


「くあぁー、お天道様の下で飲む酒は最高だなぁ。ふぅー」

 と言って、おっさんはビールをぐびぐびと勢いよく飲んだ。夕陽というにはまだ早い空模様だけど、太陽はやや西に傾きかけて、和やらかい陽射しが公園内に満ちていた。僕もビールを一口飲んだ。

「一杯つってもよ、缶ビールですまねぇなあ、俺らぁ、ちぃとばかし金欠でよぉ。でもよぉ、外で飲むビールは美味いだろぉ?」

「あ、はい、気持ちがいいですね。いい陽気で」

「だろぉ? お天道様を拝んで酒を飲めりゃ幸せってもんよ」


 公園内は、遊具やらで遊ぶ子供達でいっぱいだった。それを少し離れて見守る親達。平和な光景、幸せそうな家族が沢山いた。

「にぎやかでいいですね。すごく、幸せそうです」

「おうよ、にいちゃんもそのうち伴侶見つけてよ、ああいうふうに家族で公園に来るようになるんよ」

「そうですかね。僕なんか、まだ無職ですし──」

「何しけた面してるんでいっ、これから腕磨くんだろぉ? ええ?」

「はい──」

 

 とその時、小さな幼児用のボールが僕の足元に転がってきたのだった。


 そのボールを拾い上げると、小さな女の子がこちらに向かって、まだおぼつかない足取りで一生懸命に走ってきた。僕はそれを渡してあげようと缶ビールを片手に中腰になったのだが、目の前まで来て、その子は立ち止まって、怯えたような目で僕を見るのだった。

「これ、ほら、どうぞ」

 と、声をかけたが、幼女は微動だにしなかった。

「ほら、お嬢ちゃん、怖くないよぉー」

 とおっさんが声をかけるが、いやそのこてこてのおっさんスマイル、幼女には怖いだろ。


「あのぉー、すみません。ありがとうございます」

 と、幼女の後ろから、その母親らしき女性が歩いて来た。キリッとした目の、芯の強そうな美人だった。

「あ、いえ──」

 と言って、僕は幼女に近づきボールを渡そうとしたが、幼女はサッと後退りして、母親の膝下に隠れた。

「マリエ、ボールもらいなさい。ごめんなさいね、怖がりな子で」

 と言いつつ、僕とおっさんが手にしている缶ビールを見て、ほんの一瞬眉をひそめた。それが痛いほど見えてしまった。

「どうぞ──」

 僕は母親の足元に向けてボールを転がした。

 その時おっさんは「ふっ」と小さく笑って、缶ビールをグイッとやったのだが──、

「え、あれ、あなた、もしかして、大ちゃん?」

「あん?」

「大ちゃんよね? そうよね!?」

「ん? おめぇさんは──」

「大ちゃん、家から出てきたかと思えば、こんなところで──」

「おうっ! おめぇ!? まさか、リョウコか? 涼子か!?」

「そうよ。大ちゃん、十何年振りに逢ったかと思えば、こんな──」

「俺んことは、どうでもいいのよ。それより、久しぶりに逢ってみりゃ、涼子おめぇさん、結婚してたんかぁ。いやぁ、おめぇに似て可愛い女の子じゃねぇか、幸せそうでなにより。俺らぁ嬉しいよ、うん。いいじゃねぇか」

「よくないわ! 家から出てきたかと思えば、昼間っから公園でビールなんか、何してるの!? ちゃんと働いてるの?」

「お、おめぇに言われたかねぇよ、俺らぁ、俺でうまくやってらぁ。俺が親父に勘当されてぇ、宮司の跡取り無くなっちまったら、それ知った途端、真っ先に俺から離れていったおめぇさんに、言われたかねえやいっ!」

「そ、そんなこと私、あれは大ちゃんをそっとしておこうって、皆で──」

「おめぇさんがぁ皆に入れ知恵したの、知ってるんでいっ!」

「そんなの嘘よっ!」


 まさか──、 

 

 ここまでのやり取りで、この女性も嘗ておっさんのハーレムヒロインズの1人だったのだと、分かりすぎるぐらいに分かった。さしずめこの人が序列第1位で、相談員さんが第2位といったところか。或はその逆か。

 

 その時、

「涼子、どうした? 絡まれてんのかぁっ?」

 と、この母親の後ろから男の声が響いた。

 現れたのは、いかにも体育会系といった感じの体格のいい男だった。

「公園でビール飲んでる臭い連中に絡まれてんじゃねえよ、涼子」

 威圧的な言葉が全てにおいて自信満々で、あからさまに僕等を見下していた。

「あれ? 涼子、こいつまさか、あっ! そうだよね、あれれぇ? そうだよねぇ!」

「涼子おめぇさん、まさか──、シュウタロウか!? てめぇと。修太朗と結婚してたんかぁ」

「なんだよ、おい! お前、正木大地か? 高校の時以来かぁ? 受験に失敗して引き籠ってたって──」

「うるせぇーやいっ! てめぇこそ、よろしくやりやがってぇ」

「やれやれ、かつてのライバルも落ちたもんだなぁ、ってライバルでもないか、お前から大社とったら、何も残らねぇからな」

 と言って、そのシュウタロウと呼ばれた男は、足元の砂をおっさんに向けて軽く蹴ったのだった。

「てんめぇ、やりやがったなぁっ!」

「お、なんだぁ、正木大地、やるのかぁ? あん? 久しぶりにやるのかぁ!?」

「ちょっと、修ちゃん、やめなよ、マリエもいるのよ」

「涼子、いいか、こいつには分からせてやらなきゃなんねぇ、今の自分って奴をよ。敗北者ってのをよっ!」

「こんちくしょーめぇっ! もう我慢ならねぇっ!」

 と言っておっさんは、缶ビールをコチンっ! とベンチに叩き置いて、立ち上がった。

「チッ、喧嘩っ早いのだけは変わってねぇなぁ、おっさんニートがぁ!」

「うるせーやいっ! こんちくしょーめぇっ!」

 おっさんは大きく振りかぶって、男に殴りかかった。が、メタボっぽいぽっこりお腹と貧弱な腕がいかにもバランス悪く、そのフックはとても鈍かった。相手の男にあっさりと躱され、つんのめって、地面に頭から突っ込んで激突。無様に倒れ込んだのだった。そのあとケツを男に蹴り上げられて「うぐぅ」と唸り、勝負は決まった。


「はははっ! 働きもせずぐうたらして、昼間っから酒、そんな奴に負けるかよっ! 高校時代は散々いいようにしやがったが、ざまぁねえなぁ! 行こうぜ涼子、こんな奴相手するのも時間の無駄だぜ」

 男は娘を抱きかかえ、颯爽と行ってしまった。母親も、おっさんを憐れむような目で見つめ「大ちゃん──」とつぶやき、そして行ってしまった。

 

 はっきり言って、月とスッポン、たとえ天地がひっくり返ってもおっさんには勿体ない美人だけど、その眼差しは冷え冷えとしていた。なるほど、女は案外現実的か。


「チッ、ちくしょぉーっ!!」

 僕は無言でおっさんの肩に手を置いて、そして立ち上がらせようとした。

「くちしょー、こんちくしょー、俺らぁ、俺らぁ──、ちくしょーっ!!!」

 怪我なども無さそうだったが、おっさんはなかなか立ち上がらなかった。いや、立ち上がれなかったのかもしれない。


 ふと公園の入り口の方に視線を感じ、顔をあげると、

「あっ」

 そこに、先程のハローワークの相談員さんがいた。アエカと呼ばれた、女性の相談員さん。

 彼女はコツコツと早足でこちらにやって来て、そして僕に手を貸してくれて、二人でおっさんをなんとかベンチに座らせたのだった。

 おっさんは泣いていた。

「あの、さっきの、見てました?」

 と僕が訊くと、彼女は無言で頷いた。

「あうっ、おめぇ、愛花、なんでここに、お、俺らぁ、俺らぁ──」

「若い子無理矢理誘って、昼間っからビール飲んで」

「いや、あの、これは、就活の前途を祝してというか、僕の為におじさんが、その──」

「そう。それで、大ちゃん、自分は就職相談も受けずに帰っちゃうの?」

「お、俺らぁ──」

 すると、相談員さんは鞄からクリアファイルを取り出した。

「さっき仕事が終わってから色々調べ直して、よい求人を見つけたの。彼に渡した資料にも同じものが入っているわ。パン工場の求人よ。大ちゃんも受けてみな。年齢も大丈夫だから」

 そう言って、おっさんに資料を手渡したのだった。

「私はずっと大ちゃんのこと、心配してたし、それに、誰も見放してなんかいないわ。ちょっと立ち上がるのが遅くなっちゃっただけよ。きっとまた歩ける。彼と一緒にそこ、受けてみな。ね?」

 そう言って、にっこり笑ったのだった。

「ごめんなさいね。さっきも、今も。でも、よかったら、大ちゃんと一緒にここ受けてみて、給与も福利厚生も悪くないし、いい会社よ。あなたからも大ちゃんに言ってあげてね」

 相談員さんは、僕にも微笑んでくれた。

「愛花、俺らぁ、俺らぁ──、すまねぇ──」

 おっさんは涙を拭った。

「じゃ──」

 とだけ言って、相談員さんも行ってしまった。

 

 僕は、おっさんが手渡された求人資料をまじまじと見た。


 そもそも、働く気力の無かった僕だけど、だけどこの日、突然出逢ったおっさんや相談員さん、そのやり取り──、それはまるで、人の心に触れたようで、不思議と僕の胸に何かが灯った。そんな感じがした。


 きっと1人だったら、家に帰って資料もろくに見ず、机の引き出しにでもしまっていただろう。そして、1人だったら就活も新たな職場で働くのも不安だ。でもこのおっさんと一緒ならば──、そして、それはきっと、おっさんもそうだろう。


 今の僕は、無性に全速疾走たい気分だった。


「おじさん! この求人、応募しましょうよ! 一緒に応募しましょう! 僕、おじさんと一緒に働きたいっすっ!」

 僕はおっさんにこう力強く言った。自分でも信じられないほど、腹の底から声が出た。 


 そして僕は、缶ビールを一口グイッと飲んだのだった。


 ちなみに、相談員さんも、天地がひっくり返ってもおっさんには勿体ない素敵な人だと、そう思った。



 

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かつてハーレム主人公だったというおっさんに出逢って。 目鏡 @meganemoe

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