138.新しい家③(怖さレベル:★★☆)

……イー……


それでも、指で耳をふさいでも、音が漏れ聞こえてきます。


甲高い、木のきしむような音。

さっき階段を上った時に聞いた、音。


……ギッ……


音が、音が――近づいてきている。


ゾッ、と全身が総毛だちました。


音のする背後から、ジットリとした生暖かさを感じます。

首筋に汗が流れても、身動きひとつとれません。


……ギシッ……ギギッ……


違う。これは、階段の音じゃない。


私はそれに気づいて、愕然としました。


木材がきしむ音、金属がこすれ合う音。

これは、そのどちらとも違います。


そう、例えば。


前歯同士を強くこすり合わすような、

強烈な歯ぎしりに似た、音。


なにかが。

なにかが階段を上って、私の後ろに立っている。


……キィ……ギギッ……


キィキィと歯をむき出して、

フローリングの床を、ギシギシときしませて近づいて。


――すぐ後ろに。


(ヤバイ……ヤバイ、ヤバい!!)


なにものかが、すぐ真後ろにいるのがわかります。


ふぅっ、と背中に生ぬるい息が吹きかかり、

ギシギシときしむ歯の音が聞こえてきます。


(ヤバイ……ヤバイ……!!)


逃げないと。


でも、いったいどこへ??


私は、とっさに両目を開きました。


開かれた視界の先、

パニックに陥った私の思考に浮かぶ逃げ道は、たった一つ。


真っ正面――すなわち、バルコニーの向こう。


(ここなら、行ける――!)


背後の、恐ろしいなにかに襲われるくらいなら。


この、バルコニーの向こうへ飛び降りてしまえば、

逃げられる――!!


……ギギッ、ギッ……


(はやく……早く!!)


私は素早く走ってバルコニーへ出ると、

そのまま上半身を思い切り持ち上げて――


「姉ちゃん!!」

「わっ!?」


そのまま、空に身を投げる直前、

弟の大声によって引き留められました。


「……ちょっと!! あんた、なにしてんの!!」


と、続いて二階に上がってきた母に思いっきり腕をひっぱられ、

私はバルコニーの上にひっくり返りました。


私の後ろには、目を見開いて驚いた表情の弟と、

焦りと怒りで顔を真っ赤にした母の姿があったんです。


「あれ……?」


直前まで感じていた恐ろしい気配は消え、

あのギシギシ音も聞こえません。


当然、歯をむき出してフローリングの床を這いずる影など、

どこにも存在していませんでした。


私がぽかんと大口を開けているのを見かねてか、

母はつかんだ腕をさらに引っ張って、私のことを抱きしめました。


「あんたね……あとちょっとで、そこのベランダから真っ逆さまに落ちるところだったんだよ!!」

「……え」


私はまだボーッとしながらも、抱きしめられたまま、

首をぐるっと回してバルコニーの下を見下ろしました。


一軒家の二階、さほど高さがあるわけではありません。


しかし、真下は駐車場の明日ファスト。

もしも、頭から落ちていたりしたら、

軽いケガではすまなかったかもしれません。


今更ながら、自分のやろうとしたことの恐ろしさに気づいて、

私は足がすくみました。


「なあ、母さん。おれ……やっぱこの家、イヤなんだけど」


ジッ、と私を見ていた弟が、ボソリとつぶやきました。


「……合わないよ、この家。絶対に、イヤだ」


弟は私から視線を部屋の中に戻して、

冷たい口調で言いました。


私もつられるように弟の視線を追ったものの、

一瞬、ふわっと白いなにかが見えた気がして、

慌てて目をそらしました。


「そうだね……母さんも、間取りとかいろいろ気になることもあるしね。それに、あんたも調子悪そうだし」

「え……あ、うん……」


実際、バルコニーから飛び降りようとしてから、

妙に体がダルい感じがしていました。


フワフワとおぼつかない足取りの私を、

弟はしかめっ面でジーッと見ています。


母は、私の様子がおかしいのが心配らしく、

階段を下りるときも、一段一段、こちらのことを振り返っていました。


おかげで、というべきか、登るときに感じた妙な感覚もなく、

無事に一階へ降り、私たちは家から出たんです。


様子がおかしい私たちを見て、

案内の人と父は困惑していましたが、

結局そのまま、次の家へ向かうことになりました。


去り際、ひとつドン、という地鳴りのような音が

家の方角から聞こえた気がしましたが、

私はもう、振り返る気にもなれませんでした。


その後の内見では、特になにが起きることもなく、

最終的に、父の会社に近かった、別の家に自然と決まったんです。


冷静に考えれば、私が妙な幻覚を見て、

飛び降り未遂をした、というだけの話。


実際に幽霊を見たわけでも、誰かに突き落とされたわけでもありません。


しかし――ようやく引っ越しが終わって、

新しい家になじみ始めていた頃。


こんなニュースが、耳に飛び込んできたんです。


『〇〇町で、女性の飛び降り自殺があった』


ええ……〇〇町は、あの四角い中古住宅のあった地区。


それも、亡くなった女性はまさに、

あの住宅の真正面にあった、マンションの住人だったとか。


時間まではわかりませんが、

日付もまさに、ピタリと一致していました。


……ただの。ただの、偶然……かもしれません。

あの謎の動きをしていた女性じゃない、かもしれない。


でも、もしかしたら。


あの、ギィギィと鳴く歯ぎしりの音のヌシは、彼女だったのか。

それとも、あの家に住み着いていた白髪のなにかだったのか。


わかりません――わかりません、が。


怪奇現象なんて起こらない平和な家を選べて、

本当に良かったと思っています。


話を聞いてくださって、ありがとうございました。

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