60.ひょうの向こうの人影(怖さレベル:★☆☆)

(怖さレベル:★☆☆:微ホラー・ほんのり程度)


あれは、ほんの数か月前のことでした。


まだ、夏に入る前の五月の頃。


季節にそぐわぬムワッと熱気漂う陽ざしに、

私は朝から辟易していました。


その日は天気が不安定という予報が出されていて、

午後には雨も降る、なんていう話だったので、

営業職である私は、得意先を回るのを午前に、

面倒な書類仕事を午後に、と予定を組んでいました。


しかし、午前の暑さは予想以上で、

アスファルトの上を歩きつつ、じわじわと染みてくる汗を

ハンカチでガシガシと拭っていました。


(あと一件……で、終わりか)


すでに昼前の時刻。


刺すような日光を浴びせかけてきた太陽も、

黒く重い雲によってだいぶ遮られ、

いよいよ天候が怪しくなってきています。


どこかで昼食をとって、さっさと会社へ戻ろう、

なんて考えていた時です。


――コンッ


小さな音が、すぐ足の先で鳴りました。


コンッ、コンッ


「うわっ」


断続的に鳴る、それ。


足元に落ちてきたのは、よくよく見れば氷の塊。

いわゆる、ひょうと呼ばれるものです。


「アッぶな……!」


人の指先くらいのサイズですが、天から落ちてくるとなれば

当たればけっこうな痛みを伴います。


周りを見れば、道路を歩いていた人たちもアワアワと慌てだして、

皆、建物の中などへ避難を始めていました。


「怪我しないうちに、中に……」


キョロ、と周囲を見回せば、

手近なところに年季の入った古本屋がありました。


丁度いい、と私は速足でその古本屋の中へと駆け込みました。


「……はー……」


雨という予報は聞いていたものの、まさかひょうが降るとは。


この調子では、昼食にありつくのは先延ばしだな、

とぼんやりと古本屋の入口で外を眺めていた時です。


コンッ、コンッ


音を立てて空から降りしきる氷の粒のなか。


白くぬりつぶされた景色の中に、薄暗い人影が見えます。


(まさか……逃げ遅れ?)


その人影は、ザカザガと落ちるひょうの下、

仁王立ちするかのように地面に立っています。


遠目に見ても、ひょうが当たっているのがわかるのに、

まるで微動だにせず、その場所――アスファルトの道の上に突っ立っています。


(いや……ぜんぜん、痛がる様子もない。頭がおかしな人か……?)


いくら命に関わるほどのものではないとはいえ、

あの塊を浴びるのですから、普通であればとても耐えられません。


そんな中、なんのリアクションもなく、

あの場に佇んでいられるというのは、いささか妙な話です。


――と。


「……え?」


私は、思わず呆然と声を漏らしました。


その、少し遠くでひょうを浴びている人影。

それが突如、ぐん、と縦に伸びたのです。


(えっ……み、見間違い……?)


ゴシッ、と思わず目をこするも、

アスファルトの上のその人物は、明らかにさきほどよりも長くなっています。


「え、なにあれ……人間……?」


つい、そんな台詞が口から零れました。


いくら、ひょうで視界が悪いとはいえ、

人間の長さが突然変わったなど、普通で考えればありえません。


(まさか……幽霊……)


人ではない、なにか。


そんなわけない、と思いつつ、

目の前で起きた異常現象に、それ以外考えられないと心の奥底がささやきます。


(やばい……見ないほうがいい)


もし人外のなにかなら、目を合わせてはいけないのではないか。


私は何かの本で得た知識そのままに、

その奇妙な人影から目を逸らそうとしました。


しかし。


コンッ、コンッ


「あっ」


降りしきるひょうが、雨宿りしている古本屋の屋根を叩いた瞬間、

私が漏らした声に反応してか――それが、フッと気配をかえました。


「ひ、っ……」


私は悲鳴を上げて小さくのけぞりました。


ひょうの向こうの、その人影。


はっきりした姿かたちも、顔すらもよく見えないそのなにかが、

確かにこちらを強く凝視している――そんな気配を感じたのです。


冷たい、どこまでも冷たい視線。


氷のような、冷え切った眼差しが、まるでこちらを

値踏みするかのように、ジーっと目を逸らすことなく見つめている。


私は、その無機質な視線に、ヘビに睨まれたカエルのごとく竦みあがり、

もはやピクリと身じろぎすることも出来ません。


なにか、とてつもなく危険で、ヤバイもの。

生存本能を揺さぶる、恐怖の塊である何か。


そんなおぞましいものが、私に狙いを定めている――。


「嬢ちゃん」

「ひえっ!?」


ポン、と。


突如肩を叩かれ、私は腰が抜けんほどにすくみ上りました。


「おやおや、大丈夫かい?」

「あ……す……すみませ……」


振り返ると、そこには眼鏡をかけた年配のご老人の姿。


古びたエプロンを身に着け、片手に書籍を持ったその姿は、

どうやら雨宿りしていたこの場所の店主のようでした。


「す、すみません! 本も買わず、ぼんやりと……!」

「いや、それは構わないんだけれど。その……大丈夫かい?」

「え……?」


店主は、眼鏡の奥の垂れたまぶたを一瞬ギュッと瞑った後、

私の背後――あの、不気味な人影の方を見やりました。


「あっ……!」


私はハッとしてつい店主の視線の先を追ってしまいました。


「あ、あれ……?」


しかし、そこには未だ降りしきるひょうがあるのみ。

あの、奇妙な人影の姿はどこにもありませんでした。


「……気をつけなよ。こんな天気の日は、余計なモンまで見えちゃうから」

「え、あ……ありがとうございました……」


ポン、と再び肩を叩いた店主は、ニコリ、と小さく笑みを残して、

再び店内へと帰っていきました。


「……なん、だったの……」


残されたのは、まるで意味のわかっていない、私ただ一人。


漠然と胸に残ったのは、おそらく私はあの店主に助けられたのだということと。

あの不気味な人影は、やはり人間ではなかったという、ただそれだけでした。




私があの日体験したのは、ただそれだけです。


ただの見間違い、幻覚、勘違い。

そのどれでも説明がつくような、さしたることのない出来事。


それでも、あの日あの瞬間に感じた、凍えるような冷気。

人外のモノに命を狙われたという、本能的恐怖。


それだけは、あれから数か月たった今でも、忘れることはできません。

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