41.アパート103号室③(怖さレベル:★★☆)

「……ここを、離れる?」

「うん。うちが嫌なら、家賃だって探せば安いとこだってあるし、

 このままじゃユキ、おかしくなっちゃうよ!」


肩をつかんでわかる、異様な骨ばった感触。


幽霊と暮らしている、なんて妄言を吐くくらいです、

もしかしたら、精神をかなり病んでいる可能性だってあります。


私は、どうにか彼女を説得できないかと、

頭を巡らしていたその時。


ズリ、ズリ、ズリ……


リビングの外、通路の方から何かを引きずる

鈍い音が聞こえてきました。


「え……?」


彼女の話通りであれば、ここに暮しているのは彼女一人で、

ペットなどは環境的に飼えないはずです。


それこそ、幽霊でもなければ――。


「あー、ダイスケ。もー、ようやく出てくる気になったの?」


真正面のユキが、パッと明るい笑みを咲かせて、

私の背後のなにかを眺めています。


「……え」


ダイスケ。


それは、彼女の妄想の相手ではなかったか。


幽霊、もしくは精霊だという、

その相手――。


ズリ、ズリ、ズリ……


確かに聞こえる。


その、粘着性の物体を引きずる音。


恐ろしい予感に、

夏だというのに腕には鳥肌がたっていました。


「のんちゃんがね、ここから出た方がいいよ、なんて言うんだよ?

 あたしがダイスケを置いていけるはずないのにさぁ」

「ゆ……ユキ?」


彼女のまなざしは、ずっと私の後ろ、

そのなにかに向けられています。


私は怖気立つほどの緊張が、

全身を支配するのを感じながら、

私はゆっくりと振り返って――


「う”っ」


途端に襲いくる激しい耳鳴りに、

ガバッと両手で耳を押さえました。


涙で濡れた視界には、

照明の届かない暗闇の合間から、

なにか、とてつもなくにごった塊が

現れようとしているのが見えます。


「ぐっ、え"ぇっ……」


チラチラと光の当たるその異形に

半ばえづきつつ、ジリジリと後ずさりします。


ほの暗い闇のなか、

目に映るそれはまさに肉の集合体。


色のそれぞれ微妙に異なる肌が、

雑に重なり合って組み合わされて、

でっぷりと太った、人もどきの姿を作ってしました。


「あーあ、ダイスケ、怒ってるよ。

 のんちゃんがこの部屋から引っ越そうなんていうから。

 ね、ちゃんとゴメンナサイして?」

「……は?」


傍らで立ち上がった友人は、

こちらに味方するどころか、

なんのためらいもなくその塊に近づき、


「大丈夫。ダイスケはやさしいから。

 ちゃんと誤れば許してくれるよ。……さ、のんちゃん」


彼女はニコッと笑みを浮かべて、

愛おしそうにその物体を撫でているのです。


「うっ……あ……」


異形と並び立つ友人。


目に映る友人の狂気に染まったその様子は、

幻覚にでも惑わされているのか、

とても正気のそれではありません。


私は、もはやうめき声しか出ない口をぐっと引き結び、

ジリジリと後ずさりました。


「のんちゃん、そういえばあたしの出したご飯、

 手をつけてなかったね。ちゃんと食べなきゃ。

 食べて、一緒にキレイになろ?」


一歩、二歩。


ズリ、ズリ……


私の下がった分だけ、

彼女とそれがにじり寄ってきます。


リビングの出口側は、

二人によってふさがれており、

とても逃げ場はありません。


「い……いや……」

「大丈夫、かわいくなれるよ。

 のんちゃんなら、私と同じだもん」


歪な笑みを宿したまま、

距離を詰めてくるそれらに、

万事休すかと、絶望に暮れかけたその時。


薄っすらと、わずかに開いたベランダのガラスが目に入ったのです。


「あっ!」


ガコン!


私はとっさにベランダに飛び出し、

エアコンの外機に飛び乗ってその柵を飛び越えました。


「ッ、痛っ……!」


いくら一階とはいえ、

柵の高さから落下したことで

足にはかなりのダメージです。


しびれた足裏をそれでも酷使しつつ、

肩に担いだままのカバンを胸元に引き寄せ、

慌てて駐車場へと駆け出しました。


「のーんーちゃーん……」


背後から聞こえてくる間延びした声。


本能的な恐怖が湧き上がり、

私はわき目もふらずに自分の車に飛び込みました。


ワンタッチ式のエンジンをかけ、

すぐさま車を出発します。


「……う、わっ」


そっとバックミラーで確認した彼女のアパートの入り口。


そこに一人、無表情の彼女が佇んでいます。


そして、

キィ、と扉のきしむ幻聴とともに、

彼女の部屋から、黒いあの塊がのっそりと現れようとして――


「……っ!」


私は一、二もなくハイスピードで加速を入れ、

いっさい寄り道することなく自宅に逃げ帰ったのです。




それから。


私はあの後、数日間、

彼女から送られ続けてくるなにかの

メッセージを開くことができませんでした。


断続的に鳴る通知に怯え、

旦那にも病気ではないかと心配される始末です。


このままではダメだと、

思い切って彼女の両親へ連絡を入れ、

あの現状のことは伏せ、

様子がおかしいから見に行ってくれないかと進言しました。


そして、どうやらそれが幸いしたらしく、

あんなうちに住んでいるのがバレた彼女は、

やはり精神も異常が見られたためか、

実家に送還されたと別の友人伝いに耳にしました。


あれだけ執拗に送られていたメッセージは、

ある日を境にパッタリと来なくなり、

私はホッと一安心したものでした。


あの、妙なバケモノ。


あれは幽霊や精霊なんて生易しいものなどではなく、

もっとおぞましい、人間の掃き溜めのような物体でした。


彼女の言葉を信じるならば、

五年前からあのアパートに住み着いていた、

まさに悪霊そのものなのでしょう。


そんな異形にとり憑かれ、

ああも変わってしまった彼女。


それから解放された彼女が、

以前のように元気な姿になるのを、

今は祈るばかりです。




……ああ、メッセージの内容ですか。


そうですね、

彼女から連絡が来なくなって、

ある日、ようやく勇気が湧いて

見てみようと内容を確認したんです。


そしたら、

そうしたら――。


……いえ、やっぱり

これは秘密にしておいたほうが良いかもしれませんね。


ええ、人には知られてはならない秘密というのが、

誰しもあるものですから。


……ふふ。

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