37.真夜中のとびだし(怖さレベル:★☆☆)

(怖さレベル:★☆☆:微ホラー・ほんのり程度)


…………えぇ、と。


これは……幽霊が出るとか、そういう話じゃありません。


でも、霊感もなにもないただの人間の私が、

人生を踏みはずしてしまった……そんな体験の話です。


そう……私は、フツーに高校を出て、

一浪して大学に入って、それなりの企業に就職しました。


ちょっと遅めの三十七で結婚して、子どもにも一人恵まれて、

一般的な幸せな家庭というものを築き上げてきました。


……自慢ではないですよ。


そういう、普通の幸せ。


それがいかにモロいものか、

これからお話しするんですから。




それがあったのは、ある日の晩。


私は一週間の出張を終え、

帰宅時間を少しでも縮めようと

スピードをいつもよりも出しつつ車を走らせていました。


夜の十時を過ぎた頃合い。


木曜の夜であっても、

県道はぼちぼち車通りがあります。


子どもが三歳のかわいい盛り。


この時間ではもう寝てしまっているでしょうが、

あのかわいらしい寝顔をみたいと、

いつもより速度が出ていたのは事実です。


そんな暗い夜道の中、不意に、

前を走っていた車が大げさなほど

ギュンと右に車線変更をしたのです。


(……あれ、工事でもしているのか?)


私が慌てて前に続こうとした、

その瞬間。


――ドン!!


まったく予期せぬ、左前方からの衝撃。


車が振動し、

衝撃でベコリと車が凹む音すら聞こえました。


――人を轢いてしまった!


私は血の気か引き、慌てて車を停止させました。


ゴロン、と道路に転がった人影からは、

まるで命がこぼれるかのように

ドボドボと血があふれだしてきています。


私はあまりの動揺に、

その人に近づくこともできません。


救急救命しなくては、と思うものの、

ガタガタと足が震えて動けないのです。


「だ、大丈夫ですか!?」


どうやら事故を目撃していたらしい後進車が、

二台三台と停まり、こちらの方へとやってきました。


「き、き、救急車と、警察……!」


ガチガチと奥歯が震えて、

なんとかやってきた人たちにそれだけお願いして、

ようやく転がる人に近づく勇気が出てきました。


「す、すみません……起きてらっしゃいますか」


今思えば間抜け極まりない、

そんな言葉をかけながら、彼女の正面に回りました。


ドロリと口から赤い液体がこぼれたその顔。


明らかに生を宿していないとわかるそれよりなにより。


私の心を凍らせたのは、

その転がった人物が――良く見知った人物だったからです。


「ナ……ナナコ……」


そう。


その血に濡れた人物。


それは、

私の妻だったのです。


びちゃびちゃと血に濡れるのも構わず、

私はそっと彼女の頬に触れました。


まだ暖かい。


でも、私が頬に触れてもなお、

妻はピクリとも動きません。


呆然とその場に膝をついた私は、

救急車がくるまで、まったく動くこともできませんでした。




警察に連行されて。


事情聴取されている間も、

私は心ここにあらず、完全に上の空状態でした。


なぜ妻があの場所にいたのか。


なぜ身を投げるようにして私の車の前に飛び出したのか。


そんな疑問ばかりが脳内をグルグルと回って、

正常な考えなどできませんでした。


警察の方でも、私が轢いたのが妻だった、とのことで、

最初は殺人としてずいぶんきつく取り調べられました。


しかし、なんでもうちの自宅を調べた結果、

遺書らしきものが見つかったというのです。


とつぜん同情的になった取調官によれば、

そこには妻が私に隠していた多額の借金を苦にして、

自殺を選ぶような内容であったというのです。


筆跡鑑定もされ、また、借金の裏付けもとれて、

本人が書いたものに間違いはないと。


ならば、なぜ――

私の来るタイミングがわかったのか?


監視カメラや、他の車のドライブレコーダーによれば、

彼女があのタイミングで飛び出したのは完全に偶然で、

狙ってのことではないようだ、というのです。


そう、つまり。


妻を私が轢いてしまったのは――

まったくの偶然だったんですよ。


彼女は、県道の車通りの多いところで、

ここならば確実に死ねると思って飛び込んだのでしょう。


子どもは彼女の父母に預けられており、

私にだけ遺書も知らせるつもりで。


私は遺書が見つかったことと、

出張のアリバイと監視カメラの映像から、

過失はないと判断され、放免されました。


でも、だからといって。


良かった、捕まらなかった、

なんて考えることなんてできないんですよ。


妻はもういない。


それどころか、

その妻を轢き殺したのは私です。


いくら法律で裁かれないからといって、

その事実は変わらないんですよ。


しかも、彼女の自殺という事実がわかったのは、

私が逮捕された後です。


つまり、

私は妻殺しとして、いったんは報道されてしまっているのです。


いくら後から無罪と下されても、

一度報道されれば、周りの目は白かったのです。


自殺にみせかけた殺人ではないのか。


妻の悩みも見抜けなかったのか。


妻殺しが子どもを育てるのか。


そんな声が、聞こえてくるのです。

当然、仕事も辞めざるを得ませんでした。


彼女のご両親は、妻の不徳であったと認めながらも、

子どもをこちらに返そうとはしません。


たしかに、無職の男にかわいい孫を

渡そうとは思えないのでしょう。


私は何もかもいやになって、

妻と子どもと暮らしていた東北から、

はるか遠くの中国地方へ引っ越しました。


今は定職につかず、

派遣の仕事をほそぼそと続けています。


あの日まで……。


そう、本当にあの日まで、

私は幸せな生活がずっと続くと思っていたんです。


出張前だって、妻の様子はなんら変わりなかったし、

子どもをかわいがる母の暖かな愛にあふれていました。


借金だって、そんな金銭に困窮するほどの

生活ではなかったし、どうしてあんなことになったのか……。


今でも、罪悪感からか、

あの時の光景を夢に見るんです。


妻はそのたび、怒りだったり、悲しみだったり、

笑顔だったりと、さまざまな顔で私の前で死んでいくのです。


以前はメタボと揶揄されるほどだった体系も、

薄気味悪いと嫌煙されるほどに、

骨と皮だけになってしまいました。


……ああ。


子どものこと……ですか。


あの子は、

親を知らずに今年成人を迎えます。


もはや、私に生きる目的などありません。


養育費をただ仕送るだけが、

私の父としてできる最後の償いなのです。

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