36.湖の上の白無垢②(怖さレベル:★★☆)

シン、と静まり返り、虫やらドロ汚れやらが

あちらこちらにくっついたトイレは不快度MAXで、

私はやることだけさっさと済ませてさっさと外に出てしまいました。


「お待たせ……」


足をぶらつかせて待っていると、

友人がのっそりとトイレから出てきました。


「ったく、よくこんな便所で長居できるよなぁ」

「しょーがねーだろ? 腹の具合が悪くって……さ……」


唐突に。


川瀬の言葉が、尻すぼみに消えていきました。


彼は私の背後、湖の方角を見つめて、

時でも止められたかのように静止しています。


「おい……?」


私はその異様な様子に、

目前に立つ彼の視線の先をそっと辿りました。


「なん…………うっ」


なにも見えないではないか。


そう茶化そうとした私の声は、

それに気づいた途端、うめき声に変わりました。


広い湖畔のその上。


来た当初、湖の中心でプカリと浮いていた筈の、

あの不気味なボート。


それが、恐ろしいほど間近に――

そのトイレのほんのすぐ真後ろに浮いていたのです。


「……ど、して」


掠れた声はロクに音にならず、

ヒュウヒュウとブザマに漏れるばかり。


真夏のジメっとした生ぬるい暑さが、

じっとりと不快な汗を背筋に浮かせていきます。


ちゃぷ、ちゃぷ……


水面の揺らぐ水音。


そのボートの上で身じろぐ人影に、

必死で焦点を当てぬよう、眼球を真下に向けてジリジリと後ずさります。


「う……あ……」


友人の呻き声が、どこか遠く。


黒い水面に浮かぶ白いボートだけが、

ボウッと幻想のように浮かび、

フッと月光がひときわ強く輝いた真正面。


「……え、っ」


白無垢の着物。


こちらに背を向けた、

女性の姿が。


「な……は……?」


あまりにも現実と乖離した状況に、

まったく頭がついていきません。


真夜中の湖。


トイレの横に男二人。


前には白無垢をまとった女性。


完全にフリーズした我々を前に。

その女性はカタン、と少し揺れました。


ちゃぷ……きぃ


水面の揺らぐ音。


ボートの上、肩を動かした女性の動きに、

私はハッとしました。


――振り返ろうと、している?


その想像は、ゾッとする悪寒をも

身体にわき立たせました。


得体のしれぬ着物姿の女。

人であるのかも、わからないソレ。


もし、目が合ってしまったら――?


私は固まる身体を叱咤して、

隣でガタガタとまるで電動歯ブラシかのように震える友人を

引っぱたきました。


「オイ、走れ! バイクまで!!」

「お、おぉ……ま、待てって!」


呆けた友人を置いて駆け出せば、

慌てふためいて川瀬も追ってきます。


幽霊か人間かはわかりませんが、

水上にいる状態で、陸上のこちらまでついてはこられまい。


そうタカを括って、

逃げ去ってきたトイレの方角を、

チラリと振り返ってしまったのです、


ギィイ……


そう、音が聞こえそうなくらいに。


白無垢の女性の首が90度、

マネキンのように不自然にこちらに動くのを、

ハッキリと目撃してしまいました。


「ひ、ぐっ……」


上げかけた悲鳴は必死に喉奥で殺し、

わき目もふらずにバイクに飛び乗りました。


「お、オイ。あんまり急ぐと危ねぇぞ」


川瀬はアレを見なかったのか、

鬼気迫る勢いでエンジンをかけるこちらに心配顔です。


「い、いいから早く戻るぞっ!」


私はそんな友人を怒鳴りつけ、

エンジンをフルスロットルでかけて、

即座にその湖を後にしました。




あの後。


宿泊予定地であったキャンプ場へ戻り、

ワイワイと賑わうそこに、

私たちはホッと一息をつきました。


正直、バイクで走行している最中も、

サイドミラーに何か映ったりとか、

夜道にスッと何か現れたりはしやないかとヒヤヒヤしていましたが、

ここに辿りつまで、何事も起きることはありませんでした。


年甲斐もなく、半泣きでヘナヘナと開いている場所に座り込めば、

隣で同じく疲れた表情の川瀬があぐらを組みました。


「……なんだったんだろーな、あれ……」


張っていた神経が解れたせいか、

脱力のままに寝転がって空を見上げ、ポツリと呟きました。


「幽霊……だよな、たぶん」

「あんなにハッキリ見えるもんなんだな……」


と、完全に気を抜いていたその時。


「ひっ……う、わぁ」


突如、川瀬が引きつった悲鳴を上げたのです。


「な……なんだ、どうしたんだよ」

「おっ……オレのバイクの、ざ、座席んトコ……」


と、這いつくばるようにしてその場から離れていった友人の言葉に、

私はおそるおそる、木の脇に置かれた彼のバイクに近づきました。


「……っ!?」


そこには。


まるで、おしろいをはたいた指をこすりつけたかのような線が、

くっきりと側面に残されていたのです。


「…………」


私たちは、翌日、

すぐに神社の祈祷の予約を入れました。




それから、幸い私たちには奇妙なことは起こっていません、


あの湖のアレは幽霊であったのか。

それとも、只の人であったのか。


少なくとも、ご祈祷を頼んだ神社の神主さん曰く、

「何でもないから、気にしないほうが良い」と言っていたのが

救いではありますが……。


よく、水辺には悪いモノが集う、なんて言葉を耳にします。


きっと、面白半分であんなところに行った報い――

今は、そう思っています。

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