冬、待ち合わせの約束

浮立 つばめ

第1話 冬、待ち合わせの約束 1


 ***☆***

 冬の始まりはいつだろうか。やはり雪が降り出してからだろうか。また春になるまで自転車にも乗れなくなるのだろう。外出にはコートを着る季節の始まりを、空は氷の結晶を降らし、告げていた。

 初雪が冬の始まりとすると、今年は冬の到来がいつもよりも早かった気がする。初雪は十月の中旬にもうすでに降ってしまった。平年よりとても早いらしく、テレビで騒がれていたのを覚えている。まだ十一月の上旬。今日も非常に強い冬型の気圧配置となり、この北海道では雪が各地で見られるらしい。目を覚ましたとき、ベッドから出たくなくなるほどの朝の冷え込みは、まさに冬のそれだった。

 今日の雪は積もるだろうと予想されていた。ちょっとした幻想的な景色を楽しみにしていた。雪かきが必要になるほど積もると、すぐにうんざりしてしまうのは分かっているのだけれど。

 授業中であるが、僕は窓の外を、でも授業中だからじっとではなく、ちらりと眺めていた。

 ほら、降り始めた。

 ふわっと、優しく、雪が降り始めた。冷え込みがきついから、べたべたな雨のような雪ではなく、漂うような雪。それをぼーっと見ていた。

「あ、雪だ」

 授業中、後ろの席、相田さんがそっとつぶやいたのを聞いた。


「おい、永井。永井健。別に真剣に授業を聴け、とは言わないが、真横をずっと向いてるのは勘弁してくれ」

 と教師に怒られてしまった。



 ガタン、と揺れる。ゴトン、と音がする。ときどきスピードを緩め、止まり、その場所を告げてまた加速する。

 電車に乗っていた。学校からの帰りの電車。僕は片道一時間強の長い距離の電車通学をしている。そんなに長い時間座っていると、つい車内で寝ていることも多い。しかし、今日は睡眠が十分に足りていたからだろうか、起きていられていた。せっかく起きているので、受験生であるために、それらしく英単語の本を片手に持って見ていた。隣に座っている友だちの雅人も僕と同じ駅で降りるのだが、彼は気持ちよさげに寝ている。

 ふと前を見ると女の子が笑っていた。今年からよく車内で見かける子。手には一冊の本がある。タイトルはカバーがかかっていてわからない。

 笑ってしまったことが恥ずかしかったのだろう。彼女は少し慌てた様子になり、顔を赤らめた。僕と目が合う。逸らされた。

 外は三日ぶりの雪が降っている。まだ十一月中旬だというのに寒い日々が続いていた。横で寝ている友人は「このままの寒くなり方でいくと、四月には外は常に冷凍庫だな」などと、眠る前にありきたりなボケをしていた。でも、それくらい寒い。

 受験勉強、僕は東京の大学を受けるつもりだ。ここまでの模試の判定は好調で、Bの判定を前後していて、気持ちにも少し余裕がある。でも抜かりなく勉強していかねばならないと思う。

 しかし、英単語を覚えるのはただただ苦痛であった。だから、思わずまた顔をあげる。英語は言葉だから、いやいや覚えるものではないとは分かってはいるのだが、どうにも、単調になりがちな、覚えていく、ということが苦手だった。

 さっきの女の子は本を片手にいつの間にか眠っていた。時折、本を持つ手が緩み、本が手からこぼれそうになるが、反射的に力が入るのか、落ちはしていない。彼女はよく電車で見かけるから、その記憶が正しければこの子はいつも次の駅で降りているはずである。だが、まだ起きる気配がない。あと一分ほどで着くというのにまだ寝ている。しかし、電車で顔を合わせるだけの関係なだけで、起こすのも気がひけるよな、と思う。どうしようか、と友だちの方を見ると、やはり彼はまだ気持ちよさそうに寝ていた。やはり電車内の睡眠は気持ちいがいいのか。

「おさつー、おさつー」

 駅名を告げるアナウンス。その瞬間彼女は起きる。慌てて周りを見渡して電車から降りて行った。やっぱりね、と僕は思う。そういう経験は、自分自身にも何度かあったから。体が、時間と感覚を覚えてしまうのだ。

 気を取り直し、再び英単語を覚える、と言うより眺めていく。annoy、不快にさせる。この作業が不快です。もうこれは覚えたんだった。


 まだ十一月のある日、体育の授業はバスケットボールだった。あまりうまくはないけど、もともと運動部に入っていた僕にとって、体力にはちょっと自信があり、自分で言うのもなんだが、目障りなほど、ちょこまかと動き回っていた。授業は受験生相手だとわかっているのか、ほとんどが試合であり、みんなそこそこ本気でやっているので、楽しく、勉強のいい息抜きになる。

「はい、カツオ」

 パスを送る。なんでも器用にこなし、明るく友好的な、皆にカツオと呼ばれる彼は、受けたボールをしっかりとキャッチし、フェイントを入れ相手ディフェンダーを惑わせ、少しドリブルしてからシュートを打つ。それが決まり、同じチームのメンバーで手を合わせる。パチン。うまくいくと、こういうのは楽しい。

 ボールがコートの外に出てしまう。体育館の中央のネットに引っかかった。ネットの反対側では女子の体育の授業が行われている。女子のほうもバスケットだったみたいで、向こうからもバスケットボールがやってきて、ネットに引っかかる。そこに相田さんがやってきた。

「お疲れさん」

 声をかけてみる。

「うん、そっちもガンバ」

「そっちこそ」

 僕はボールを持つ。走る。味方に渡す。少し嬉しくなる。


 今日の数学の授業は聞いても仕方なかった。私立の高校というのもあり、とうに授業ではただただ演習の問題の解説をしていた。その問題はそんなに難しくもなく分かっていたので、僕は授業を一切聞かず、ほかの問題を解いていた。その日の先生が僕を当てることはなく、淡々と進んでいく。窓際の席ではないが外を見る。木は枯れていた。この前積もった雪はいったん融けてしまってグラウンドの土がまだ見えていた。

 放課後になる。帰る友だち、予備校に行く友だちにバイバイと言って、図書室へと向かう。この時期にもなってくると、そこで勉強している人は決まってくる。大体が名前の分かる人。あんまり話したこともない人も多いけれど。

 今日はあまりに眠かったのでまず寝ることにした。出を枕に机に突っ伏す。勉強するための机で寝てしまうのって、どうしてこんなにも気持ちよく感じられるのだろうか。試験中はよくないが、こと勉強する、と言ことにおいては、眠い時に無理に詰めても効率が悪いだけであるから、寝てしまった方がいい。という言い訳をして、まどろみを楽しむ。

 気づくと二十分ほどたっていた。苦手な英語を始める。和訳して、模範解答と比べる。微妙である。これは、僕の作文自体のセンスが悪いのだろうか。英訳して、模範解答と比べる。これは、明らかに語彙が足りていないと嘆く。

 区切りもよくなってきたところで止める。時計を確認すると、二時間ほど時間が経っていた。周りを見渡すと、いつも端っこの定位置に座っている女の子は寝ていた。いつも気まぐれなところに座っている僕のことを、彼女は知っているのだろうかとふと思う。彼女はとても成績がよく、そして受験のために最近彼氏と別れた、と聞く。理由の真偽は分からないが別れたことは事実らしい。かなりおとなしい印象を持っているのだけれど、意外とそういうわけでもないのかもな、とその噂から考えられる。勝手なことを考えていると、彼女が目を覚ました。起き抜けに周りを見渡した彼女と目が合った。僕は慌てて目をそらす。下世話なことを考えていたからついそらしてしまった。変に思われたかもしれないが、気にすることはない。気にすることはないんだ。さあ、次は物理でも解くか。

 カリカリと問題を解く。考えることは疲れるが、でもそんなに苦ではなく、むしろ楽しいことも多い。ただ、受験問題はちょっとつらいかな。楽しいという感じではないのでもう一年やれ、といわれると辛いだろう。とそんな感じで解いていると、図書室が閉まる時間になり、僕はいつも通りまだ開放されている教室へ移動する。

 この時間に自分のクラスの教室に行った後、いつもなら、ここでまた勉強を再開するか、友達と話をするか、その二つの行為のどちらとなるかが雰囲気次第で決まる。私的にはどちらでもいい、ある程度勉強した後だから息抜きでも、またやるのでも。ここでやらなければ家に帰ってからすればよい。

 この日は黙々とみんなが勉強していた。教室に入るときに「おっす」とだけ小さく発し、席に着く。

 帰りの電車の席は少し埋まり気味だったので、いつも通りの友達と立ってしゃべっていた。僕の片手には英単語帳。これがなくなるのは受験が終わってからだろう。いや、これだけ英語に苦しんでいるのだ、きっと大学生になっても苦しむに違いない。

 いつの間にか進路を迫られた僕は、とっさに思いついた進路を選ぶことにした。たぶん、後悔するような気もする。スポーツ選手や料理人や美容師になりたいわけではなく、勉強は周りよりできて、理数が得意で、どちらかというと、工学よりも、もっと基礎的な、根本的なことが知りたいと思い、理学部を志望した。後悔する気しかしない。就職活動とかではもちろん、理系なら工学や医歯薬なら、間違いないから。

 ただ、未来を決める。その需要な選択肢を突き付けられて、僕は高校三年間はあまりに短いような気がした。

「高校三年間、早かったな、って思わない?」

 隣にいた友達に聞いてみる。

「突然どうした。まあ早かった気もするな」

 そうだよね。そう思う。

 電車は動きを止め、ドアを開ける。いつも見かける女の子が乗ってきた。手には文庫本。

「どうした」

「いや、なにも」

 女の子を見ていたなんて答えたら、なんといわれるか。

 ガタンゴトン。ガタンゴトン。電車は進む。時間も進む。気づいたら大学生になってそうな、もしくは浪人してそうな、想像がつかないけど、そんな感覚に陥る。今日も帰ったら勉強しますか。

 そんな、学校生活と受験勉強で頭がいっぱいだった二年前の立冬の僕。

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