第二話 最低の仲間
莫大な水力に恵まれた水都は古くから河の流れに寄り添って発展してきた。豊富な魚が人々の胃袋を満たし、河は船と共に荷物を運び、水車が尽きない動力をもたらした。やがて水都の人々は水の流れから電気を取り出すに至り、電灯に照らされた大都市は夜でも多くの人々が活動している。消えない灯りは都市を眠りから解放し、眠らない都市は発展の歩みを今日も早め続けている。
そんな水都の輝かしい夜景を、剛堂仁也は魔籠技研の所長室から冷ややかに見下ろす。
理不尽な異世界転移によってポラニアの土を踏んで、十二年以上の月日が流れた。右も左も分からない中、必死で生き残ってきた。使える物は何でも使った。卑怯な手段も厭わなかった。敵対する者に情けは掛けなかった。
魔籠の技術を生み出して絶賛された。人生をかけて設立した小さなギルドは、やがてポラニア王国屈指の大都市である水都に本拠を構え、ついには王国の歴史上最初にして最大の魔籠ギルドにまで成長した。
剛堂は紛れもなく異世界転移の成功者だった。これ以上無いほどの社会の高みに座し、日本にいた頃よりも格段に認められ、使い切れないほどの財産を築き上げた。だが、この立場も財力も権力も、全て目的のために必要な道具でしかなかった。
空虚だ。と、剛堂は思った。この世界の誰もが羨む全てを手に入れ、しかし自分の望む最も大切なものはこの手にない。
剛堂は振り返ると、自分の事務机に目をやった。そこには古い革製のパスケースが置かれている。異世界転移した際に日本から持ってきた品だ。中にはとっくに有効期限の切れた電車の定期券と、一枚の色あせた写真が入っている。写っているのは大人の女性と、少女が一人。剛堂が日本に残してきた家族だった。
不意に、視界の端で何かが動いた。目をやると、いつの間にか応接机に一人の女が座っていた。
「声くらいかけたらどうだ」
「今、そうしようと思っていたところよ」
フラウ・フェアトラ。この無礼な客人の名だ。
ここポラニア王国で活動する団体であるフェアトラ復権会の長。歴史に名高い魔法使いフェイス・フェアトラの子孫を名乗り、世間からはその真偽を怪しまれている不審な女だ。
優良大手ギルド魔籠技研の長である剛堂が、このような怪しい女を招いていると知れたらどんな噂が立つか分からない。そういう人物である。それでもフラウと関係を保っているのは剛堂に利があってのことだ。
「重要な局面なんだ。少しは態度を改めてほしいものだな」
「あら、遊びは大切よ。張り詰めすぎた弦は切れてしまうものでしょう」
飄々と言うフラウに苛立ちながらも、剛堂はそれ以上の注意を止めた。フラウの対角に着席すると、本題に入る。
「今のところ準備は問題なく進んでいる。工場は日程通りに動かせそうだ」
「こちらも問題ないわ。少しばかり強引だったけれど、貴方のお陰で学都の子も無事に動かせそうよ」
「そうか」
フラウの返事を聞いた剛堂は、安堵の溜息を一つ吐いてから言った。
「まさか学生をたった一人動かす口実作りに、工場を新設することになるとは思わなかった」
「かなりの秘蔵っ子だったようだし、相応の旨みが無ければ動かないのが学都という街よ。それでも、貴方は良くやったわ。正直言うと驚いてるのよ。さすが魔籠技研の所長さんね」
「無茶苦茶な工期で批判は凄かったがな」
学都に秘匿されていた南桃花という異世界転移者。その存在についてフラウの報告を受けてから大急ぎで動き始めたが、それでもかなりの無理を押し通した。剛堂が魔籠技研を設立してから最大の強権と人脈、そして財産を投じたと言っていい。
「絶対に逃せない。必要ならば命以外のどんな代償でも支払うつもりだ」
「知ってるわ。その執念、私は好きよ。この計画で協力関係が終わってしまうのが勿体ないくらい。何とか続けられないかしら?」
剛堂はフラウを睨みつけた。
「調子に乗るなよ。お前が計画に必要でなければ、真っ先に殺しているところだ。お前は、僕の敵だ。それを忘れるな」
「それも知ってるわ」
そう言ってフラウは不敵に笑った。この女とは最低最悪の協力関係にある。本当ならば即座に首を掻き切りたい程だったが、それが不可能だとフラウは知っているのだ。
剛堂は意識的にフラウから視線を外して、努めて冷静に話を続けた。馬鹿馬鹿しいやりとりに無駄なエネルギーを消費するべきではない。これまで積み上げた全てを最後の計画に投じることだけを考える時だ。
「鐘鳴君は問題ない。すっかりうちに馴染んでいるし、誠実に仕事をしてくれている。当日の指示も問題なく聞いてくれるはずだ。今川君も、これまでの経験から考えれば誘いには応じてくれるだろう。ただ、彼には少々厄介な相手が付いている」
剛堂の脳裏に二つの小さな影がよぎった。
「ルルちゃんたちかしら」
「ああ。あの子たちなら気づくかも知れない。紛れもない天才の目だ。もしもの場合に備えて対処方法は考えておく必要がある。妹の方には既に怪しまれているようだが、まだ核心が掴めていないという感じだ」
「多少強引な手に出てもいいと思うわよ。美しくはないけれど、手っ取り早いのは確かだし。私たちが負けるとは考えられないでしょ」
「一人でも欠けたら不足なんだ。力技は最終手段にする」
「そうね。もう余力もないことだし、これが最初で最後の機会になるでしょうから」
フラウはそう言いながら立ち上がる。部屋の扉に手をかけ、振り返った。
「次は決行の日に会いましょう」
フラウが去ると、部屋は再び静寂に包まれた。
今日の報告をもって、全ての準備が整った。
剛堂は立ち上がると、机の上に置かれていたパスケースを手に取った。ここでは何の役にも立たない品物。しかし、故郷と自分を繋ぐ心の支え。
パスケースに収められた写真を指でなぞる。
「もうすぐだ」
剛堂は一人呟き、夜景へ向き直った。
この忌まわしい夜景も、直に見納めだ。
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