第三十三話 星を降ろす

 大渦に流されるまま、沈んでゆく。

 どうすることもできなかった。相手はあまりにも強大で、悪意に満ちていた。

 せめてもの抵抗として、鐘鳴はマリンをしっかりと抱いたまま放さなかった。マリンが鐘鳴の背に回した腕にも力がこもっている。互いの思いは同じだ。


 海面はあんなにも荒れ狂っていたのに、海の中は静かだった。それでも、圧倒的で抗いがたい力が自分たちを底へ底へと引きずり込んでゆくのが分かる。

 下方へと目を向ける。底の見えない闇を背景に、身の毛もよだつ化け物が待ち構えていた。

 海の支配者、真なる魔物クラーケン。その本体だ。

 広げた触手を海面へと伸ばし、開かれた口がこちらへと向けられている。このまま進めば間もなく二人は魔物の餌となるだろう。

 

 本当にここまでなのか? 待ち受ける死を目前にして思う。信弘が最後に言ってたことは何だろう。

 鐘鳴の首にはかいりゅう座の魔籠がかかったままだ。フェアトラの遺産などという、得体の知れない代物。これのせいでどれだけひどい目に遭わされたか分からない。それでも、これはマリンの夢の形そのものだ。

 どうせ終わるなら、最後に試してみるのも悪くはない。

 鐘鳴がマリンに目を向ける。海水でぼやけた視界の中、その顔が確かに微笑んだ。


――散々な目に巻き込んだんだ。最後くらい活躍してくれよ。


 目を閉じて念じる。マリンも同じ事を思っているだろうかと考えながら、魔籠へと魔力を流した。マリンの魔力も鐘鳴の体を通して魔籠へ流れ込んでいくのを感じる。

 胸元が温かい。瞼の裏に光が満ち始める。


 鐘鳴は目を開いた。青い輝きが二人の間から漏れ出している。海の闇をかき消すほどの強い光。マリンの顔が驚きに満ちている。自分もきっと同じような顔をしているのだろうなと鐘鳴は思った。

 水に揺らめくペンダントの飾り、かいりゅう座を象った星々の模様が光の源だ。


 そして鐘鳴は見た。クラーケンの背後、遙か深みに現れた影。底知れぬ海から昇りくる、人間ごときの視界には収めきれない、大いなるものを。

 莫大な水の奔流。突き上げるそれに思わず目を瞑り、マリンを抱く腕にちからを込めた。


 音が戻ってきた。

 気づけば、海面は下にある。しっかりとした足下に目を向けると、そこは畳数枚分はありそうな巨大な鱗の上だった。隣ではマリンが言葉を失って口をあんぐりと開けている。

 見上げれば、天を突くほどの高みまで伸びる巨大な影。その先端には牙を剥き出しにした頭部。あまりに高すぎてその細部を見ることは叶わなかった。


 鐘鳴は確信した。今、二人は神話の海竜の上にいるのだ。

 海から突き出した胴体の一部に二人は座り込んでいる。注意深く見れば、近くにある胴体の別の部分には信弘とララがいるのが見えた。そちらの二人も今の状況に唖然としているようだ。

 周囲を見渡すと、海面のあちらこちらからうねり動く海竜の胴体が突き出していた。それは遙か遠く水平線にすら見受けられ、海竜の全長はもはや想像すら及ばない。神には海すら狭いのかも知れなかった。

 海は大荒れになり、真昼だったはずの空はいつのまにか満天の星空に変わっている。天高く一際輝くあれは、かいりゅう座だ。神は空すら自分の色に塗り替えてしまった。


「これが海竜」


 想像を絶するスケールに、鐘鳴は今の状況も忘れて感嘆した。


「星座の、神……」


 人知を超越した星の雄大さを前に、その場の全ては塵に等しかった。クラーケンも人間も同じだった。神には敵わないという点において。


「はあ……? なんだよこれ、ふざけんなよ、こんなのありかよ」


 下方の海面でカインが嘆いている。無理もないだろうと鐘鳴は思った。こんな滅茶苦茶な一発逆転があるだろうか。

 あれほど強大だったクラーケンは、もはや切り札たり得ない。トランプゲームでジョーカーを出したのに、返しで核爆弾を撃たれたようなものだ。


 海竜がクラーケンを見下ろす。敵……いや、餌食と認識したのか。その恐るべき顎を開いたままクラーケンへと迫った。

 クラーケンを中心として、再び大渦潮が発生する。それはさらに勢いを増し、ついに立ち上る水の竜巻として海竜に襲いかかった。おそらくクラーケンの魔法だろう。その規模は尋常ではなく、一つの災害とも呼べるレベルの大魔法だった。が、神に届くほどではない。海竜は押し寄せる攻撃を意に介さず、ただただ頭を進めた。太い胴が守りとなって、鐘鳴たちには魔法の余波が届くことすら無かった。


 ついに万策尽きたクラーケンが、最後の抵抗とばかりに触手で応戦するも、それが無駄な行為なのは火を見るより明らか。ここからは広場にあった像と同じ、伝説の再現だ。

 顎に触手が絡まることなど気にもせず、海竜のたったひと噛みでクラーケンの巨体は粉々の肉片となった。無残に千切れた触手がボロボロと海面へ落ちてゆく。

 カインの姿は消えた。一緒に飲み込まれたのか、海へと逃れたのかは分からない。ただ、あっけなく脅威が去ったことだけが分かった。


「ハル君」

「なんだ」

「私、すごいもの見てる」

「ああ……」


 マリンにとっては夢が叶った瞬間だった。遙か昔にフェイス・フェアトラから受け継いだという魔籠、その真偽不明の言い伝えをずっと信じて目指してきた結果だ。予想し得ない状況で起こりはしたが、目の前で起こっていることは紛れもない現実である。

 お互いに思うところは色々あるはずなのに、出てくる言葉はあまりにも簡素で、しかし完璧に状況を表していた。すごいものを見ている。その通りだった。


 粗末な食事を終えた海竜が僅かに身じろぎし、それだけで海が唸った。

 用は済んだとばかりに、その体を海へと浸らせてゆく。やがて海竜の全身が海へと消え去ると、空も海も元に戻っていた。温かな昼の日差しと、凪いだ海面の中に鐘鳴たちは浮かんでいた。辺りに漂うほんの少しの木屑が、ここで何が起きたかを物語る小さな証拠だ。


「終わったみたいだ」

「そうだね……」


 あまりにも壮絶な出来事の後で、現実感を忘れそうだった。頭上を飛んで行く海鳥の声があまりにも平和すぎて、さっきまでの出来事が夢のようだ。

 マリンの夢を叶え、ついでとばかりにマリンを脅かしていた存在を退けていった星座の神。慌ただしく一瞬のうちに問題を食らいつくしていった海竜が残した唯一の問題は、ここから海都まで泳いで戻らなければいけないという、ただ一点だけだった。

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