第三十一話 深みより来たる

 鐘鳴が飛び乗った船は先行するカインを追走中だ。

 腕に付けた魔籠が青く輝き、水流操作の魔法が船を押し続ける。この腕輪はマリンが作ってくれた魔籠。鐘鳴が持つ莫大な魔力にあわせて出力を上げてくれたという特別製だ。


 マリンは鐘鳴が持つ異常な魔力について何度か言及したことがある。とても珍しいし、すごいことだ、希有な才能だと褒めてくれたが、鐘鳴自身には実感が無かったし、活用の場面も限られたからすごいと言われてもピンとこなかった。ただ、マリンの研究に役立つなら良かったかなという程度だ。

 今、鐘鳴は初めて自分が持つ無尽蔵の魔力に心から感謝していた。これが無ければ魔法の初心者である鐘鳴にカインの追走など不可能だっただろう。


 流せるだけの魔力をつぎ込んで魔籠をフル稼働。少しずつではあるがカインとの距離は縮まりつつあった。相手は激しい連戦直後で操船に魔力全開というわけにはいかないのかもしれない。鐘鳴にもチャンスはあるはずだ。


「マリン!」


 呼びかけても返事はないが、もう距離は近い。こちらを睨みつけるカインの顔も明らかになってきた。だが、それは向こうの射程圏内にも余裕で入っているということだ。もう猶予はないだろう。

 こちらの水魔法は通用しない。より高度な相手の魔法に掌握されてしまうから。しかし、たった一つだけ、奥の手がある。


 いよいよ船が接近する。カインの船が水を切る音が聞こえてくるほどだ。

 鐘鳴は意を決した。


「マリン、目を閉じろ!」


 意図が伝わってくれることを願って叫んだ。

 間髪入れずに手を突き出し、唱える。


「スタインフルーフ!」


 指輪が輝いた。

 コカトリスの目玉を使った魔籠。ルルから預かったまま返しそびれていたのだ。


 魔法が発動した。面食らったカインが硬直している。同時に、カインの魔法は制御が崩れたのだろう、マリンを拘束していた水が剥がれ落ちる。


「こっちに来い!」


 マリンの行動は早かった。為す術無いカインの横をすり抜け、船を飛び降りる。鐘鳴は海面の水を操作してマリンを受け止め、素早く自分の船へと乗り移らせた。


「ハル君!」

「マリン! よかった。すぐに逃げるぞ」


 飛びついてきたマリンを抱き留めると、鐘鳴はすぐに船を転回させるべく魔法を使った。

 水流操作に海面が揺らぎ、船首が向きを変えてゆく。しかし、その動きは途中で止まってしまう。もちろん、鐘鳴が操作を放棄したわけではない。今も全力で魔法を発動中だ。

 鐘鳴はカインを睨んだ。カインもまた鐘鳴たちを睨みつけていた。

 硬直が解けたのだろう。すでに鐘鳴の魔法は通用しない。


「妙な小技を使うじゃないか。一本取られたよ」

「お前よりも凄腕が作った魔籠だ。恐れ入ったか?」

「調子に乗るなよ」


 鐘鳴を冷ややかに見据えながら、カインは言う。


「もういいよ、お前ら。ここで死ね」


 背筋がゾクリと冷える。何か尋常ではない気配に全身が引きつる感覚。マリンも感じたのだろう、目に明らかな恐れが見える。しかし、その正体は見えない。今のカインからは苛烈な怒りのようなものを感じない。ただ淡々と行く末を見物するような、冷め切った態度だ。


「ただ海に沈めるのもつまらねえからな。最後に良い物見せてやるよ」


 突如、船が大きく揺れる。大きな風もないのに海面が大きく波打っていた。

 よろめいて船縁に手をついた時、海面が見えた。


「ひっ……!」

「あれは!」


 マリンが口を押さえて悲鳴を押し殺し、鐘鳴も驚愕に目を見開いた。


「俺も驚いたよ。まさかこんな近海に生き残りがいたなんてな」


 深い青の向こう。鐘鳴たちの視界を埋め尽くす、悪夢をそのまま形にしたようなそれは、乗ってきた船ほどはありそうな大きな目玉でこちらを見上げていた。


「クラーケン……」

 

 マリンが呟く。


「こいつを手懐けるのは天才の俺でも骨が折れたよ。本当なら大発見だったんだがな、もう発表する場もない」


 二隻の船を取り囲むように、周囲の海面から巨大な触手が突き出された。一本一本が塔のような高み、見上げるほどの脅威。このどれか一本でも振り下ろされたなら、鐘鳴たちの船など木っ端微塵だろう。


「こいつにとっちゃ腹の足しにもならんだろうが、せいぜい苦しんでから食われろ」


 マリンが鐘鳴にしがみつく。鐘鳴もマリンを抱きよせるが、打つ手はない。


 かつて海を支配したという真なる魔物、クラーケン。生ける伝説を前に、二人の存在はあまりにちっぽけ過ぎた。


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