第5話 奉職奉告祭
翌日、僕は約束の10時の15分ほど前に神社を訪れた。
「先にうちの方に案内しましょう」
スーツ姿に大荷物で現れた僕を、佐々木宮司は自宅の建物へと案内してくれた。
トイレや風呂場の位置を説明されながら案内されたのは、客間らしき八畳ほどの和室だった。
「布団は今干していますから、後で取り込んでくださいね。
他の荷物はどうされましたか?」
「前の神社と相談して、すぐに必要ないものはしばらく寮に置かせてもらえることになりました。
残りの着替えなどは今朝コンビニから送りましたので、明日こちらに届きます」
今日もかなりの大荷物で来ているが、実はこれでもほぼ今日明日に必要なものだけである。
神主は装束などで荷物がかさばってしまいがちなのだ。
「わかりました。
それでは着替えたら先ほどの渡り廊下を通って社務所に来てください。
あ、それと鍵をお渡ししますので、社務所に来る時にこちらは鍵をかけてきてくださいね」
「はい、わかりました」
佐々木宮司が部屋を出ていくと、僕は白衣と
風呂敷に
途中で下駄箱に寄って
「中芝さん、こちらはアルバイトの松下太郎くんです。
同居している画家の方の助手とモデルが本業なので、こちらには土日と私が
太郎くん、さっき話した中芝拓也さんです」
佐々木宮司に紹介され、互いに「よろしくお願いします」と頭を下げる。
松下くんは目がくりくりっとした、素直そうな感じの子だ。
なんとなくだけど、うまくやっていけそうな気がする。
「それでは、先に
中芝さんはそのままで構いませんから、ついてきてください」
「はい」
宮司の後について拝殿に入り、ご祈祷を受ける側の席に座る。
奉職奉告祭は前の神社でもやってもらったが、ご祭神への最初のご挨拶なので、少し緊張する。
宮司は側に置いてあった太鼓を叩いた後、祭りを始めた。
紫の袴をはいているだけあって宮司の神職歴は長いようで、祭りの
祭りは進み、やがて宮司が祝詞を開いた。
「
やや低めのよく通る声の祝詞は、しかし始まってすぐに途切れてしまった。
あ、とちった。
そう僕が思った次の瞬間、宮司の声が響いた。
「
そうして祝詞は何ごともなかったように続いていったが、僕はすっかり混乱していた。
えっ、「並びに」って何?
稲荷大神が主祭神じゃないの?
でも他にご祭神の名前は読み上げてないけど……。
え、まさか、祝詞が途切れたの、とちったわけじゃなくて、そこだけ読まなかったのか?
ごくごくまれに、祭主の頭の中だけで読んで口には出さない祝詞や、聞き取れないような小さな声で読み上げる祝詞もあるにはあるのだが、それにしたって、ご祭神の名前だけ読まないなんて聞いたことがない。
……あっ、いけない、お祭りの最中だった!
僕が混乱している間にも祝詞は続いている。
僕は慌てて姿勢を正し、佐々木宮司の祝詞に集中する。
宮司の祝詞はよく通る声で聞き取りやすく、神にも人にも届きやすい祝詞だ。
祝詞は古い言い回しが使われているものの、言葉自体は日本語なので、せっかくなら参列者にもその内容を聞いて欲しいと、僕個人は思っている。
こうして聞き取りやすい祝詞を読むということは、佐々木宮司も同じ考え方なのかなと思うと少し嬉しい。
そうして祭りは進み、最後に太鼓を叩くと佐々木宮司はこちらを向いた。
「奉職奉告祭、滞りなく
本日より心を新たにして、このお宮でご奉仕してください」
「はい、ありがとうございます」
短いが、まさに今の僕にふさわしい、宮司の言葉を噛み締めながら、僕は頭を下げる。
「それでは戻りましょうか」
「はい」
渡り廊下を通って社務所に戻りながら、僕は気になっていたことを宮司に尋ねる。
「あの、こちらの主祭神は稲荷大神ではないのでしょうか」
「ああ、あの祝詞、気になりますよね。
実は主祭神は稲荷大神ではなくて、別の
あとでご説明しますね」
社務所に着くと宮司は「太郎くん、中芝さんにお茶の場所を教えてあげてください」と指示を出し、狩衣を脱ぎに行った。
松下くんにポットやお茶っぱの場所を教えてもらって3人分のお茶を入れていると、宮司が戻ってきた。
松下くんは自分の分のお茶を持って窓口に戻り、宮司と僕は続きの間のコタツに座る。
「これが先ほどの祝詞です。
こちらの二柱が主祭神になりますね」
宮司の指し示したところを見ると「佐々木
「あ、佐々木ってもしかして」
「ええ、私はご祭神の弟にあたる人物の末裔ということになっております」
それでは佐々木宮司は正真正銘代々続く社家の家系なのだ、と僕は感心する。
「神社に伝わる話では、江戸の中頃この辺りで人の姿に化けて人々を困らせていた雌の化け狐を旅の侍が改心させ、二人は
その際、化け狐を神として祀るのは幕府に対して
「へえ……江戸時代の創建でそういう御由緒があるというのも珍しいですね」
古い神社だとおとぎ話のような神話が由緒として伝わっている神社も多いが、江戸時代創建という新しい神社でそういう不思議な話が由緒として残っているのは珍しいと思う。
「そうですよね。
まあ、実際のところは、侍かその妻が幕府に対して大っぴらには出来ないような人物だったために、その正体を隠すために狐だったということにしたのではないかと思っていますけれどね」
「ああ、なるほど……。
豊臣の末裔だとか罪人とされた知識人なんかが、村に隠れ住んでその村を豊かにするために力を貸したとしたら、死後そういう形で祀ることもあるかもしれませんね」
「ええ、そうではないかと思っています。
ああ、そうそう。
そういう事情ですので、主祭神の御神号は口に出さずに頭の中でだけ読んでください。
御神号の書かれた祝詞も社外には持ち出さないように。
外祭と一般の方のご祈祷の際は、稲荷大神を主祭神として、本来の主祭神の御神号は頭の中でさっと唱える程度で」
「はい、わかりました」
「では、こちらの祝詞は記念と見本ということで差し上げましょう」
「ありがとうございます」
宮司が折り畳んで渡してくれた祝詞を、ありがたく受け取る。
ごく普通の神社に見えていたのに、こういう不思議な御由緒があり、しかもこうして秘密にされている本当の主祭神の御神号まで教えてもらえて、何だかワクワクしてしまう。
稲荷神社なのに赤い鳥居やのぼり旗がないのも、そういう理由だったのだなと納得する。
「あの、もしかして御由緒も社外秘なのでしょうか」
「いえ、そちらは『口伝に限る』ということになっています。
ですので、参拝者の方に話す分には構いませんが、書き残したり動画やテレビの取材などの記録に残る形で話したりしないようにしてください」
「わかりました」
「実はこの御由緒も、口伝なので氏子の方々に伝わっているものは、もっとおとぎ話らしい装飾がされていて面白いんですよね。
あちらではなぜか御祭神は妻の狐だけになっていますし」
「へえ……」
「そちらは総代役員さんに詳しい方がいますから、機会があれば聞いてみるといいですよ」
「はい、楽しみにしておきます」
僕が好奇心を隠し切れない声でそう言うと、宮司は微笑ましそうな笑顔になってうなずいた。
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