商店街の稲荷神社に奉職しました
鳴神楓
本編
第1話 退職勧告
いつもの通り職員全員で朝拝をして、今日の勤務に入ってしばらくしたところで、巫女に声をかけられた。
「中芝さん、
「あ、はい。わかりました」
返事をして宮司室に向かいながら、宮司は僕に何の用があるんだろうと首を傾げる。
宮司というのは一般の会社でいう社長にあたる、この神社で一番偉い人だ。
その偉い人が、この神社に勤め出してまだ2年目の僕をわざわざ宮司室に呼びつけるような用事なんて思いつかない。
別に怒られるようなことも褒められるようなこともしてないしなあ。
不思議に思いつつも宮司室に着いたので、声をかけて中に入ると、そこには難しい顔をした宮司と困惑した表情の
「中芝くん、君、うちの娘にセクハラしたそうだね」
「……え?」
宮司の言葉がまったく理解出来なくて、僕はぽかんと口を開ける。
「夕べ、飲み会から帰ってきた娘の様子がおかしかったから問いただしたら、君にセクハラされたって言うんだよ。
かわいそうに、涙まで流してね」
そこまで言われて、ようやく僕は宮司がこんなことを言い出した理由がわかった。
夕べ僕は、若手職員同士の飲み会の帰りに、神主の同僚である宮司の娘と少しトラブルになっていて、それがどういうわけか宮司にはセクハラと誤解されているらしい。
「ち、違います。
確かに昨日、その、少し言い合いみたいなことになりましたが、僕はセクハラとか、そういうことはしていません」
僕は慌てて弁明しようとしたが、宮司は聞く耳を持たなかった。
「言い訳は見苦しいぞ。
とにかくだ。
宮司の言葉に、隣にいた禰宜が焦った様子で口を挟む。
「待ってください。
退職の件は、中芝くんの話を聞いてからということだったのでは……」
「何だね、君はうちの娘が嘘をついているとでも言いたいのかね」
「い、いえ、そういうわけでは……」
宮司に言い返されて、禰宜は言葉を濁してしまった。
禰宜だってワンマン社長も同然の宮司に睨まれたくはないだろうから、それも仕方がないと思う。
「そういうわけだから、すぐに辞表を出しなさい」
そう言うと宮司は、手まわしのいいことに引き出しから「一身上の都合により退職致します」という内容が印字された書類を出してきた。
書類には僕の名前と今日の日付も入っていて、あとは僕がサインさえすればいいだけになっている。
その書類を見た僕は、何だか一気に宮司の誤解を解こうという気がなくなってしまった。
この神社で2年弱、未熟なりにも精一杯御奉仕してきたつもりだったけれど、僕の言い分も聞いてもらえないということは、宮司にはその働きを少しも評価してもらえていなかったのだとわかってしまい、ひどくむなしい気持ちになる。
「……わかりました」
そうして僕は宮司から辞表を受け取ると、そこに自分の名前をサインしたのだった。
————————————————
宮司室から出て、自分の席に戻って荷物をまとめていると、戻って来た禰宜に「中芝くん、ちょっと」と社務室内の応接スペースに呼ばれた。
「宮司はああ言っていたが、君みたいな真面目な子がセクハラだなんて、どう考えてもおかしいと思うんだ。
昨日、本当は何があったのか、話してくれないか」
禰宜にそう促され、僕は昨日の夜の出来事を説明し始めた。
————————————————
1月も半ばを過ぎて初詣の忙しさも落ち着いてきたので、若手の神主と巫女の何人かで飲みに行った。
1軒目の居酒屋でみんなで楽しく飲んだ後、あまりお酒に強くない僕は2軒目に行くというみんなと別れて1人で駅に向かった。
すると、みんなと一緒に2軒目に行ったはずの宮司の娘が、どういうわけか僕を追いかけて来た。
宮司の娘は僕の3才上で、同僚の神主だ。
華やかな顔立ちの美人なのだが、神社に派手なネイルをしてきたり、ご祈祷の時に手を抜いて
けれども向こうは、僕のことを気に入っているようで、仕事中によく話しかけてくるし、さっきの飲み会でも僕の隣に座ってきて、正直ちょっと迷惑なのだが、先輩だし宮司の娘なので邪険に扱うわけにもいかず困っていた。
そんな人が、帰る僕を追いかけて来たかと思うと、馴れ馴れしく腕を組んできた。
好きでもない人にそんなことをされても全く嬉しくなかったので、乱暴にならないように気をつけながらもその腕をほどいたのだが、彼女はそれを気にすることもなく、僕にべたべたと触りながら甘えた声でこう言った。
「ねえ、中芝くん。
酔ってるんなら、ちょっと休んでいかない?」
そう言って彼女が指差したのは、ラブホテルだった。
「いえ、僕は結構です。
休みたいのなら、お一人でどうぞ」
……今にして思えば、その時の僕の言い方は、仮にも女性に対してあんまりだったと思う。
もしあの時僕がシラフだったら、もうちょっと穏便な言い訳でうまく切り抜けられただろう。
けれども実際には僕は酔っていて、しかも彼女にまとわりつかれてイラッとしていたこともあって、思ったことをそのまま口にしてしまった。
僕に拒否された彼女は、一瞬何を言われたのかわからないというような顔をして、それから赤くなって顔を歪めた。
それはたぶん、怒りの表情だったのだと思う。
けれどもそれ以上彼女に関わりたくなかった僕は、そんな彼女を置き去りにして、1人でさっさと駅に向かったのだった。
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「ということは、彼女が君に恥をかかされた腹いせに、宮司に嘘の告げ口をしたわけか」
「そうなんだと思います。
ただ、僕の言い方も悪かったので、そのせいで彼女を傷つけてしまったのかもしれません」
「いやいや、もし仮にそうだったとしても、それは個人の問題で神社とは関係ないし、セクハラとは到底言えないよ。
やはり、こんなことで君が退職させられるのはおかしい。
私からもう一度宮司に説明してくるから、中芝くんはここで待っていなさい」
禰宜はそう言ってくれたが、僕は首を横に振った。
「いえ、もういいんです。
もし宮司の誤解が解けたとしても、娘さんとトラブルになった以上は、この神社には居づらいと思うので……」
僕の言葉に、禰宜さんも「ああ……」と納得したようにつぶやく。
何せこの神社には、宮司と宮司の娘だけではなく、宮司の息子で彼女の兄も
さすがに神社のトップ2人の家族と気まずくなってしまっては、このまま勤め続けるのは無理だろう。
「確かに、中芝くんはまだ若いから、かえって他の神社でやり直した方がいいかもしれないな。
さっきは君のことを守ってやれなくて申し訳なかったが、再就職では力になれることがあれば協力しよう。
それに宮司も今は聞く耳を持たないかもしれないが、少し時間が経ってからなら、事情を説明して誤解を解いて、再就職のための紹介状を書いてもらうことも出来ると思うから」
「はい、よろしくお願いします。
短い間でしたが、お世話になりました」
僕は禰宜の言葉に深々と頭を下げると、再び自分の席の片付けに戻った。
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