愛について知っている人は居る

七山月子

愛について考えていた。

私は誰かに愛されているだろうか、と冬の寒い雪の日に白い息がため息になって出たその瞬間、思いだしてしまったのだ。

愛なんて不確かなものは言葉にすることも恐ろしいと思っている私は、ある日突然それが訪れるものと夢を見ることも、もう諦めていた。

愛なんてまやかし。

いつだったか、友人の詠子が言っていたように、リアリズムの中で私も生きていたし、その方がまだましだと思っている。

詠子は指先につまんだアメリカンスピリッツを吸い込んで胸いっぱいに吐き出す。

煙は室内で旋回して、私の吐いたマルボロと混じって壁や床に染み込んでいく。

そこは喫煙ルームが設置されているただのカラオケ屋だった。

「愛なんてまやかし」

詠子が歌うように言うので、ん・そう、と私も返すが、詠子はそんな相槌であるかどうかも怪しい私の声音に気づいておらず、いつも通りペラペラのあぶらとり紙を取り出しながら、語り出す。

「この世にあるのは、依存関係だけよ。誰かを好きになったって、それは自分本位な言動にしかならないように人間は出来てる。相手を尊重しようと思ったら、決して恋なんてしちゃいけないの。愛なんてまやかし。私、きっと誰のことも愛せないだろうな。でもそれでいいと思ってるの。だから一生誰にも愛されない」

そう言って鼻の頭に浮いた脂を器用にスルリと取った詠子は、次に泣き出した。

私は人の涙というものが大の苦手で、それを詠子もまた、分かって泣いているのだ。

放って置く事しかできない私と、放って置いて欲しい詠子は利害が一致した仲だった。

しかしそこに、男性が喫煙ルームに入ってきてしまったもので、空気が乱れて崩れた。

更にその男性のスーツが、花柄の刺繍がされたもので、私たちはフリーズしてしまう。

「あ、ごめん」

男性は紫色のメガネを直しながら、ドアを閉めて去って行った。

「なあに今の」

詠子は泣き顔で笑い出した。私も笑った。

だけどそれで終わらなかった。紫メガネの花柄スーツが再びやってきたかと思ったら、唐突に笑顔を繰り出したのだ。

「これ、あげるよ」

手渡された缶コーヒー。詠子も私も顔を見合わせた。

「ありがとう、ございます」

詠子が冷笑しながら受け取ろうとした時に、その男は言った。

「君は可哀想だね」

詠子は彼を睨みつけたけれど、男は缶コーヒーを今度は私に向かって差し出した。

困ったな、と思った。どうぞあなたが飲んでください。と言ってみると、

「君はまだまし」

と言って彼はコーヒーを一気に飲み干して、

「寂しさを埋める風に利用し合う関係なんて悲しくならないか」

と、笑顔を崩して真面目そうな瞳を向けた。その瞳が、私には輝いて見えたのだ。なぜかは分からないが、なにやらこの男は只者じゃない。そんな風に思った。

あれはまだ、初夏の頃の話だった。詠子と私はそれから喫煙ルームを出て、すぐに詠子の愚痴に変わった彼の話を、私は延々と聞きながら、ふわりふわりと何やら想ったが、その正体を見つけるには、まだ早かったみたいで、初夏は夏に取って代わり、夏は秋に向かって、秋が冬に移り、今まさにそこにいる私は、ふと思い出して愛について、考えている。

そんな夜の冬景色の中で、まさか件の彼......花柄スーツでも紫メガネでもないが顔を覚えていた......と再会することになろうとは、人生はわからないものだ。

私が彼を見つけたのは、公園のベンチで鳩に餌をやっている人をなんとはなしに眺めている時だった。

彼はスキップをしており、そのベンチの前を通り過ぎた。それだけだったのだが、彼を彼だと認識した直後にどうやら私はとても彼に会いたがっていた自分に気づいたのだ。

それでその衝動についうっかり乗ってしまった。追いかけたのだ。

追いかけたがしかし、彼はスキップを続けたので、小走りにならなくてはならなかった。

名前も知らないので、あの、ちょっと、と大声で叫ぶも、無視をされた。

この寒い雪の日にスキップをするという、意味のわからなさに呆れながらも、どうしてか彼のイメージ通りだなと笑いが漏れた。

すると彼は私をようやく振り向いて、

「あぁ、どうもどうも」

とお辞儀した。

「もしかして覚えていらっしゃるんですか」

私がそう言うと、あはは、と笑った。乾いた声という、そのもので鼻についた。

「そうですよね、覚えているわけがない」

私が踵を返そうとすると、

「まあ、待ってよ。覚えてないけど、だからって君が話しかけたんだから、僕のプライドの切れ端くらい守ってくれよ」

と意味のわからないことを言う。たしかに、私から話しかけたのだと思い当たると、恥ずかしくなってきて、

「どうもすみません、じゃあ人違いです」

手を振って無理やり終わらせようとしたら、

「じゃあってなに。君って人は、可哀想だね」

と言った。

「それ、なんなんですか? 可哀想って、なにが? 」

ただの疑問にしか思わなかったので、そう訊くと、

「なにってさ。人を愛せない人は可哀想だよねって僕は想っているだけだよ」

と答えたのだ。

驚くべきことにこんな話の流れの中、私と彼は名前を名乗って、更に喫茶店へ移動した。

彼の名前は長谷部という。

長谷部は喫茶店のウエイトレスに深くありがとうとお辞儀をし、丁寧におしぼりを受け取り、とても良い喫茶店だ、と笑った。

なんだかあっけにとられて、私はなにもできずに眺めていた。

「愛っていうものが君にわかるかい」

唐突に始まったその話は、私にとって欲しかったものだったので、私はブレンドをスプーンで引っ掻き回す手を止め、

「愛なんて不確かなもの、誰にもわからないじゃない。長谷部さんにはわかるっていうの? そんなの、まがいものだよ」

と訴えた。長谷部はふふと不敵に笑い、

「君にも僕にもわかっているものだよ。ただちょっと、見えなくなっているだけ。君は人間が嫌いかな。僕は人間が大好きだよ。どうしてって、僕も人間だからね。君だって人間じゃないか。愛なんて、とか言う前に、愛してあげなよ、人間はみんな一緒に生きてるんだよ」

と語った。

こんな人間がいることに気づいたのは初めてで、それから私は長谷部と何度か会い、いつしか恋に変わるけれど、長谷部は許さず、人生の一部に彼が残り、私はそれでも、愛についてまた、考えていこうと決めるのだった。



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