第17話【長門の視点】
さて、どうしようもない気恥ずかしさにかられた指切りを終え、ハルヒは颯爽と教室から出ていった。俺も立つ鳥跡を濁さずにとあらためて一歩を踏み出したのだが、すると今度は長門が俺のそばを通り過ぎる。……相変わらず巧みに気配を消して、だ。
「いたのか」
「いた」
もしや、今のやり取りを全部見ていたのだろうか。だとしたら俺は——すごく穴があったら入りたい。そんな俺の心配を他所に、長門がぽつりと言う。
「何を、言っていた?」
何をって、何がだ。
「涼宮ハルヒ」
ああ、そうか。別に、取り立てて大した話でもない。
「テスト、がんばれってよ」
無意識に後頭部を掻きながらそう言うと、長門は横目に俺を一瞥しただけで、そのまま踵を返す。愛想も相変わらずだ。
……が、ちょっと待て。
ふと思う。この長門が、すぐそばで行われていた会話を聞きそびれるなんて、そもそもあり得るのか。長門は、そんな俺の思考を見抜いていたかと思えるタイミングで俺に視線を戻す。
「あなたの口から、あなたの言葉で、それを聞きたかったから」
むず痒いことを言われる俺であった。
「そうかい」
目の前の少女は微かに頷いている。
「長門」
「なに」
「お前はいつもそうやって、俺の疑問に対して的確に答えてくれるよな。もしかして、俺の心でも読めるんじゃないか」
「それは違う」
即答された。さらに淡々と言葉を続けてくる。
「思考や感情の連なりという脳神経の反応の連鎖を、心という概念で一括りにしてしまえば、そこで生じるノイズはひどく不確かで不安定。それでは、あなたの求める解は導けない」
だからノイズなのか。
「そう」
心に、分析ね。わかるような、わからないような。
「——」
長門?
そのとき、俺は珍しいものを見た。
長門の、いつもの無表情とは明らかに異なる曖昧な意思表示だ。嬉しそうな表情と哀しげな表情が同居しているかのような、妙なものだった。名状しがたい何かって言えばそれは逃げの表現になるかもしれない。とにもかくにも、それは昔の長門には全くなかったものに思えてならなかった。そんな俺の視線に気づいたのか、こいつはまた踵を返して部室を出ようとする。
そういえば、だ。
「長門」
こいつが部室からいなくなる前に、俺もまたこいつに聞いておきたいことがある。長門は立ち止まって、もう一度俺の方に向き直した。
「お前、指切りってわかるか?」
おそらくお前が、さっき見てたであろうやつだが。
俺の乏しい感受性では、口を開いた長門の表情からその感情を拾いきることは容易なことではない。それは、真意を読み取れないくぐもった、端的な答えだった。
「——少し」
少し、か。
「あと、長門。もうひとつだけ」
「構わない」
「直接聞きたかったからというのは、何でだ?」
この言葉だった。
この言葉が、何か長門に引っかかったようだ。
長門が無表情のまま、機械的にこちらへ迫って来る。
「ど、どうした?」
その面持ちは、どことなく先ほどまでとは違う真剣味を帯びているように見える。
「さっきのやり取りを、忘れないで」
「やり取り?」
「あなたの中に存在するノイズに、最も深く働きかけることになる」
何の話だ。いきなり話が飛んだ気がするぞ。
一拍置いて、長門はさっきまでの淡々とした雰囲気に戻った。
「……先に行っている」
こいつはさらに、もう一言残していった。
「私もあなたを待つことにする」
そして、長門は俺の視界から消えた。
「あ、ああ……」
最後の、長門の言葉。わかったような、わからんような。正直、困惑せずにはいられない俺だった。
しばらく思考を巡らせてみたが、結局長門の発した言葉の真意を汲み取れないまま、さして思い当たる検索結果もなく、俺は観念して部室を出た。冴えた風が俺をピンポイントで射抜く。尋常でなく底冷えした空気が首筋に触れる。それは、昨日感じた心地いい風とは異なるものだった。
まったく違う。決定的に違う。体の芯を凍った金槌で打ち付けるような風だった。それが俺に不安を抱かせた。
この風によって始まった何か。それがはっきりと理解できたのは、まだ少し後の話だ。今思えば、この時からもう始まっていたのかもしれない。あいつは、それが解っていたのだろうか。
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