『第二十六話』

第二章 『第二十六話』



 かつての女神の玉体——この水の星で。

 その誕生から幾星霜を経て形成された大地に今、二本の直線——刃の爪痕が刻まれた。



「————我が……友」



 二本の内、今し方地面を抉った真新しい線は化け蟹という疫を齎す怪物によるもの。

 その攻撃は堅牢である筈の岩盤を木版を滑る彫刻刀のように削いで行き、射線上の標的を強襲。

 あまりの速さに警告の声を遅らせた美の女神の視界——占める水飛沫、"狙われた青年"の安否を霧と成りて覆い隠す。



「————我が友!」



 そうして、線の通過点を注視するイディア。

 青年と敵の一通りの攻防を見て分析の後に『隙の作成』に取り掛かろうと、剣戟から一定の距離を置いていた彼女は霧の中に"友の片鱗"を見て取り——異彩の髪と表情は青ざめる。



「——っっ……!」



 細かく舞う水の中で視認したのは、"はらはらと散る異色の物体"。

 その持ち主の身を離れて落ちる馬の尾のようなたば——"切断されたと思しき青年の総髪"を見つけてしまったからだ。



「……まさか——」



 続けて、泳ぐ視線は探す。

 落ちた髪の周辺でそれ以外の物が見当たらないか。

 イディアは青みがかった黒髪の持ち主を、新しき友の無事を願って——動く物体を探す。

 また同時に、怪物も美の女神と同じ物を四つ目で探す——細切れになり、動かぬことを願って。



「————くっ……!」



『無事ならば姿を見せてくれ』と。

 "喪失の恐怖"で髪の青に白や黒を混ぜるイディアは位置を変えて捜索を続けようとし、だが最悪の場合には自分だけでも報告のために直ちに戦場から離脱出来るよう、大きく弧を描いての忍び足。

 未だ何故か歯牙にも掛けられぬ女神はそうして、輝いてしまう髪を手で隠し、身を隠し——。



「無事ならば、返事を——」



 霧中むちゅうで掛ける、密やか声。

 返答を期待しての行動で以って音の反響をも探る女神に届く——"揺れ"、いや——"震え"。

 押し殺しきれぬ恐れの感情と共に、イディアの耳へと"待望の声"が届けられる。




「——……"大丈夫です。イディアさん"」

「……!」



「ぶ、無事でしたか……!」

「はい。なんとか、跳んで避けられたので」




 声の主は青年、人からはルティスと呼ばれる女神。

 その姿、無事の友を大樹の裏に確認してイディアは暖色に変わり跳ね動く髪を抑えつつ自身もその下へと素早く駆け寄り——安堵に息を吐く。



「切れたのは……髪の毛だけですか?」

「——そう……みたいです。怪我もないかと」



 再び姿を現した青年は五体が揃い、唯一切り落とされたのは髪の毛。

 先程、イディアが見た総髪は玉体の動きに遅れて切断された髪全体の一部に過ぎず——肩下でそれは直ちに"回復を開始"。

 神の美髪は早々に"規定の長さ"を取り戻し、結果的に青年は"髪を解いた女神の姿"と相なっていた。



(回避の訓練……やっておいてよかった)



 遅れて、自身が負傷していない事を確かめた青年。

 "流れる水の化身"であるにも関わらず未だ——内側で"安全弁が開ききらない"女神は学びの時を想い、言葉にならない感謝を師へと捧げる。

泡沫ほうまつと化して世界から消え去ってしまうこと』を感覚的に恐れて彼女自身がする——女神の力に被せる"恐怖という蓋"は健在。

 それ故、往々にして本領発揮には至らぬ水神ではあるが、しかし——。



『溶けることが叶わぬのならば、攻撃——けられるよう、努めよ』



 ——と言った。

『流体で在れぬ水』という"奇妙な事実"を責めぬアデスの助言により、青年は体全体を動かしての単純な回避行動に重きをおいて訓練を実施。

 故に何十・何百時間という積み重ね、先程から今にかけ——震える青年の体を反射的に動かしていた。

 不在であっても初の本格的な実戦において師の指導は確かに功を奏し、弟子の貫かんとする意志を助く。



「——怪物の方に変化は?」

「貴方の二度目の攻撃で甲殻に傷は付いたようですが動きに消耗は見られず、今も此方を探していました」



「……次の手は考えていますか?」

「……一応は」



 流れる雲が丁度よく月明かりを遮り、夜闇が濃霧と相まって女神たちの存在を隠す中。

 二度の攻撃を殆ど無力化された青年は決定打を与えるために考えを巡らせ、接近した際に垣間見た怪物の"腹部"についてを口に出す。



「——怪物の体の"裏側"、"胸や腹"にあたる部分は大して甲殻で覆われていないように見えました」

「つまりはそこを、"急所を突く"と?」

「はい。分厚い部分でも割ること自体は出来たので、そうした、より柔らかい所に攻撃を打ち込めれば——」



「——"倒せる"と考えています」



 岩をも切断・破砕する鋏や水の刃を持つとはいえ、怪物の姿形——蟹は蟹。

 発達した甲殻の鎧は外部上部からの攻撃には滅法強くとも、背面の裏側——即ち腹部までは覆っておらず。

 接近してくる敵は得てして鋏で刻むためか、故に懐に潜り込まれることを想定していないのか——『胸甲きょうこう』とも呼ばれる化け蟹の腹部、晒すのは刺々しく重厚な背面とは対照的の扁平で白い"肉の身"。

 青年は——"鎧の隙間"とも言えるその"身が詰まった重要箇所"へと渾身の一撃を加え——以って討伐を果たそうと画策していた。



「——ですが、これまでの様子から察するに敵の優先して警戒すべき対象は俺のようで……もう一度接近して下に潜り込めるか、潜り込めたとして攻撃の時間がどれだけ確保出来るかはまだ、分からない部分が多い」

「……」

「ですので、正面以外から……認識の外から一気に近付いての攻撃を試してみようと思います」

「……それでしたらやはり、『囮』が必要となりますね」

「……可能であればで構いませんが、少しの間だけ、敵の注意を俺から逸らしてくれると助かります」



 雲の向こう、姿を隠されていた月が再び顔を覗かせ始める。

 濃霧もまもなくに晴れ、全体の状況をより詳細に確かめようとする怪物が歩脚を進め、響くのはふしの軋む音。



「……分かりました。では、これも当初の予定通り——"私の方で囮役を務めます"」

「……すいません」

「いえ。私も、貴方だけに苦を背負わせたくはないのです。どうかお任せを」

「……感謝します」



 徐々に怪物の足音が大きくなる中。

 小軍議でまとまった役目を遂行するため二柱は心を構え、木の裏から何時でも飛び出せるように準備を完了。



「……では、先に私が敵の前に飛び出して、付かず離れずの距離で色々とやってみます」

「——」

「貴方は少し後に移動を開始。見えた隙を突くことだけに専念してください」

「了解です」



「余計な心配事は要りません。勝利の後で安全に再会を果たしましょう」

「——」

いよいよ以て危険だと判断した場合には"奥の手"を使います。絶対に隙を作って見せるので、貴方はその一瞬に全力を」

「はい……!」





「"——————!!!"」



 そうして、敵の生存を漏れる神光かみひかりで知った怪物。

 その、紙を引き裂くかの如き金切り声を合図に、異彩の目立つ赤色を持って女神は飛び出し——。




「————!」



(——『やるぞ』!)




 月下、泉での戦い。

 再びに——幕を開けるのであった。


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