蜘蛛神さまは突然に
河津田 眞紀
1.眠れない男
『やっべー。俺昨日、三時間しか寝てねぇ』
学生時代、こんなセリフを嬉々としてほざいていた奴が、クラスに一人はいただろう。
定期テスト前とか、ゲームの発売日の翌日とか。言葉とは裏腹に、全然ヤバそうじゃないテンションで叫んでいた奴が、一人…いや、二人はいただろう。
あの時は、「はいはい」と流していた。
すごいねー、ヤバいねー。三時間睡眠キツイねーと、完全に冷めた目で見ていた。
それが今や、どうだ。
「………やべぇ……今日も三時間しか寝てねぇ…」
……まさか、二十四にもなって。
自分が、このセリフを吐くことになろうとは。
薄暗い自室の中、ふと目が覚め。
ベッドから腕だけを出し、サイドテーブルのスマホを手繰り寄せる。
画面の眩しさに目を細めつつ、時刻を確認すると……
………まだ、朝の五時。
寝付いたのは、二時過ぎだったというのに。
はぁぁ…と。
俺は、深いため息をついた。
いつからだろう。
俺は、ちゃんと眠ることができなくなっていた。
社会人になって二年目だが、どんどん酷くなっている気がする。
まず、寝付けない。布団に入っても、一向に眠くならないのだ。
仕事で疲れているはずなのに、何故だか脳が冴え渡り……
仕方なくスマホで目的もなくあれこれ眺めている内に、数時間が経っている。
で、深夜一時も過ぎるといよいよヤバイと焦り出し、スマホを消し、無理矢理目を閉じる。
そこから、さらに一時間。じーっと動かず、心を無にして……ようやく、眠りにつける。
……が。
それも束の間。まだ夜も明け切らない内に、目が覚めてしまうのだ。
こんなことが、もう数ヶ月続いていた。
「……………」
俺は、重い体を引きずってベッドから下りる。
暖房を切ってまだ三時間しか経っていないのに、すっかり部屋が冷え切ってやがる。トイレまでの僅かな距離でさえ億劫に感じられる。
今日は、十二月三十日。月曜日。
仕事は二日前から年末年始の連休に入っていた。
だから、いくら寝ていようが誰からもお咎めを喰らうことはないはずなのだが……何故、こんなにも早く目が覚めてしまうのか。
東京の郊外にある、ワンルームのアパート。
社会人になるのと同時に、俺はここで一人暮らしを始めた。
職場は、実家からでも通える距離にあったが……俺は、何が何でも家を出たかった。
………そう。本当は。
眠れない理由も、なんとなくわかっているんだ。
「……………」
ふと。
俺は、壁に掛けられた一枚の写真に目を向ける。
B4サイズに引き伸ばされ、額縁に収まったそれは、ここに越してきた時に母親が勝手に掛けていったものだ。
雨露に濡れた蜘蛛の巣と。
その背景に広がる、紅葉に染まった田園風景。
……何を隠そう、俺自身が、八年前に撮った写真だ。
「……………」
俺は、またため息を吐いてから。
逃げるように、トイレへと向かった。
♢
高校生の頃。
やりたいこともなく、運動も得意ではなかった俺は、なんとなく写真部に入った。
カメラに関する知識なんか皆無で、最初はテキトーに撮ればいいかと思っていたのだが……
いつの間にかその奥深さにハマり、撮ることが楽しくなっていった。
その部活動の中で撮ったのが、この壁の写真だ。
高校の裏山から、見下ろすように撮った風景。
確か部長が「今日のテーマは『秋の侘しさ』で!」とか言い出して、「何だよソレ」と思いながらもそれっぽい景色を探して、わざわざ裏山の頂上まで登って撮ったんだ。
んで。
素人同然の俺が撮ったこの写真が。
なんと、市の写真展で表彰されちまった。
それまで"表彰"なんぞとは縁遠い人生を歩んできた俺は、ここぞとばかりに親戚一同から褒められまくった。
「天才だ」
「美的感覚が優れている」
「将来はプロカメラマンか?」
云々。
それで……嗚呼もうホント、今思うと馬鹿以外の何者でもないのだが。
俺は、すっかり
たった一度、たまたま表彰されただけで、俺は調子に乗りまくった。
親に一眼レフをねだり、これ見よがしに写真を撮りまくり。
『俺には才能がある』『将来カメラで食っていくんだ』と、そりゃあもうイキリ倒した。
完全に黒歴史だ。もしタイムマシンが開発されたなら、俺は真っ先にあの時代へ飛ぶだろう。そして十六歳の
しかし。……しかし。
あの時の虹輔少年は、確かに輝いていた。
毎日が……満ち足りていたんだ。
写真を撮ることが楽しくて、それを誰かに見せることで更に満たされて。
もっと、もっと、と。貪欲にシャッターを切る……充実した日々を送っていた。
勘違いを拗らせた俺は、そのまま写真科のある芸術大学に進学を決める。
だが……大学入学後。
俺は、入ったことをすぐに後悔した。
何故なら。
芸術家の息子だとか。
世界で活躍するプロカメラマンの弟子だとか。
俺なんかよりも凄い賞をいくつも獲っている奴だとか。
もうね、己の矮小さを、凡庸さを、まざまざと見せつけられたね。
たった一回、市の写真展で表彰されたくらいの勘違い野郎が、ノコノコ入っていけるような世界じゃなかったんだ。
考えが、甘すぎた。
それでも、一・二年次はなんとか結果を出してやろうと、がむしゃらに撮っては様々な賞に送った。
しかし、成果はゼロ。
羞恥心を引きずり出され、自尊心をボッコボコに凹まされ……
いつしか俺は、カメラを手に取ることすらしなくなった。
そうしてそのまま、写真とは全く関係のない一般企業に就職。
それが……今現在の、俺である。
♢
………で。
長々と回想して、何が言いたかったのかというと。
俺が眠れない理由。それは、恐らく……
"今日"に、満足ができていないから。
……だと、思うんだ。
嬉しいことも、楽しいこともない。
何を創り出したわけでもない。
好きでもない仕事して、飯食って風呂入って。
そんなことだけで"今日"が終わってしまうのが、悔しくて、寂しくて。
満たされない心が、"今日"を終わらせることを拒絶している。
だから、眠れない。
だったら何かすればいいじゃん。と思うかもしれないが、それが出来ていれば苦労はしない。
これでもいろいろ試したんだ。ゲームしたり、読書したり、柄にもなくランニングしてみたり。
だけど結局、どれも長続きはせず。
カメラの時ほど、夢中になって打ち込めるものは、なかった。
「………………」
トイレから出た俺は、もう一度例の写真を見上げる。
……これを撮った時の気持ちはもう忘れてしまったが、あの頃は。
自分は、特別な存在であると。
特別な何かになれると、そう信じて疑わなかった。
それが……
どうしてこんな、つまらない人間になってしまったんだろう。
「………ん?」
ふと。
俺は、写真の端で何かが動いていることに気がつく。
これは……
蜘蛛だ。小さな蜘蛛が、写真の中の蜘蛛の巣に張り付くように、もそもそと動いていた。
まったく。どこから入り込むのか知らないが、この家にはよく蜘蛛が出る。
確かに、都内にしては自然が多い環境だし、仕方がないと言えばそうなのだが。
俺はPC用デスクの上から適当な封筒を見つけると、掬い取るようにして、その中に蜘蛛を入れた。
そして窓を開け、まだ真っ暗な外界に腕を伸ばし、封筒の口を下に向ける。
すると蜘蛛は、封筒の端から様子を窺うように頭を覗かせたかと思うと。
ぴょんと飛び出し、尻から糸を伸ばして、ゆっくりと下降していった。
……どうでもいい話だが、俺は蜘蛛は殺さず逃す主義なのだ。
もちろんウチには、蜘蛛以外の虫もまま出没するわけだが……
ハエは殺す。蛾も殺す。Gから始まるアイツなんかは、スプレーと物理攻撃で息の根を止めた上で確実にトイレに流す。
しかし蜘蛛だけは……いつも殺さず逃す。
何故かって?そりゃあ、『朝蜘蛛は縁起がいい』なんて言うし、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』みたいな話もあるし、虫の中でもなんとなく神聖な感じがしないか?蜘蛛って。
……嘘です。本当は。
あの、ティッシュに
アレが苦手で、殺すことができない。ただ、それだけだ。
それに……
この写真に写っている縁もあるし。
なんとなく、本当になんとなくだ。ただの気まぐれで、逃しているだけ。
俺は入り込んでくる外気に「さぶっ」と身震いしてから、窓を閉め。
眠れなくともせめて横になって休もうと、ベッドに戻ろうとした………………その時。
「おめでとうございまーすっ♪」
……という女の声が、突然聞こえ。
びっくりして、部屋の中を見回す……と。
「ぅ…うわぁぁああっ!!?」
俺は、情けない声をあげて床にへたり込む。
何故なら……
天井から、
頭を下にして、逆さまになっているのは……
少女だった。短い黒髪に、黒い瞳。薄い桃色の着物を身に纏っている。
「な……な……っ」
なんだコレ。お化け?ユーレイ?妖怪?
それともまだ実は眠っていて、これは夢だとか??
完全に腰を抜かした俺の前に、少女は身体を捻り華麗に床へと着地し。
おかっぱの髪をさらりと揺らして、着物の裾を少し直してから。
「ただ今の救済で一〇〇くもポイント達成しましたので、特典を進呈します!
よかったですね、
と。
思わず見惚れてしまうくらいに可愛らしい笑みを浮かべて、俺の名を呼んだ。
…………って。
「…………いや。キミ、誰?」
お化けにしては随分と愛らしい見た目をしていたので、俺は少しだけ落ち着いてそう尋ねる。
すると、目の前のおかっぱ着物少女は、自身の胸に手を当て、
「
「もっ……元締め…?」
「はい。生きとし生けるすべての蜘蛛の、親分……いや、
ぱぁあっ。と。
少女は、なでしこの花が咲くような笑みを浮かべて。
「わたしは、"蜘蛛の神さま"ですっ!」
……なんてことを、言い放った。
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