第5話 おっさん、姉に連絡する

 目が覚めた。


 窓から陽が差していた。

 この部屋は2階だが、周りには背の高いマンションが多い。だから朝夕は薄暗い。


 俺は、俺の体と仲良く布団で寝ていた。うえっ! キモっ!!


 がばっと起きて、時計を見た。ネトゲのギルド戦の都合もあって、目覚ましをすぐ見えるところに置いている。


 やっぱり。


 午前11時45分。

 正午前後の時間帯しかこの部屋は明るくならない。


 結構寝てたなあ。

 ん? てかソフィは?


(くー、くー)


 脳内に寝息のイメージがあった。寝てるのか。って器用だな!


 なんか臭い。あっ!


 俺は俺の体を確認した。

 息はしてる。生きてる。

 これ加齢臭? かな?


 いや違うわ。これは……。


 パジャマの下を脱がした。うー、おっさんの下半身、なんて重いんだよ。


 紙おむつ。


 これだ。脱がしたらとたんに臭いが濃くなった。うへえ。マジ……かよ。


 召喚されてる時にまずいことになっても大丈夫なように、念のため穿いておいてよかったぜ。

 こんな長時間魂が抜けることが今までなかったので、実際に事故ったことはなかったが……。


 どうしよう? この部屋、風呂ないし。


 え? 銭湯に行ってるよ。週2だけど。いやそんなことより。


 ピコーン!


 このまま救急車呼んじゃえ! ごめん、病院に丸投げ!!

 パジャマをもう一度穿かせて、消防署に電話っと。スマホの緊急通話!


「外出から戻ったら、父の意識がないんです。すぐ来てください!」


 3分も掛からず救急車が到着した。早いな。さすが日本の公務員。優秀!

 あれ、パトカーも来た。サイレンの音が違う。


 そうか、事件と事故の両面ということだな。警察も確認するんだ。


 部屋に入ってきた救急隊員1人と警官2人、が俺を見てぎょっとしていた。あ、寝起きで顔も洗ってないや。髪もいてないし。

 ソフィが起きてたら、怒られるところだった。


「この方がお父さん? 本当に??」とおじさんの警察官が聞いてきた。


 まあ、似てないしな。疑われるのはしょうがない。


「はい、私は椥辻ソフィーリア。お父さんの娘です!」

「に、日本語上手ですね」部屋や俺の体の写真を撮っていた若い警官が、驚いていた。

「はい、日本人ですから!」

「ああ、そ、そうなんだ。それで、お父さんはどうしたのかな?」

「以前から体調が良くなくて、それで会社も辞めることになって、私が最近一緒に暮らすことになったんですが、ちょっと外出してる間に、気を失っていて」


 とはさっきピコーンした時にでっち上げた設定。


「布団で寝ていたのですか?」

「はい、今はほとんど寝たきりで」

「チューハイの缶が転がってますが、よく飲んでましたか?」


 うっ! 1本は俺がソフィの体で飲んだんだ。

 指紋を取ったりDNA鑑定されたら未成年飲酒で捕まるかも、と焦ったが、事件ではないとみたのだろう。外傷ないし。

 そこまではしないようだ。

 良かった。


「やめるように言ってはいたんですが、取り上げると怒るので仕方なく。すみません」

「いや、娘さんのせいではないですが、しかし急性アルコール中毒というほどの量ではないですね。うん? 紙おむつ? ああ、脱糞してるなあ」


 ううう、なんという辱め。やっぱ始末するべきだったか。

 でもなあ、ソフィの体に俺のナニを片付けさせるわけには。いや、やるのは俺だが、この細腕はソフィのものだ。


「はい、ちょっと痴呆も入ってて……。時々粗相をするので」

「なるほど。貴女も大変ですねえ」


 痴呆扱いで納得するな―! そう言ったの俺だけど。くそう。

 ってシャレじゃないぞ!


「ストレッチャー準備完了!」


 二人目の救急隊員がやってきて部屋で警官とのやり取りを聞いていた人に報告した。こっちの人が隊長さんなんだろう。

 後から来た隊員も俺を見てぎょっとなっていた。

 そんなに変かな。鏡を見たいが、体のそばを離れるわけにはいかないし。


 警察官らは「事件性はないが、念のため、家族関係を確認しておくから」と言い、スマホの番号を聞いて帰っていった。

 夜のうちに戸籍作っといてよかった!


 救急隊員は狭い室内に器用にストレッチャーを運び入れ、ころんと俺の体を転がして載せた。毛布をかぶせ、二人で持ち上げる。

 階段降りるから車輪は畳んだままだ。


「搬送します。娘さんもご一緒に!」


 財布と健康保険証を持ち、部屋の鍵をしっかり掛け、俺は救急車に乗り込んだ。

 靴はどうしようもなかったので俺のスニーカーだ。ぶかぶかだが、紐を絞ればなんとか。


 乗り込んだはいいが、なかなか出発しない。受け入れ先の病院が決まらないようだ。

 意識不明というだけで、呼吸も脈拍も正常値だ。血圧は……ちょい高いな。前からだけど。画面に表示される数値を隊長さんが電話で読み上げている。


「その、娘さん、頬の傷テープは?」後から来た方の隊員さんが、手が空いたのか、俺に話しかけてきた。


「昨日歩いていたら何かが飛んできて、当たってしまって。車が石でも弾いたんでしょうか……」

「それは大変だ! 痕が残ったりしたら一大事です! 応急処置しましょう! いや、やらせてください!」

「え、でももう治ってる頃ですし、けが人でもないのに救急隊員さんのお世話になるわけには」

「いやいや一大事です! 国家レベルの損失です! とにかく診せてください」


 なんですか国家レベルの損失って?

 あまりに熱心に訴えるので、仕方なく頬を隊員さんに寄せた。

 なんだか隊員さん、真っ赤になりながらテープを剥がしはじめた……。


「本当ですね。これは切り傷です。かなり鋭利な石だったんでしょうか。その分、治りは良さそうですが……」


 と言いながら新しいテープを貼りなおしてくれた。薄くて目立たないタイプだった。


「とりあえずはこれで。必ず形成外科で診てもらってくださいね。必ずですよ」

「ありがとうございます。そうします」


 いや、しないよ。医者が詳しく診たら石でこんな傷にはならないってバレるだろう。矢で撃たれたとか言えねーし。


 そうこうしているうちに救急車が走り出した。受け入れ先が決まったのだ。

 俺も知っている大きな総合病院だ。会社員時代に人間ドックを受診したことがあった。



◇◇◇


 病院で処置が始まり、救急車は戻っていった。

 俺の体は今は集中治療室だ。モニターのコードや点滴やらなにやらでマリオネット状態。

 下半身もきれいにしてもらった。尿道にはカテーテルが刺さっている。

 痛そう……。魂こっちで良かった。魂が体にあったらそもそもこんな事態になっていないが。


 詰所で医師から説明を受けた。医師も俺を見て一瞬硬直したな。


 症状としては、昏睡状態。外部からの呼びかけには全く反応しない。

 けれど、瞳孔反射はあるし、脳に血液は正常に送られており、自発呼吸もあり、脳死や植物状態とは異なる。

 頭部CT、MRIも異常なし。尿検査、血液検査をしたが血中アルコール、その他薬物もとくに検出されない。臓器の詳細はこれからだが、数値を見る限りは異常はなさそう。

 ということで、なぜ意識が戻らないかは現状不明。

 けれども、今後意識が回復する可能性は大きい。

 当面は集中治療室でケアする。

 入院となるので、その手続きをして、家族の方は一旦お帰りください、とのことだった。


 意識は回復しないだろう。でも、俺の体が死んだら俺の魂がどうなるかわからない。

 医師には悪いが、言われたとおり入院させてもらおう。

 そもそもそのつもりで病院に運んだんだし。


 ホントの寿命で死ぬまで……。か? 先のことはわからないけれど。


 入院窓口に行くと、ひとまず10万円を預けるよう言われた。財布にそんな現金はないので、病院内のコンビニATMに降ろしに行く。


 21億6千万円は普通口座に移してある。燦然と輝く10桁の残高。マジだったよ。パソコンで見るよりATMの液晶で見ると、迫力あるなあ。

 思わず周囲を確認してしまった。


 いやあ、ソフィさん、さまさまだ。


(呼びましたか?)

(お、起きたのか)

(はい、一度目が覚めたのですが、頭が何だか痛くて……。)

(そうなんだ。いつ起きたの?)

(ええと、多少薄暗かったですが、こっちに来た時より明るくはなっていたので、朝かと……。横にディーゴが寝てました)

(俺が起きる前か。あっ、ソフィ、変な臭いしなかった?)

(いいえ。それより頭がガンガンして。ちょっと眩暈もあったので、すぐまた寝てしまいました)


 その後、俺が起きるまでの間に漏らしたんだな。ソフィがあの臭いを嗅がなくてよかった。


 頭ガンガン? 眩暈?


 あっ! ストロングチューハイのせい!?


(そ、そうか、それは大変だったな。もう大丈夫なのか?)

(はい、おかげさまで、今はすっきり。で、ここはどこですか?)

(病院……。ってわかるか? 俺の体はここで預かってもらうことになった)

(はい、ディーゴの記憶があるので病院は分かります。本当に大丈夫なのですか?)

(ああ、俺の部屋よりずっと安全だ。眠ったままであっても栄養を補給してくれるし。ちょっとお金はかかるけど)

(昨日のFXがさっそく役に立ったのですね!)

(戸籍もだ!)


 俺は、いや今は俺たちか、は入院窓口で手続きを終えると、病院を後にした。


(部屋に帰るのですか?)

(女の子の一人暮らしは何かと物騒だ。もう少しセキュリティの高い場所を借りよう。あの部屋、風呂もないしなあ)

(そういえば、昨日体も拭かずに寝てしまいました。あっ、でも、そうか、そうなるとディーゴに……)

(ああ、風呂とか着替えとかトイレの時はソフィに体を譲る。俺、見ないようにするから)

(え、ええ、……ありがとうございます……)


 ソフィが微妙な反応を見せる。トイレってちょっと生々しかったかな。


 それはさておき、住む場所は大事だ。

 警官も、救急隊員も、医者も俺をまじまじと見てた。いや、おっさんの体じゃなく、ソフィの俺の方ね。ややこしいな。

 そんなお堅い職業の人ですら思わず注目してしまう。美少女。もしかしたらナイスバディの方か。両方か。


 いや、そう鈍感なわけあるかい。一連のリアクションがこの顔と体のせいだってのは分かってるよ。


 この超美少女が安心して住めるところ。

 見つけないとなあ。


 あー、でも家借りるのには保証人が要るか。戸籍があっても未成年だしなあ。

 別れた嫁は頼れないし、それに説明できない。外国に隠し子がいた! なんて誤解されそうだし。


 こういう異常な出来事が得意な人間に、心当たりがある。

 あんまり会いたくはないんだが。


 と、お腹がすいてきた。そういえば、今日まだ何も食べてないや……。


 スマホで時刻を見ると、午後2時前だった。まだランチはやってそうだな。

 ついでにソフィの着替えも買おう。

 なら、ショッピングセンターだな!



◇◇◇


 ランチは俺が選んだ。唐揚げ定食だ。餃子に定評のある中華チェーン店だ。

 これから人に会うつもりなので、餃子は避けたけど。

 熱い、旨い、大ボリューム。それでいて安い! 庶民の味方だ。


 ビールが欲しいが、やめておく。店の中の人みんなから注目されている。四方八方からの視線が熱い。

 この店に入るまでも大勢に振り返られたしなあ。

 カップルの男の子すらも振り向いて、彼女に怒られたり。すまんな。罪作りな女だよね俺。


 え、金あるんだからもう少しおしゃれな店にしろって? 貧乏性はすぐには治らないんだよ!

 それにここなら一人飯もフツーだし!


 千円札で支払うと、おつりを渡されるとき手を重ねられた。たまにコンビニで可愛い子がしてくれると嬉しい奴だが、あんちゃん、あんたじゃな。


 さて、服だ。

 好みがわからんので、ソフィにスイッチして自分で選んでもらおう。


「さすがは神の国。こんなに大きな市場があるとは……しかも建物の中で4階までお店がびっしり! 凄すぎます!」


 いや、ソフィの方が凄いだろ。ほらまた見られてる。こりゃどうしようもないなあ……。


「うわー、ここの服、めちゃくちゃ可愛いです! 中に入ってもいいですか?」

(もちろん。ソフィが好きなもの選んでくれ。ちゃんと試着して決めるんだぞ)


 その店は、キレイ目カジュアルの店だった。ブランドロゴに見覚えがあるが、フランス語みたいで読めん。

 フェミニンなテイストのニットやカットソーが中心だが、ふんわりしたワンピースやセットアップもある。

 って、そのくらいは俺にわかるよ! 娘がいたし。けど中学生ぐらいからかな。一緒に出かけなくなったのは。

 娘はもっとかっちりとしたブラウスやジャケットの印象があった。2年前から社会人だし。


 ソフィのサイズに合うものが、あるといいけどなあ。

 背は高いし、胸は大きいし、ウエストは細いし、手足は長くて顔は小さい。

 ってモデルか!

 そこに立ってるマネキンよりよっぽどスタイルがいい、よな。


 ソフィが商品を物色しはじめると、店員が慌ててやってきた。


「ほほほ本日はようこそお越しいただきましたあああ! お客様! よよよ良くも当店をお選びいただきました! 不肖、ててて店長の澤井でございます! 誠心誠意、お手伝いさせていただきまするううう!!」


 なんか噛み気味に喋り始めた。まするって……。


「あのボディが着てるようなテイストで、もう少し明るめの色で、私に似合うものはありますかしら?」

「もももも申し訳ございません。お客様、できれば日本語かせめて英語でお願いいたしまするうううう」


 あ、ソフィの言語変換は俺との間でしか動作しないのか。魔素マナがないからかな?


「アノぼでぃガ、キテイルヨウナ、ていすとデ、モウスコシ、アカルメノイロデ、ワタシニ、ニアウモノハ、アリマスカシラ?」

「ははははい! お客様でございましたら、その美しい髪が映えるブルーグリーン系がお似合いかと! こういう感じはいかがですか!?」


 おお、日本語喋れるじゃん。ちょっとたどたどしいけど。

 そりゃそうか、アニメの主題歌歌えるもんな。

 実際、外国人が日本のアニメを見るために日本語勉強した話とか、結構聞く。


 てか、手持無沙汰だ。眠くなってきた。飯食ってお腹いっぱいだし……。寝てていいよな。


 ………。


 ……。


 …。


 はっ! がっつり寝てた。


「あ、ディーゴ、ちょうどよかった! どうですか!?」


 試着室の中だった。けど着替えは完了していた。惜しい! いや違う!

 鏡に映るのは、ふわっとした薄いベージュのカットソーブラウスに、ペパーミントグリーンのカーディガン、裾に刺繍の付いた薄いワインカラーの巻きスカート。それにショートブーツ。

 ブラウスはふんわりした立体裁断で、胸も無事収まってる。


 似合ってるよ! ソフィ。


 髪の毛はそもそもナチュラルウェーブだから、梳いてなくても変じゃなかった。というよりほんとに綺麗だ。

 あらためて大きな鏡で見ると、やっぱすげえや。


 うん、でも、やけに胸がゆさゆさ弾む。あっ、ソフィ、ブラジャー!


 この服は着たまま、別にもう3着分ほど買って、店を出た。

 澤井店長の目がハートになっていた。着てたジーパンなどは処分してもらおうと思ったが、ソフィに却下された。


(ダメです! これはこれでいいものなのですから!)


 いや、よくねえだろう……。まあスカートよりも動きやすい、のかな?

 スニーカーはがばがばだけど。


 最敬礼でお見送りしてくれる澤井店長に手を振って分かれ、下着屋に行くかどうか思案したが、時間が時間だった。もう午後4時回ってるじゃん。ソフィさん選び過ぎ!

 相談するなら、今ぐらいの時間じゃないとな。暗くなって仕事する生活だから、遅い時間だと電話に出てくれない。


(ソフィ、電話をかけたいから、スイッチしてくれ)

(電話? どこに連絡を?)


 スマホの何たるかは、ソフィもすでに知っている。ネットに精通しているくらいだし。


(お姉ちゃん……)


 ソフィがはっとするのが分かった。


(お姉さまって、あの、甘南備台かんなびだい朱雀すざく、大先生ですかあぁぁ!)

(お、おお……)


 甘南備台かんなびだい朱雀すざく


 というのはペンネームだ。


 本名椥辻なぎつじかがりは俺の姉で、祖父母や父母もすでに死んだ俺にとって、唯一の肉親になる。

 5つ離れたお姉ちゃん。


 俺と違って子供の頃から優秀で、そしてそのとおりに某超難関大学文系三類にあっさり入学、すかっと卒業し大蔵省(当時)に勤めた。

 しかしそれは表の顔。


 裏は、ものすっごいオタクだった。俺がオタク化したのは間違いなく姉ちゃんのせいである。

 あの頃オタクとは言わなかったけど。

 うちの初代のビデオデッキはいつの間にか姉ちゃんがバイトで稼いで買ってきたものだ。もちろん学業も抜かりないから、親がとがめることはなかった。

 気がつけばアニメ三昧。姉ちゃんがセリフを全話丸暗記した作品は十や二十では効かない。

 俺はいっつも姉ちゃんとアニメごっこをさせられていた。必然的に俺もセリフを覚えることになった。間違えてダメ出しをされることもたびたび。


 最初はつらかったが、俺がオタクに目覚めるにつれ、そうでもなくなった。


 人、これを洗脳と呼ぶ。


 姉ちゃんは某超難関大学在学中、実は漫画家デビューを果たした。


 その前から、晴海の頃の同人誌マーケットにちょくちょくブースを構えていた。俺は当時中学生だったから、連れて行ってはもらえなかったけど。

 当時の同人誌界ではかなり目立っていた。今でいう壁サークルの走りだな。それで編集さんが目を付けて、トントン拍子にデビュー。両親にはナイショ。

 男同士の恋愛BLが専門分野だからだ。受けだの攻めだの、その頃は姉ちゃんが何を言ってるのかよくわからなかった。


 だが、大学卒業前に姉ちゃんは漫画家をあっさりやめて、公務員になった。

 後で知ったが、絵柄が昭和、と言われ、限界を感じたらしい。


 俺は姉ちゃんの絵が好きだった。同人誌や単行本は見ちゃダメ! ゼッタイ! と言われて読ませてもらえなかったが。


 でも、時折さらさらと落描きするコンドルの城嶋とか、大和の現代くんとか縞くんとか、雷電の吹雪あきらとか。

 なぜか男のキャラクターばかり描くのは当時不思議に思った。後に納得したが。

 うまかった。

 原作絵よりも、かっこよかった。


 21世紀になる少し前に、姉ちゃんは突如、兼業小説家として再デビューした。

 既に俺もメーカー勤めで、離れて暮らしていたので、そのことを知ったのはしばらく後のことだった。

 彗星のごとく現れた気鋭のBL作家、甘南備台かんなびだい朱雀すざくが姉ちゃんであることを。

 それがわかったのは、作家デビューから3年後、大蔵省を退職して専業になった時だ。

 まだ両親が健在だったので、かなり揉めた。


 が、姉ちゃんが公務員より遥かに稼いでいることがわかり、両親も文句をひっこめた。


 評価基準が学歴か収入しかなかったなあ。俺の親。

 俺があのメーカーに内定した時も、めちゃくちゃ喜んでたし。

 リストラされた時すでに亡くなっていたのは、よかったんだろう。

 ってこれは別の話。


 ちなみに姉ちゃんは独身だ。

 リアルには姉ちゃんの憧れるような男性はいなかったらしい。

 今年還暦だから、もう結婚しないだろう。


 現在、甘南備台かんなびだい朱雀すざくはBL界の大御所であり、揺るぎないレジェンドだ。

 書籍ランキングで毎年ベストセラーとなっている。

 ミリオンセラーもいくつか。

 俺も何冊か持っているんだが、BL要素抜きで面白い。と思う。贔屓目じゃなく。

 その脳内記憶を読んだソフィもはまって腐りつつあるわけだ。


 ともあれ、電話を掛ける。数回のコールで繋がった。


「なにー、どうしたの醍醐。お金は貸さないよ。悪いねー他を当たってねー」


 年の割に若い声が返ってきた。

 姉ちゃん、椥辻なぎつじかがりの声だ。

 姉ちゃんは俺が失業し、嫁と別れたことをもちろん知っている。


「あ、姉ちゃん、姉ちゃんが喰いつきそうな面白い話があるんだけど、会ってくれないかな?」

「誰?」

「俺だよ。醍醐」

「は? なんの冗談? 誰あんた? 醍醐はそんな美人声じゃない」

「そこが面白い話なんだよ。俺が醍醐なんだ。嘘だと思うなら、なんか質問してみてよ」

「なに? ボイスチェンジャーアプリか何か? まあいい。じゃ、あたしがBLにはまった作品は?」

「は? 試すにしてももうちょっとひねりなよ。正解は鉄造人間ギャラーン。その最終回、敵のグレンダイジン・ボスと主人公のギャラーンの死闘でなぜか目覚めちゃったんだよな」


 ちなみに公式プロフィールには鉄仮面とアノコロ梅田とある。


「なるほど、じゃこれはどう? あたしの一番好きな食べ物!」

「クジラの竜田揚げ」

「ぐはっ! 即答だと! なるほど。これは認めなくてはいけないようね」


 公式プロフィールではミルフィーユカツサンドになってる。姉ちゃん見栄張りすぎ。


「だろ?」

「そのボイスチェンジャーアプリ、どこでダウンロード出来るの?」


 ちゃうわ!


「そうじゃない、会えばわかるから。家に行っていいか?」

「うーん、この時間なら、構わないけど。21時に編集さん来るから、それまでなら」

「了解!」


 俺は電車に乗って隣の市にある姉ちゃんの自宅に向かった。

 車内でも、ものすごーく回りから見られるのは、もう気にしないことにした。

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