第8章

 はじめてリニアモーターカーに乗る目的が、まさか里帰りとは、夢にも思わなかった。もっと心躍る、楽しい列車の旅がよかったのに。


「犬って、ネギ食うたら死ぬねんて」


「ウソや!」


 一瞬、キュキュがしゃべり出したのかと思った。横に座る中年男性二人の関西弁が、西へ向かっていることを意識させる。メディアではよく耳にする関西弁だけれど、こうして他人がしゃべっているのを生で聞くのはいつ以来だろう。

 僕自身、今では関西弁を使っていない。理由は聡ちゃんが使っていなかったからだ。上京してから、聡ちゃんが関西弁でしゃべっているところを、僕は聞いたことがない。といっても彼の場合、両親が愛知の人なので、大津にいた頃から家の中では関西弁を使っていなかった。聡ちゃんの家で、彼が伯母さん相手に、名古屋弁と共通語が混ざったような言葉で会話しているのを聞いた記憶がある。僕が小学生の時のことだ。そして、聡ちゃんが庭の離を自分のものとして使い始めた中学生以降は、彼が伯母さんと会話している場面にすら出くわしていない。


 離は元々僕たちの祖母が住んでいたものだ。木造二階建て本瓦葺の古い建物で、風呂トイレはもちろん、シンクもガスコンロもあった。

 僕は長期休みのたびに、ひとりでよくそこへ遊びに行った。祖母が他界する小学六年生までのことだ。以降は不定期になったけれど、それでも年に二回は聡ちゃんを訪ねた。


 ん? 待てよ。


 聡ちゃんの両親が愛知の人だということは、僕の親も、どちらかがそうなのではないのか?

 こんなあたり前のことに、今の今まで気づかなかった。

 自分がいかに両親に関心がなかったか、いかに何も知らないか、この期に及んで再認識し、へこんだ。


 唐突に、隣の座席の男性が、物凄い勢いでお辞儀をした。そのまま頭を垂れた格好で静止している。やがて大きく息を吸いながらゆっくりと上体を起こし、背凭れに頭をあずけて長い息を吐いた。

 何事かと思ったが、すぐに合点がいった。どうやら強引な睡魔にとり憑かれたとみえる。

 その後も男性は、何度となく光速のお辞儀を繰り返した。このお辞儀が前後でなく、左右の振幅に変わらないことを祈るばかりである。


 幸いにも祈りの時間はそう長く続かなかった。あっという間に名古屋に到着したからだ。

 僕はリニアを降りて新幹線に乗り換えた。小雪舞う名古屋の街を、車窓から静かに眺める。

 リニアが開通するとすぐに、『名古屋とばし』という言葉が復活した。東京方面から来た乗客が、名古屋で観光することなく、他所へ行ってしまうからだ。魅力のない街、というレッテルは、いまだ剥がれない。地上七百五十八メートルの名古屋タワー建設計画が頓挫していなければ、少しは状況も変わっていただろうに。


 見覚えのある大津の街を過ぎ、京都に着いた。在来線に乗り換え、さらに西へと向かう。ここから先はもう地元の景色だ。

 しかしそんな景色に、僕は懐かしさよりも寧ろ不安を感じた。

 そして、自転車に乗って日常的に遊びに来ていた隣市の街並みを目にした途端、僕の心臓は嘘みたいに早鐘を打ち始めた。

 僕は危機を察知した。人間が長い進化の過程で失ったある種の動物的本能が突如蘇ったみたいに。

 本能は近づくことを強く拒む。

 そっちは駄目だと僕に訴えかける。

 得体の知れないものが潜んでいる、と。


 そんなことおかまいなしに、列車は僕の故郷、大山崎に到着した。一瞬乗り過ごそうかと真剣に思ったけれど、迷いを断ち切り、列車をあとにする。



 気付くと、僕は駅舎の前に立ち尽くしていた。どれくらいこうしていたのかわからない。

 目の前にはタクシーが停まっていて、運転手が僕の顔をじいーっと見ていた。

 端末を取り出して時刻を確認する。まだ十時半。

 両親へ宛てた手紙に〈正午に到着する〉という旨を記したことを思い出し、それを言い訳に、実家とは反対の方向へ歩き始める。途端に気が楽になった。


 ウイスキーの蒸留所が近づくと、馴染みのあるアサリを蒸したような匂いが漂ってきた。麦汁の匂いだ。僕は蒸留所の敷地に入り、受付らしき建物に近づく。


「mimi おいおい、どこ行くねん」


「いや、工場見学しようかと……」


「見学は予約制やで」


「そっか……。そうなんだ。じゃあ、仕方ないな」


 これでよかったのだ。そう自分に言い聞かせ、来た道を引き返す。途端に気が重くなった。


 十五分後、僕は実家から六十メートルほどのところに立っていた。ここから脇道に入って、坂を上れば、突き当りに僕の生まれ育った家があるはずだ。そして脇道に入らず、もう少し行けば、僕が通った小学校がある。

 僕はなんとなく小学校が見たくなった。カルチャースクールの校舎とどれほど似ているか較べてみようと思ったのだ。

 時刻はまだ十一時前。時間はある。

 見えない何かに誘われるかのように、ゆらりと小学校の方へ向かって足を踏み出す。しかし、三歩進んだ所で踏み留まった。

 僕は校舎が見たいわけではない。自分を欺くのはやめにしよう。

 踵を返し、脇道に入った。天王山の山腰に今でも建っている(であろう)実家を目指す。


 両サイドの家々は、新しく建て替えられたものとリフォームされたものが約半分、あとの半分は昔のままだった。

 坂道の傾斜が徐々にきつくなっていく。過去何千回と上った坂道に、自分がどこへ向かっているのかを実感させられ、不安が募る。


「ハルトくんやないか!」

 不意に前栽の手入れをしていた年配のおじさんが声を掛けてきた。

「久しぶりやなあ。見違えたわあ。立派になってえ。ああ、そうや、残念やけど、ブルーベリーはないで、わはははは」


「はあ、どうも……」


 ブルーベリー?

 何のことだかさっぱり分からず、対応に困った。名前を呼ばれたので、人違いでないことだけははっきりしている。


「ははは、憶えてないみたいやな。まあ、小さかったしな。ハルトくん、夏になると、この庭でブルーベリー食いまくってたんやで。毎朝、必ずやって来て、熟したやつを一粒残らず毟っていったんや。当時三本も樹があったのに、うちの家族は一粒も食べさせてもらえへんかったわ。はははは」


 記憶がフラッシュバックする。

 急激に全身が熱くなって、顔から火が出た。


「す、すみません」


「かまへん、かまへん」


「改めてご挨拶に伺います」


「気にせんでええっちゅーねん。わはははは」


 僕は一礼して、逃げるようにその場を立ち去った。汗が噴き出すのは、上り坂のせいかしらん。

 ふと、頭の隅に残る冷静な自分が、僥倖に気付く。恥ずかしさで目の前の不安がうまい具合に中和されているではないか。この機に乗じて、実家までの急勾配を一気に上り切ってしまうべく、ふくらはぎに力を込める。

 見上げると、青空の下にあずき色の瓦屋根が見えた。十五年前と同じだ。僕は足を止めることなく進む。

 門柱代わりの南天と柊南天の間を通って、実家の敷地に足を踏み入れた。ここから傾斜はさらに険しくなる。車が通れるよう階段はなく、舗装もされていない。ふくらはぎによりいっそう力を込める。


 躑躅と紫陽花の間を通り、椿と山茶花の間を通る。金木犀といろは紅葉の間まで来ると、ようやく建物の一階部分が見えてきた。それに伴い、玄関の前に女性がひとり、背中を向けて立っているのが分かった。

 木蓮と姫りんごの間を通り、やっと平らな土地に出た。

 僕の足音に気付いたのか、女性がハッと振り返る。驚きの表情はすぐさま満面の笑みに変わり、十メートルの距離をこちらに歩み寄ってくる。


 ついにこの時がき来た。

 西野先生の言葉を思い出す。最初の一言はとても重要である。何を言うか、どんなテンションで言うか。第一声が今後の関係を左右しかねない。

 ただいま。ただいま。ただいま。頭の中で繰り返す。

 朗らかに、大きな声で。ただいま。ただいま。ただいま。この三週間の練習の成果がいま問われる。


「お帰りなさい!」

 機先を制された。


「た、ただいま」

 会話の主導権を取り戻さねば。

「今日は暖かいですね」


「ねえ~、ほんと~、いいお天気で~」


 ここへきて僕は、両親が揃っている場面しか想定していなかったことに思い至る。


「あの……」

 お二人とも元気そうで、は使えない。

「ち、父上はお元気でしょうか」


「父上? まあ! 父上だなんて」


「あ、やっぱり変ですかね。変ですよね」


「いえいえ、変だなんてそんな、ぷっ! くくくく、ごめんなさい。父上なんて呼び方、くくく、実際に使う人がいるなんて、くくく、思わなかったわ、くくく」


「はは……」

 父上、母上は、やめた方がよさそうだ。


「はあ~、びっくり~。ぷっ! うくくくく」


 そんなにおかしいだろうか。


「あの……」


「くくくくっ、あはっ! あはははははははは」


 よく笑う人だ。何にせよ、明るい人で良かった。


「あの」

 僕は苦笑いを浮かべながらも、表札が昔のままであることを確認する。

「立ち話もなんですから、中に入りませんか?」


「あ、いえ、それはできないんです。社内規定で」


「社内……?」



 一分後、僕は同じ場所にひとり佇んでいた。手には乳酸菌飲料の試供品があった。


「mimi ウソやろ?」


「え、いや……」


「制服着てたやん」


「あれ、そうだっけ」


「CM見たことないか?」


「ああ、まあ、なんか見たことあるなーって……」


「あの人、たぶん、四十代前半やで」


「……だよね」


 玄関は施錠されている。車もない。どこかへ出かけているようだ。


「入って待ったらええのに。鍵、持ってんねやろ?」


「持ってるけど……、いいのかな」


「なんであかんねん。自分ちやろがい」


「そうなんだけど……」


「まあ、わからんでもないで。消息不明の息子が突然家ん中におったら、仰天して腰抜かしよるかもしれんしな。ほんでもって、通報でもされたらエラいこっちゃ」


「消息不明って……」

 そう思われている可能性も、あながちないではないだけに、強く否定できない。

「一応、手紙で知らせてあるんだけど」


「返事、来とらへんやんけ」


 まったくもって否めない。


 僕は乳酸菌飲料を土産の入った紙袋にしまい、スポーツバッグとともに玄関脇に置いて、前庭を散策する。庭といっても、車を方向転換させるために設けられただけの更地で、地面には花壇も芝生もなく、あるのはタイヤ痕だけ。周囲をぐるりと樹木が取り囲み、その先は崖といっていいほどの急斜面になっている。


 庭木のほとんどが、綺麗な花の咲く木か、食べられる実のなる木だった。ウメ、モモ、サクラ、コブシ、ボケ、ミモザ、バラ、カキ、ビワ、ザクロ、ユズ、キンカン、レモン、アーモンド。今はロウバイが見頃を迎え、鈴生りの柑橘類が仄かに芳香を放っている。


 ゆっくりと一本一本の木を見てまわった。十五年前には名前のわからなかった木も、今ではすべてわかる。

 僕は嬉しかった。木の名前がわかることがではない。自分のルーツを知れたことがだ。

 僕がなぜ農学部に入ったか、なぜ果樹園芸科を選んだか。そもそも、なぜ植物に興味があるのか。その答えがこの庭にあるではないか。


 僕のアパートのたいして広くもない物干し場が、鉢植えの果樹でいっぱいなのは、この庭の影響に他ならない。ここの植栽は両親の趣味嗜好を反映している。この庭こそ、僕の両親そのものではないか。僕は両親の影響を受けているのだ。


「なに笑ってんねん、気色悪い」


「ああもお! 今いいとこだったのに!」


「なにがやっ」


「感傷に浸ってたんだよ」


「知らんがな、そんなもん」


「顔に書いてあったろ」


「どこにですかあ? もっとわかりやすく書いといてんか。油性マジックで、ぶっとくぶっとく。いま感傷に浸ってますーって。あ!」


 僕は端末の電源を切った。キュキュの姿が消える。

 ちゃちゃを入れられたせいで、頭がリセットされた。良くも、悪くも。

 冷静になって考えてみれば、今の僕の園芸好きは、聡ちゃんの影響の方が大きい。鉢植えもほとんど聡ちゃんからの株分けだし。

 それでも、果樹園芸を学ぼうと思ったのは、聡ちゃんの影響を受ける前なわけだから、やはりこの庭の影響も少しは受けているのではなかろうか。気休めにそう思っておくとしよう。


 枝をしならせるほど、たわわに実った甘夏をひとつ手に載せて、ぼんやりそんなことを考えていると、坂の下から車が上がってくる音に気付いた。にわかに緊張が走る。

 姫りんごの陰から白いプリウスが現れた。玄関前を通り過ぎ、向きを変えるために架空のロータリーをぐるりとまわる。

 その際、僅かな時間プリウスと正対し、フロントガラス越しに、六十年配の男女と目が合った。二人とも僕の方を見て微笑んでいる。

 残念ながら、知っている顔とはいえない。

 プリウスは僕のそばを通り、玄関の手前まで行って、止まった。僕はようやく甘夏から手を離す。プリウスに向かって足を踏み出すには、今しばらく時間を要した。


 僕が二人の顔を認めたとき、自分はどんな表情をしていただろう。甘夏を上下に揺すりながら、間抜け面をしていたかもしれない。二人が笑っていたのは、甘夏の重さを調べる呆けた顔の男に対してではなかったか。

 あれほど第一印象に注意していたというのに、大失敗だ。なんとか挽回せねば。いや、それ以前に、二人が本当に僕の両親なのかどうか、まずはそこを見極める必要がある。


 プリウスの扉が開いて、男女がおりてきた。二人ともセーターの上にカーディガンを羽織っている。二人は、なかなか近づいて来ない牛歩の男を一度ちらと見て、ハッチバックから品物の詰まった買い物袋を取り出した。どうやら乳酸菌飲料の営業にやって来たわけではなさそうだ。


 また人違いかもしれない、という警戒心が、僕に慎重さを与え、平常心を保たせている。幾分心に余裕がある。さっきのが良い予行演習になった。


「まあ、早かったのねえ」


 やっと近づいてきた牛に、女性が言った。今の発言は、僕の手紙の内容を踏まえていると思われる。


「はい。早く着いてしまって」

 僕は照れ笑いを浮かべながら、なんとか事前に考えておいた想定問答に持ち込もうと試みる。

「このあたりは変わらないですねえ」と言った瞬間、庭木の向こうに、十五年前はなかった高層住宅が目に入った。慌てて視線を横に向けると、山の斜面に知らない施設がいくつもできている。Bパターンの方が良かったか。


「ちょっと待ってね」と言って、女性が財布から鍵を取り出し、扉の鍵穴に差し込んだ。


「待ったかい?」と男性が低い声で言った。


「いえ」

 

 やはり見覚えはなかった。しかし、おそらくは、この人たちが、そうなのだろう。

 確信に近いものを得た僕は、改めてちゃんとした挨拶をしようと心に決めた。仕切り直すなら早い方が良い。


 女性が扉を開けて、僕に中へ入るよう促す。僕は自分の荷物を持ち、下駄箱の前まで進むと、意を決して二人の方に向き直った。緊張が高まる。男性の目をしっかり見てから、女性の目を見据え、大きく息を吸う。


「はじめまして!」


「え?」


 あ……


 しまった!

 

 二人は呆気にとられて静止している。

 当然だろう。


 僕は手にしていた荷物を置き、「それ持ちます!」と言って、二人が提げている買い物袋を、半ば強引にひったくった。靴を脱いで、逃げるように台所へと急ぐ。


 まずい!

 これはまずい!


 テーブルの上に袋を置いて、さっきの失言を繕う言葉はないものかと模索する。しかし頭はパニック状態で、何も考えられない。

 二人が近づく足音を聞き、そそくさと隣の居間に移った。ソファに浅く腰掛け、頭を抱える。


 すべて台無しだ。


 二人が台所に入って来た。いま買ってきた食材を冷蔵庫に収納し始める。二人とも無言だった。


 さっきのはジョークです、と笑いながら言ってみようか。無理だ。

 さっきのやつ聞かなかったことにしてもらえませんか? アホか。

 どうやっても誤魔化せそうにない。

 これはもう、素直に謝るしかない。


 台所をちら見すると、二人がぼそぼそと言葉を交わしてる。ここからでは聞き取れない。

 何かいい謝罪文句がないものかと思案していると、二人が居間に入ってきた。僕はすっくと起立する。


「謝らないといけないことがあるの」

 僕より先に、母が口を開いた。

「手紙を送ってくれたでしょ?」


「あ、はい」

 そういえば。


「あれね、届いてることに気付いたのが、一昨日の夕方なのよ。返事を出すには遅すぎるし、結局、何もできなくて。ごめんなさいね」


「いえ、そんな」

 そういうことか。


「最近じゃ、ポストの中を確認することもなくなってね」

 沈痛な面持ちで父が言う。

「申し訳ないことをした」


「しょうがないですよ。僕もほとんど見ません」


 次は僕が謝る番だ。


「それから、お昼なんだけど、まだでしょ?」

 母が訊いた。


「はい」


「毎年この時期になると食べに行く店があってね」

 父が言った。

「今年も二人で予約してたんだけど、昨日確認したら、一人増えても大丈夫だって」


「一時からだから、支度しておいて」


 これは僕にとって嬉しい申し出だった。西野先生から、両親を外食に誘うようアドバイスされていたので、僕は誘い文句を捻出し、入念にシミュレーションを重ねていた。しかし、準備したいずれのパターンもいまいちしっくりこず、困っていたのだ。懸案事項が一つ減った。


 二人はL字型のソファに並んで座った。僕も座り直し、特訓してきた社交的な笑顔を披露しようと努める。うまくいったかどうかは、わからない。

 当たり障りのない会話が始まる。僕は西野先生の言いつけ通り、意識して父と母の目を見て話した。

「帰省ラッシュで混んでたでしょ」という母の言葉に続いて、「リニアは速かったかい?」と父に訊かれた。

 リニアに乗った感想は必ず訊かれるだろうと予想していたので、答えをいろいろ取り揃えていた。事前のシミュレーションでは、これだけで約三分語れた。にもかかわらず、実際に口から出た言葉は「ええ」という一言だけだった。そのあとにいくら言葉を継ごうとしても、継げない。声の出し方を忘れたように。喉が詰まったように。失語症とは、こういうのだろうか。


 その後の会話も、僕の目論見とはかけ離れたものだった。

「疲れたでしょ」、「今日は暖かくて良かった」といった母の呟きに対し、父が相槌を打ったり、僕が「そうですね」、「いやあ」とはにかむ時間が延々続く。


 僕は謝るタイミングを完全に逸した。ここまでくると、今さらわざわざ蒸し返したくない。

 そのうち僕は、二人があの一言を聞いていなかったのではないかと、都合よく考えるようになった。もちろん、馬鹿気た希望的観測であることはわかっている。しかし、二人がまったくあのことに触れないので、だんだんそれが真相のように思えてくる。

 また一方で、これは両親なりの優しさなのでは? とも考えていた。それならそれで優しさに甘えさせてもらおうと、そのままにしておくことにした。


 閑談は十二時半まで続いた。第一ラウンド終了、といったところか。

 試合開始早々、ひとりで勝手にすっ転んで後頭部を強打したけれど、なんとか持ち堪えられた。

 父と母は身支度を始めた。といっても、さっき一度出かけているので、すぐに済む。僕の方も特にすることはないので、五分後には出発した。


 白いプリウスは、隣接する長岡京の市街ではなく、山の方に向かって走っている。竹林の外縁に沿って緩やかな弧を描いていたプリウスが、左折して、竹林の中を走り始めた。竹垣に挟まれた薄暗い林道をしばらく進むと、路面のセンターラインがなくなった。さらに進むと舗装がなくなり、黒っぽい土の道になった。プリウスが減速する。


 砂利を敷き詰めた駐車場は、三台分の駐車スペースしかなく、お店の規模を窺わせた。竹柵の低いところに『瀟碧庵』という表札を見つける。わざと見つけにくくしているのではないかと疑うほど、小さく慎ましい。

 周囲の竹は、高さが十メートルを優に超える。このあたりで一般的な孟宗竹だろう。

 白い玉砂利の敷き詰めれらた小径を、父と母に続いて歩く。

 店舗は昼間だというのに蜂蜜色の照明でライトアップされていた。外観を見る限り、さほど古い建物には見えない。格子の引き戸に藍染の暖簾が掛かり、白抜きで『瀟碧庵』とある。


 店内は、割烹料理の店というよりも、和をイメージしたアートギャラリーのような空間だった。竹製の工芸品や民芸品が幾つか飾られている。壁には竹製の花差しに一輪の椿。天井は竹網代。玄関を入った正面は全面ガラス張りになっていて、そこからは竹林以外何も見えない。詫び寂は控えめながら、雅趣をうまく醸し出してしている印象を受ける。


「ここはね、一日に四組しかお客をとらないの。昼に二組、夜に二組」

 母が言った。


 店内にはテーブルが一つしかなく、従業員も白い調理服を着た五十代と思しき男がいるだけだった。母によると、この男がひとりで切盛りしているそうだ。

 テーブルには椅子が三つ用意されていた。僕はショウケースの中の茶器を鑑賞しながら、上着をハンガーにかけ、席に着く。僕の対面に二人が座り、我々は初めて真正面から顔を向け合うことになった。


「ん? メニューが……」

 見当たらない。


「ここはすべてお任せなの」

 母が僕の顔を真っ直ぐ見ながら言った。


 僕も、意識して父と母の顔を見ながら話す。

 二人を正面に置いて話すことは、L字型のソファに座って話すのとまた違った緊張感がある。


 残念ながら、いくら見続けてもやはり見覚えのない顔だった。「実は、私たちは偽者です」と言われても、僕は冗談とは捉えないだろう。

 知っているはずなのに知らない顔。まるでゲシュタルト崩壊を起こしている感覚だった。

 

 料理はすぐに運ばれてきた。筍尽くしかと思いきや、普通の懐石料理だった。といっても、僕は本格的な懐石なんて食べたことがないので、あくまで、僕がイメージする懐石とたいして違わない、という意味だ。そもそも懐石に普通があるのかどうかも知らない。


 食事中はほとんど無言だった。母が、二、三度ぽそりと感想を零したけれど、父も僕も何も返さなかった。ジャズっぽいインストゥルメンタルの静かなBGMがやけに大きく聴こえる。


 食事が終わると、閑談の時間が始まった。二人は時折、僕の方にも話を振ってくれる。なのに僕は、相変わらず気の抜けた相槌しか返せない。こんなに話し下手な人間ではないはずなのに。どうにも勝手が違う。


 両親との会話は、相当な忍耐力を要した。

 二人の視線と盛り上がらない会話。

 正直、僕は父と母の相手をすることに疲れてきた。いや、初めから疲れていた。集中力の減衰に伴い、二人の間に覗くインテリアの船箪笥を眺める時間が多くなる。

 その船箪笥の上に鎮座する和時計の針が、二時を指した。


「じゃあ、ちょっと行ってみましょうか」

 母が立ち上がる。


「え?」

 僕は当惑顔で訊く。

「どこに?」


 父と母は、聞いてなかったの? とでも言いたげな当惑顔を返してきた。


「ここはね、竹林を散策できるの」

 母は、僕に上着を手渡してくれた。


 父が厨房で作業する男に、「ちょっと行ってきます」と声を掛けると、男は笑顔を見せることもなく一揖した。

 厨房のわきを通り、勝手口の扉を開けて外へ出ると、我々は竹林の奥へ向かった。年の瀬にしては暖かい日だけれど、竹林はひんやりと冷たい。僕は両親の後ろを五、六歩下がって歩く。

 二人との距離を縮めることは容易かった。むしろ、二人はとてもゆっくりと歩いたので、間隔を維持するのに苦労した。


 竹林は起伏ばかりで、平坦なところがほとんどない。時化た海面のように畝っている。しかも足下は腐葉土の層が厚く、クッションが利いてひどく歩きにくい。

 風にそよいで擦れ合う竹の葉が、頭上でさわさわと音を立てる。見上げると、日の光に輝く淡い緑色の葉の隙間から、青空が覗いていた。


 小高い丘のその先に、太い入射光が見える。我々親子は、そこが約束の場所であるかのように、自然そちらの方へ歩いて行く。

 丘の上までくると我々は足を止めた。父と母は目的地に到達した時に吐く溜息を吐き、僕は僕で、少し意味合いの異なる溜息を吐いた。


 丘の向こう側は、細い竹が密生する薮だった。背丈は四メートに満たない。あまりにも稠密で、立錐の余地どころか、力いっぱい掻き分けても身体を捩じ込めそうにない。藪というより、もはや壁だった。


 僕は薄暗い竹林から、壁のような藪をじっと眺めた。そして、藪の中の鬱蒼とした世界を窺った。

 藪の中は暗く、手前からわずか数十センチしか見通せない。枝は伸びたい方向に伸びられず、互いに邪魔をして犇めき合っている。色が抜けたように黄変したものや、枯れて土気色になったものもある。そんな藪を、僕はいつまでも眺め続けた。



 帰りの車中、僕は後部座席に座り、さっきの細竹の壁を思い出していた。そして壁の前にしゃがみ込み、根元付近を鉈で叩き切るところを想像した。

 一本切っては、背後に寝かせ、また一本切っては背後に寝かせた。

 手の届く範囲を刈ってしまうと、横に移動し、また刈った。

 全て刈ってしまうのではなく、百本に一本ほど残した。

 こうして過繁茂の竹藪を、株間一メートルの間伐林にしていった。



 三時頃、家に着いた。僕は「少し休みます」と言い残し、玄関に置きっぱなしの自分の荷物を持って、二階に上がった。

 部屋に入ると、ベッドに突っ伏して、眠るでもなく、暫らくそのままじっとしていた。


 こんなはずではなかった。シミュレーションではもっと上手くいったのに。

 辛かった。想像を遥かに超えて。

 決起集会で咲良さんが、「何か劇的な出来事でもあれば」と語っていたのを思い出す。地震で倒壊した家屋から両親を助け出したり、家に押し入った強盗を親子で力を合わせて撃退したり──そんな非日常が、絆を結び直してくれるというのだ。もちろん、そんなこと、あったらあったで困るけれど。


 たぶん、きっかけなんてないのだろう。

 近道なんてない。他力本願はいけない。絆は自力で結ぶもの。

 そうな言葉を反芻して、大きく息を吸いながら起き上がった。

 まだ第二ラウンドが終わったところだ。挫けるには早すぎる。


 僕は乳酸菌飲料を飲みながら、十五年ぶりに入った自分の部屋をあらためて眺めた。埃っぽさやカビ臭さはなく、日頃から掃除されていたのがわかる。

 三十二インチ液晶テレビが問題なく映ることを確認し、すぐに電源を切った。プラグも抜いておく。帰省中、テレビは見ないと決めてある。

 BDレコーダーのハードディスクの容量が1TBしかないのには驚かされた。当時はこれで何時間くらい録画できたのだろう。


 サイドボードのガラスケースの中には、ゲーム機数台とノートPCが整然と並んでいる。『SWITCH』の上に『DS』を見つけたとき、僕はさくらのことを思い出した。

 彼女の里帰りもこんな感じだったのだろうか。盆休み明けに食事をしたときの、さくらの落ち込み様を思い出す。そして、聡ちゃんの憔悴した様子を連想した。

 今の僕も、おそらくあんな感じなのだろう。


 夕飯の支度だろうか。階下から物音が届く。意識を向けなければ聞こえない微かな音。昔の僕は気にも留めなかった家族の生活の音。


 ベッドサイドランプに付属する白黒液晶の小さな時計が七時になるのを待って、一階へ下りた。食事の準備はすでに整っている。

 ダイニングテーブルではなく、リビングテーブルに皿が並んでいた。ダイニングには椅子が二つしかないためだろう。テーブルのサイズも、僕がいた頃の半分ほどしかない。


 三人でL字ソファに腰掛け、軽めの食事をとった。例によって、母がぽつりぽつりと呟き、父と僕が相槌を打ったり打たなかったりした。

 食事の後も、その場で十五分ほど途切れ途切れの会話をした。


 入浴後、二階に上がりたいのを我慢して、居間のソファでまた少し話をした。ネタはすぐに尽き、盛り上がりにも欠けたけれど、それでも話し続け、目標の九時までなんとか堪えた。


 部屋に戻るとすぐさまベッドに倒れ込んだ。こうして地道にがんばるしかないのだと、自分に言い聞かせる。

 天井の照明を消すと、真っ暗闇になった。目の前で手を振っても見えない。しばらくすれば目が慣れるだろうと思ったけれど、不思議なことにいつまで経っても視界は黒一色だった。


 理由はすぐにわかった。この部屋には、ほとんどの家電に付いている、LEDのムギライトが一つも点灯していないのだ。

 これほどの暗闇は経験したことがない。ある意味新鮮だった。目を開いているのか閉じているのか分からない不思議な感覚を伴いながら、僕はゆっくりと眠りに落ちた。



 夢の中でまた細竹の壁をすいた。

 鉈を根元に打ちつけて、一本ずつ、一本ずつ、叩き切った。

 僕は役所の仕事でメダケを刈ったことがある。

 空家の庭から隣の児童公園に侵入したメダケを、丸一日かけてひとりで刈った。

 小春日和の孤独な単純作業は、日頃の息抜きにもってこいだった。

 軽トラの荷台いっぱいに積んだメダケを見て、なぜか顔が綻んだのを憶えている。

 あの日の作業がオーバーラップする。

 僕は軽快に鉈をふるう。

 細竹は、二度の打撃で断ち切れた。

 リズミカルに二度打って、刈った細竹を背後に横たえる。

 テンポよく作業が進む。

 興が乗ってくる。

 ふと手を止めて、鉈を手放し、立ち上がる。

 細竹を両手でしっかりと掴み、両足を踏ん張って、思い切り引っ張った。

 竹の根は広く張り、びくともしない。

 今度は腰を落として根元をしっかりと握り、体重を後ろに預けた。

 竹の根は深く張り、びくともしない。

 僕は諦めてその場にしゃがみ、ふたたび鉈を手にして、竹の根元に打ちつけた。

 一本ずつ、一本ずつ、叩き切った。

 一本切っては背後に寝かせ、また一本切っては背後に寝かせた。

 ふと手を止めて、鉈を傍らに置いた。

 おそるおそる藪の中に手を入れてみる。

 藪は奥の方ほどひんやりしていた。

 藪の中に手を入れるのは、気持ちのいいことではなかった。

 あまり奥まで突っ込むと、クモやらムカデやらが手に乗り移って来るような気がして、全身が粟立った。

 ゆっくりと藪の中から手を引き抜く。

 見馴れたカーキ色の袖。

 いつの間にか、役所の作業服を着ていた。

 天を仰ぐと、そそり立つ壁の上に青空が覗いていた。

 強い日差し。季節は夏だ。

 竹の葉が風にそよぎ、きらきらと金色に輝く。

 僕は鉈を手にして、また細竹を刈る。

 どこかでアブラゼミが鳴いていた。

 集中力を発揮して、鉈の刃を根元に打ちつける。

 一本、一本叩き切る。

 無我夢中で藪を刈る。

 ふと後ろを振り返ると、間伐林が広がっていた。

 細竹が一メートルの等間隔で整然と並ぶ。

 気分が爽やぐ。

 また天を仰いだ。

 夕日に照らされ、竹の葉が真っ赤に燃えていた。

 どこかでヒグラシが鳴いていた。


     第8章 完

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