第6章
役所に勤め始めて最初に仲良くなったのは、松本勇気という同期入所の男だった。身長は僕よりやや低く、体重は僕よりやや重く、性格は僕よりずいぶん変わっていた。といっても、度を越えたオタク趣味やオカルト趣味があるわけではなく、まして狡猾や狷狭の類でもない。いわば『重度の天然ボケ』といった程度の変わり者で、世間知らずからくる奇行が稀にあるけれど、普通に付き合う分には何ら支障ない。
知り合って間もなくゴールデンウィークが訪れ、その初日に僕は彼のアパートを訪ねた。彼は親元を離れて独り暮らしを始めたばかりだったけれど、始めたばかりとは思えないほどに部屋は散らかっていた。そしてその手狭なワンルームは、なにやら甘い匂いで満たされていた。
匂いの正体はすぐに分かった。部屋の一角に、業務用と書かれたホットケーキミックスの大きな袋が、堆く積まれていたからだ。もちろんその横には、徳用サイズのシロップが所狭しと並んでいた。本人曰く、「ホットケーキしか食べてない」とのことだった。なんでも、『魔女の宅急便』のキキに倣ってのことだそうな。
そんなわけで、翌月彼が栄養失調のため入院したと聞かされたときも、驚きはしなかった。「ああ、やっぱりな」と納得し、糖尿病より先に栄養失調で良かった、と安堵の溜め息を吐いただけだ。
『人はホットケーキのみで生きられない』という、大事な教訓を一つ授けてくれたお礼に、彼が退院するとすぐ見舞いに出向いた。快気祝いとして、ダンボール一箱のホットケーキミックスを携えて。
この程度の嫌がらせなら、シャレと捉えてくれるはず。いくらホットケーキに懲りているからといって、怒り出したりはしないだろう。その時の僕は、そう信じて疑わなかった。
ところが、ことは一筋縄ではいかなかった。僕は松本勇気という男を完全に見縊っていた。結論からいうと、彼の方が一枚も二枚も上手だったのだ。
松本の部屋に足を踏み入れた瞬間、僕の目に飛び込んできたのは、彼が大口を開けてホットケーキを頬張る姿だった。右手にナイフ、左手にフォークを握りしめ、三段に積み重なった分厚いホットケーキを前に、「いらっひゃ~い」とにこやかに言われた刹那、僕は唖然とし、眩暈を覚え、腰が砕けてよろめいた。抱えていた箱をドスンと床に落とすと、松本は「大丈夫かい?」と真顔になった。「それはこっちのセリフだ!」と思わず声を荒げた。不覚にも彼のことを本気で心配してしまった。僕の完敗だった。
そんな松本勇気をも凌ぐ偏食が、最近僕の前に現れた。里帰り講座で僕の右隣に座るピン髪の加藤さんだ。驚くことに加藤さんは、ここ数年、コンデンスミルク以外のものを口にしていないという。果たして人間はコンデンスミルクのみで生きられるものなのだろうか。ホットケーキのみでは生きられないという、この世の真理の一つをすでに悟っている僕にしてみれば、にわかには信じ難い事実なのだ。
加藤さんはまだあどけなさを残し、女の子という表現が無理なく当て嵌まる顔立ちをしている。といっても、たいへん落ち着きがあり、はしゃぐタイプではなさそうだ。少なくとも箸が転んだくらいでは笑いそうにない。
彼女のファッションはいつも奇抜で、架空の世界の住人然としている。ひょっとするとアニメのコスプレかもしれない。
先週から白いマントを羽織ってくるようになった。もちろん普通のマントではない。背中に国籍不明の大きな紋章がプリントされ、肩にはフリンジのあしらわれた大きなパッドがついている。アメフトの防具なみに大きなショルダーパッドだ。
加藤さんのピンク色の髪の毛はつるつるの艶々、刮目すれば、鏡となって自分の顔が映るほどに艶々している。染色剤の著しい発達があるにしても、コンデンスミルクしか口にしない栄養の偏った人間が、どうしてこれほど上質な髪を維持できるのか、たいへん謎である。
そしてなにより、同じものを食べ続けて食傷を覚えないということに、僕は最も驚かされる。
松本勇気といい、加藤さんといい、栄養学をぶっとばそうという彼らの心意気と、並々ならぬ力量には感服するが、やはりまともではない。体質もそうだけれど、それ以上に心の有り様が。
食事の偏りは精神の偏り、という世間一般の見解に、僕も概ね賛同している。
とはいうものの、僕はこのような極度の偏食に少なからず興味があった。時折メディアが取り上げる世界の偏食家たちについて、もっと詳しく知りたいと常々思っている。何歳からそれを食べ続け、何歳の時にどんな病気を患い、そして何歳まで生きたのか。『あの偏食家は、今!』てなかんじの続報番組を放送してくれないものだろうか。そして、事実を踏まえて、偏食家と栄養士たちとの間で激論を繰り広げてほしい。
実のところ僕自身、栄養学には幾分懐疑的なのだ。
人間以外の動物たちは、概ね同じものばかりを食べている。肉食動物は肉だけを食べ、草食動物は草だけを食べて健康を維持している。人間の少し前の祖先だって、同じものばかりを食べていたはず。
そう考えると、それほど多種の栄養が必要だとは思えなくなってくる。人間の身体はもっと順応性を秘めているのではないか、真価を発揮していないのではないか。身体がほんの少し先祖がえりするだけで、栄養バランスなんかどうでもよくなるのではないのか。偏食家たちが、人間の可能性を見せつけてくれることを期待する自分がいる。
そういう意味では、この二人は格好の観察対象といえる。松本勇気はかつてほどホットケーキ一辺倒ではなくなったので、あまり良質のサンプルとはいえないけれど、加藤さんについては、出来れば今後も定期的に本人から情報を得たいものだ。
そんな加藤さんと僕が仲良くなったのは、先週の講義の合間のことだった。
一時限めに教材として使用した漫画について、隣にいる僕に質問してきたのだ。『美味しんぼ』を、何と読むのか教えてほしいと。
僕も読めずに困っていると、咲良さんが振り向いて、「おいしんぼです」と教えてくれた。こんなふうにして僕たちは、三人で会話する機会を得た。
僕と咲良さんの間の情報交換は済んでいるので、二人で結託して加藤さんを質問攻めにした。残念ながら十分足らずの短い時間では、家庭環境にまで話が及ぶことはなく、聞き出せたのは偏食についてと、コスプレイヤーとして生計を立てているということだけだった。
それまで、他を寄せ付けない雰囲気を醸し出す加藤さんに、あまり良い印象を持っていなかった僕だけれど、人当たりの良さと丁寧な言葉づかいという見た目とのギャップもあって、一気に好感度が上がった。
どのような経緯でこれほど特異なキャラに仕上がったのか、そのへんのところも含め、機会があればいろいろ詮索してみたい。
*
「mimi 知り合いからメールやでー」
土曜日の朝、洗濯機を回しながら鉢植えに水をやっていると、部屋の中からキュキュが叫んだ。
「誰から?」
「フロム プライスレスやて」
留萌の春輝くんのハンドルネームだ。
僕は最後まで水をやってしまってから部屋に上がり、キッチンでコーヒーを淹れた。カウチに腰掛け、コーヒーをひと口啜り、メールを開く。
内容は予想していた通りのものだった。簡単な挨拶の後に、何故こんな手紙を送って寄こしたのか? という旨が記されていた。
僕はまたひと口コーヒーを啜ると、サイドテーブルの端末を手に取り、彼の端末へ電話をかけた。ワンコール目が鳴り止むと同時に、胸から上の春輝くんが巨大な姿となって、壁の奥に現れた。
「やあ」と言って、彼はインディアンの様に右手を挙げた。
「ご無沙汰」と言って、僕も彼の所作に倣った。
「こうして顔を合わせるのは──」
彼は右上に視線を送る。
「十六年ぶりか」
僕は指を折って確認する。
「十六年と五ヶ月ぶり」
暫らくの間はぎくしゃくした会話が続いた。当然だろう。十六年以上顔を合わさず、ここ五年は、正月に挨拶のメッセージを交わすだけの間柄だったのだから。
春輝くんの顔は相変わらずの童顔だった。童顔というものを、単に実年齢より若く見えるだけのタイプと、目鼻立ちや顔のつくりが何かしら赤ちゃんをおもわせるタイプの二つに大別するならば、春輝くんのそれは明らかに後者だった。
前者の若々しいだけの顔は、年とともに見た目が実年齢に追いついたり、場合によって実年齢を追い越し、老け顔になる場合がある。厳密にいえば、これは童顔ではない。
対して彼の童顔は本物の童顔だった。見た目が実年齢に追いつくことはなく、老いてしわくちゃになってなお彼の顔は幼さを残したままだろう。
「びっくりしたよ。小学生のときに年賀はがきを受け取ったことはあるけど、便箋に書いた手紙は初めてだ」
「驚かす心算はなかったんだ。ただちょっと、思うところあってね」
「何だろ、思うところって」
「いや、まあ、それはいいんだけど、それより、手紙にあったろ。教えてほしいんだ、君と君の親御さんとの関係を」
「関係っていってもなあ、うちは良好なほうじゃないかな。といっても、顔を合わせればお互い文句ばっかりだけどね。ずっと同居してるんだ」
「え? そうなの?」
「うちは百年以上続く旅館だし、なんといっても私は六人兄弟の長男だからね。家督を継ぐ義務がある」
予想外の連続だった。
しかもこれで終わりではない。聴けば、彼は身体を動かすのが大好きで、中学時代からボクシングジムに通っていたという。
さらに、地元の青年団(青年団て何だ?)の団長をやっていたり、年明けに父親が隠居するので社長に就任したりと、ボクサーらしく意外な事実を次々繰り出してきて、僕を面喰らわせた。
中一のときに見たひ弱そうなイメージから、僕は彼のことをネットヲタだとばかり思っていた。登校拒否&引き籠りかも知れないと勘繰ったこともある。
確かにゲームの中のプライスレスは芯が強く、男気があった。そんなところに僕は惚れ込んでいたし、尊敬もしていた。しかし、それはあくまでゲームの中でのキャラであり、虚像だと思っていた。
僕にとってはそれで良かった。ゲームの中だけとはいえ、あれほど誠実に振舞える人はそうはいないし、ゲームの中だからこそ、性根の部分がストレートに現れるものだ。現実の彼がオタクだろうと引き籠りだろうと、そんなことはどうでもよかった。僕はプライスレスに対して、そして春輝くんに対して、そんなふうな思いを抱いていた。
どうやら僕は、当時の無気力な自分と彼を、勝手に重ね合わせていたらしい。
「ちょっとした告白になるけど、私はテロメアに合わせてたんだ」
テロメアは僕のハンドルネームである。
「中学の時にテロメアの顔を見て、私は君に、その、ちょっと言いにくいんだけど、ネットヲタっぽい印象を受けたんだ。私はテロメアがゲームの中で見せる正義感とか勇猛果敢なところが大好きだったし、たとえ君がオタクでも、全然かまわなかった。仮想空間だけの虚像だとしても、そこには君の意思が反映されてるわけだし、あのキャラクターは嘘偽りのない君自身だ」
ここらへんの感覚は、やはり僕とよく似ている。
「それに私の中にもオタク気質はあるんだ。少なからずね。私は私の中にあるオタクな部分を曝け出していたんであって、別に偽ってたわけじゃないんだよ」
「僕も白状するよ。僕はプライスレスのこと、重度のネット依存だと思ってた。十六年前の君はひどく痩せていたし」
「童顔だし」
「そう。あ、いや、それは関係ない」
彼は、ふふっと笑った。
「とにかく、とてもスポーツ好きには見えなかった。ましてやボクシングだなんて」
今にして思えば、あの身体は華奢なのではなく、トレーニングによって引き締まっていたのだ。
「ひょっとしてテロメアも、君の中のオタクの部分で私と付き合っていたのかな」
「そうかもしれない」
「君はすごく変わったと思う。十代の終わり頃から、君のメールは急に大人びてきた。人間的にすごく成長しているのが手に取るようにわかって、私はホントに嬉しく思ってたんだ。それまでの君のメールには、どこか気怠そうなところがあったり、ものごとを斜に構えて見ているところがあって、今だから言うけど、現実世界ではあまりお付き合いしたいとは思わなかった。だから私生活についてはほとんど何も訊かなかったし、教えなかったんだ。まあ、君も知るつもりなんてさらさらなかったようだけどね」
「その通りだよ。あのころの僕の興味の対象はプライスレスであって、春輝くんではなかった」
「私は私なりに努力してたんだけどな。君にもう少し良識というか、社会性みたいなものを植え付けようと。ゲームの中のテロメアがあれだけ人格者なんだから、君にもその資質が充分あると思って」
「僕は随分プライスレスに感化されたつもりでいたけど」
「そうなのかい? だとしたら嬉しいよ」
「だけど……、僕には、ひとつ大きな見落としがあった。見習わなければいけないところを、見習い損ねていた。それに最近気付いたんだ」
「その話をするために電話して来たんだろ?」
「まあ、そうなんだけど」
「なんでも相談に乗るよ」
「いや、やめておこう。プライスレスには全く縁のない話だってことがよく分かった」
「親子関係かな?」
「そんなとこ。プライスレスが聞いたら、たぶん笑ってしまうよ。世の中にそんなことで悩んでるヤツがいるのかって」
「笑わないさ」
「ふふ、ありがとう。いつか、話せるときが来たら話すよ」
「そっか。じゃあ、楽しみに待ってる」
話題は互いの近況報告から昔の思い出話へと移り、バーチャルタウンでの買い物を約束して電話を切った。
マグカップには冷めたコーヒーが半分残っていた。僕はカップを台所に持って行き、牛乳を加えてレンジで温め、またカウチに戻った。
「さて!」
サイドテーブルの引き出しから便箋を取り出し、熱々のカフェオレを啜りながら、親に宛てる手紙の文面を思案する。
なるほど。もしも春輝くんに手紙を書いた経験がなかったら、僕はこのまま何時間でも途方に暮れていたことだろう。かなり有意義な予行演習だったといえる。
僕は床の新聞チラシの束を拾い上げた。裏が白紙のものを選り出し、そこにトピックスのつもりで思いつくままを書き出す。
挨拶(前略ではじめる)
暮に帰省したいと思っています
三十日の正午ごろ着く予定です
二日に帰京する予定です
都合はわるくないですか
僕は今東京に住んでいます
お土産の希望がありましたら承ります
今年も庭の石榴が実をつけました
鉢植えなので小さな木です
実も小さいです
会えるのを楽しみにしています
とりあえずこの一つ一つを、引き伸ばしたり装飾したりしてみよう。書いてるうちにまた書くべきことが浮かぶだろう。
さくらの事を書くのはやめておこう。いろいろなことがちゃんとしてからの方がいいだろう。
詳しい現況については、ここには記さない。「それは面と向かって話すこと」。西野先生の言葉だ。
どんなふうに伝えるか。頭の中で、何度も何度も説明してみる。いろんなシチュエーションを想像してみる。それがシミュレーションになるからだ。
僕は一時間かけて、何とか便箋二枚を文字で埋め、それを封筒に入れた。封をした瞬間、本当にこれで良いのだろうか、という焦燥に苛まれた。取り返しのつかないことをしようとしているのかもしれない──そんな不安を引きずりながら、最寄りの郵便局へと向かう。
手紙を投函する瞬間は、まさに断腸の思いだった。手紙から手を放すと、自分が落下する錯覚に身が縮んだ。
投函後、朱色のポストの前でしばし佇んだ。投函口に手を突っ込んで取り戻したいという衝動に駆られながら。
しかし、後悔に似た嫌な気分は、やがて覚悟に変わった。
もう引き返せない。
大きな一歩を踏み出したのだと、胸がジンと熱くなる。
気分転換というわけではないけれど、帰りに松本勇気のアパートへ寄ることにした。彼のところの親子関係にいささか興味を覚えたからだ。
松本の部屋に来たのは約一年ぶりだった。扉を開けるとお馴染みの甘い匂いがした。部屋の一角は相変わらず業務用ホットケーキミックスで占められている。
「なんだい、今日は?」
松本勇気が、いつものにこにこ顔で言った。
下膨れの顔に円らな瞳。その大きくてくりくりとした目をこれでもかと見開くものだから、瞬きする度にパチパチと音が聴こえてくるようだ。
僕はずっと心の歪みと偏食との間には密接な関係があると思っていたので、松本と出会い、彼の天然ではあるものの素直な性格を目の当たりにして、認識を改めさせられた。
しかし、よくよく考えてみれば、彼の偏食は好き嫌いからくるものではなく、寧ろ食への拘りのなさからくるものである。それしか食べないのと、それしか食べられないのとでは大きく違うのだ。そういった意味では、彼は正統な偏食とはいえないのかもしれない。
「ちょっと変なこと訊いてもいいかな」
「なんだろ、変なことって」
松本勇気は、わくわくしながら言った。
「松本くん、ご両親とはうまくいってる?」
「うわあっ!」
松本勇気は、渋面を作ると同時に右肩を竦め、自分の右耳を手でバシバシと叩いた。僕には何が始まったのかさっぱりわからない。
「お~い、松本くん、聞いてるかい?」
「もおお、十二月なのに、なんで蚊がいるんだよお」
彼はぶつぶつ文句を言いながら、部屋のあちこちにある電気蚊取り器のスイッチを次々と入れてまわった。
「何で三つもつけるんだ。しかも、全部違うメーカーの製品じゃないか、っておい! まだつける気か!」
戸棚の前にしゃがみ込んで何をしているのかと思いきや、ライターで渦巻き線香に火を点けている。
「こうすると、効果バッチリなんだよ、ふふふ」
そりゃあ、これだけつけたら効くだろう。
「こんなにいろんな種類を同時に点けて、変な化学反応とか起きないか?」
「大丈夫、大丈夫」
「大丈夫って……」
何か根拠あんのか! お前みたいな奴に宛てた注意書きなんだろうな、『混ぜるな危険』って。
「──で? 何の話だっけ」
蚊のことはもう片付きましたとでもいわんばかりに、すっきりした顔をして、松本が言った。僕も長居するのは危険と判断して、とっとと本題に戻ることにする。
「えーっと、なんだっけな……。あーそうだ、君と君の両親との…… ん? おい、ちょっと……、なんだか喉が痛いんだけど」
「んじゃ、そろそろいいかな」
そう言って松本は、電気蚊取り器のスイッチを一つ一つ切ってまわった。
そうか。そういうことか。なぜ毎年夏になると、松本の声が嗄れるのか、今やっとわかった。
その後、なんとか松本の親子関係について聞き出すことができた。結果、彼と彼の両親が、稀にみる仲良し親子であることが判明した。彼の実家はここから一キロと離れておらず(しかも僕のアパートの近所だった)、彼は毎週のように遊びに行くという。さらに聞けば、盆と正月には必ず家族三人で旅行に出かけ、月に一度は近場の温泉まで浸かりに行く、とのことだ。
それほど仲が良いのに、なぜ家を出たのか訊いてみると、なんでも、あまりに仲が良すぎるので、家族会議を開き、お互い親離れ子離れをしようという結論に至ったという。家族会議なんてものを実際に開いている家庭があったのかと、驚かされた。
親離れ、子離れ──そういえばそんな言葉があったな。
僕はなんだか打ちのめされたような気分で、彼の部屋をあとにした。
*
いよいよ五週め(最終週)の講義。
教材には、二十年前に放送されたテレビ番組が使われた。職員がやってきてVTRを流し、すぐに立ち去った。講師はおらず、生徒だけでそれを見る。
内容は、ゲスト(著名人)の先祖にどういう人物がいたかを番組が取材し、ゲストのルーツを探るというもの。先祖のひとりにスポットライトを当て、その人物が、いつどこで誰と出会い、何をしたか、どういう生き方をしたか、どんな人生を歩んだか、その子供がどういう生き方をし、どんな人生を歩んだか、そのまた子供がどんな人生を歩んだか、ゲストが誕生するまでの数々の物語を、再現ドラマを交えて紹介した。
番組中に、家系図というものが何度も出てきた。競馬が趣味だった僕は、サラブレッドの血統表ならじっくり眺めたことがある。しかしそれを自分に置き換えてみたことはない。
僕にもたくさんの先祖がいて、その一人ひとりに名前があり、各々全く違う人生があったのだ。自分がそれら先祖を頂いて、家系図の末端に位置しているのだと思うと、なんだか不思議な気がしてならなかった。
VTRは、二回の放送分をちょうど六十分になるよう再編集されていた。講師がいないので解説もない。ふたたび訪れた職員がVTRを回収し、会釈して戻っていく。一時限めはこれで終わりらしい。
休憩時間、皆で話し合って、年末に決起集会を開くことになった。決起集会なんてなんだかものものしい呼び方だけれど、その呼び方に異議を唱える者はいなかった。
二時限め、扉を開いて現れたのは西野先生だった。最後の講義の担当が西野先生で、なんだかホッとした。先生はいつもと同じく僕たちを見回しながら「こんにちは」と朗らかに言って、教壇に上った。
「〈絆〉と聞いて、皆さんは何を思われるだろうか」
そう言って西野先生は、一人ひとりの顔を丹念に確認した。
「残念ながら諸君は、親子の絆というものを意識された事がないかもしれない。とはいっても、映画や小説の中ではしつこいほど使われる言葉であるからして、諸君も馴染みがないはずはあるまい」
西野先生は教壇から下りて、ゆっくりと我々の周りを歩き始める。
「絆と聞いておそらく諸君は、親しい者同士の情愛に満ちた結びつき、といったものをイメージされるのではなかろうか。確かに最近の辞書にはそういった意味も載っておろう。しかし、もともと絆という言葉にそういった意味はない。そもそも絆とは、牛や馬、あるいは犬や鷹などを繋ぐ綱のことである。つまり絆とは、繋ぎ止める──もっといえば、繋ぎ止め束縛するという、極めて一方的な意味の言葉である」
西野先生は教室の後ろの方に居て、我々の背中に向かって語り続ける。
「そう考えるならば、諸君が親との繋がり、つまり、絆を感じないのは、親の責任ということになる。親が絆をしっかりと掴んでいれば、親が絆を放さなければ、諸君は親とはぐれて、こんなところに迷い込んで来ることはなかったのだから」
しばらくの沈黙の後、ふたたび西野先生が歩き出した。ゆっくりと僕の傍らを通って、教壇に上り、我々の方を向いた。
「しかし、親を責めないでほしい」
西野先生は教卓の両端を手でぐっと握った。
「諸君の人格形成に大変重要だった二十一世紀の前半、この国にはすでに享楽が蔓延していた。諸君は時代が提供する夥しい娯楽の奔流にのまれた。親は必死で諸君を繋ぎ止めようとしたに違いない。絆を手放したわけではない、絆は断ち切れたのだ。そして諸君は、親を見失った」
西野先生はまっすぐ僕らを見据えたまま動こうとしない。重苦しい空気が停滞し続ける。
「帰省を目前にした諸君にこんなことを言うのは、たいへん心苦しいのだが……」
しばらくして西野先生が発した言葉は、空気をより一層重くするものだった。
「私は、諸君の親御さんの人となりについて詳しく知っているわけではない。従って、諸君の親御さんが諸君を暖かく迎えてくれるという保証を、この私が無責任にすることはできない……」
僕の前に座る咲良さんが顔を伏せる。
「これはあくまで傾向であるが、諸君らの様な親子関係の形成には、親の消極的な子供への関与が一因とされている。ここにいらっしゃる方々の親御さんの多くは、子供との接し方がよく分からなかったか、あるいは下手くそだった。情で子供を絆すことを苦手としていらっしゃる。諸君の親御さんの愛情表現は、非常に淡白で、分かりにくい表現なのかも知れない。あるいは恥ずかしがって表現しようとしなかったり、不器用で表現しきれていないのかも知れん。しかし、ちょっとした振る舞いやなんかに、必ず情が含まれているはず。注意深く観察し、なんとかそれを感じ取っていただきたい。その情に絆されてもらいたい。しっかりと絆を結び直してもらいたい。そう、絆は結び直せる。何度でも」
このあと西野先生は、普段の会話においてどのような話題が相応しいかその一例を挙げ、親と接する際の注意点について幾つか例を挙げた。出かける前には必ずひと声かけてからとか、テレビはなるべく消したままとか、そんな他愛もないことだ。最後の講義が終わりに近づいている。
「質問があれば受け付けましょう」
咲良さんが手を上げた。
「親のことを何て呼べばいいでしょうか?」
「ふむ。親を何と呼ぶか。それを決めるには、先ず憧れの親子関係を思い描く必要がある。諸君と親御さんの関係は、極めてブランクな状態に近い。これはある意味チャンスといえましょう。理想の親子関係を築くチャンスです。下の名前で呼ぶ人はあまりいないようですね。それでももし、友達同士のような間柄になりたいのでしたら、名前で呼ぶのもありかもしれません。しかしそれを望む親御さんが多いとは思えません。そうですねぇ、もし上流階級に憧れをお持ちなら、お父様、お母様。厳粛な家庭がお好みなら、父上、母上。これは時代劇がお好きな方にもお勧めかもしれませんね。それから、硬派な方でしたら、おやじ、おふくろ。甘えてみたいなら、パパ、ママ。しかしまあ、一般的にはやはり、お父さん、お母さんでしょう。お、は有っても無くてもかまいません。憶えておいて頂きたいのは、一度言った呼び方を変えることはかなり難しいということ。そして最初の呼び方が、その後の関係を大きく左右しかねないということです」
僕は、父上、母上、という呼び方に少し魅力を感じていた。畏まっていながらも、ちょっと冗談めかした雰囲気があり、比較的呼びやすいように感じた。
「一度くらい外食に誘ってみてください。嫌でも顔を付き合わせることになりますからね。ともすれば息苦しさを感じるかもしれませんが、適度な閉塞状況は必要といえましょう。特に、実家にまだ自分の部屋がある方は、必ずそういった場を設けて下さい。必ずです。自分の部屋に籠っていてはいけません。十回の講義を通して、皆さんお互いにずいぶん親睦を深められたのではないでしょうか。中には頻繁に連絡を取り合っておられる方々もいらっしゃることと存じます。しかし、帰省中の携帯端末でのやり取りは、ほどほどにしなければなりません。お互い励まし合うのは結構なことですが、携帯端末はあなたとご両親との絆を断った一因でもあるのです。そのことをお忘れなく」
西野先生は教壇から下りて、教室をゆっくりと歩いてまわった。一人一人に言葉をかけ、握手を交わす。そして教卓の前に立ち、短い締めの言葉を述べた。
「この講座で我々講師陣が諸君にどれだけの勇気を与えられたか定かではない。些かなりとも恐怖心を取り除き、親との絆を結び直す一助となれたとしたら幸いに思う。諸君の健闘を祈る」
西野先生は講義を終えた。
アパートに帰ると、真っ先に郵便ポストの中を検め、手紙の有無を確認した。
僕は両親へ宛てた手紙に、ここの住所を記しておいた。うちの両親は僕の電話番号もEアドレスも知らないので、手紙を送るしか僕と連絡を取る手段はない。
しかし、両親からの手紙は無かった。
当然だ。今朝投函したばかりなのだから。
どうにも電子メールの感覚が抜けなくて困る。何日もかけて戻ってくる返事にじれったさを感じてしまう。
この日を境に、毎日ポストを確認するようになった。平日は出勤時と帰宅時、休日はポストの前を通るたびに。
しかし翌週も、翌々週も、手紙は届かなかった。
そして、その後も手紙が届くことはなかった。
第6章 完
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