@shirayukiderera


近年急増している高層ビルの、空に突き抜けるような乱立。首を痛めるほどに高い。この下に交差する横断歩道で、会社員や子供連れの母親らが、陽射しに汗をぬぐいながら早足で通り過ぎる。なにもかもせわしない、ある都会のありふれた光景だった。

その群衆の中で、なにかに気づいた風でひとりの男が足を止めた。背後から来るベビーカーにぶつかりそうになって、ごく小さな声で謝ったのち、身をかがめて足元におちているものを拾い上げた。チラシ。今夜開催される夏祭りのチラシだった。男は背広に染み付いた汗をハンカチでぬぐいながら、しばしチラシを眺めていた。この祭りは、三年に一度開かれる、男が毎回たのしみにしている祭りだったが、今年は日付が例年と違っていた。まさか今日とは。男は、突然あらわれた仕事明けの光明を、ポケットに折りたたんでしまい込んだ。そして、群衆の流れに押されるように、また早足で歩き出した。



カオリは、おばあちゃん子だった。母親と祖母とカオリの三人ぐらしだったからであり、祖母も唯一の孫であるカオリにとてもよくした。そして、人付き合いが苦手なカオリは、小学校に行くのをいやがった。会話が苦手で、教えられたことが人並みにできなかった。押し花をつくる授業のとき、一人だけ学校に居残りをさせられて、泣きじゃくりながら家に帰った。会話が苦手なカオリだが、泣いて怒っているときは、明瞭に、矢継ぎ早に言葉を発した。

「どうして教えてくれないの。バカ」

「あなたは悪口だけは達者なのね」と、母親はいつもいらだち、同時に自分の娘の問題のある気質をどうにか解消しようと努めた。

祖母はニコニコとしてカオリを撫で、そして言うのだった。

「一緒に押し花つくろうか」

涙にまみれたカオリは、一時間後には満面に笑みをたたえて、美しい押し花を完成させていた。

「できたできた」と、カオリは言った。

カオリはこのようにして教わったことは、決して忘れないのだった。



男は殺人的な満員電車に揺られながら、祭りのことを考えた。神社の神主が御輿にのって、餅をばらまく。そういう祭りだ。夏に食べ物をばらまくなんて季節感が外れていて、おかしなものだ。なにか地元の神様のためのものだと聞いているが、今時神様なんて信じている人はいない。だから、神様なんて建前のもので、地元の名士がやりたいことをやってるんだろう。

ばらまかれる食べ物をキャッチするために、毎回そこそこの人数が訪れている。そのためこの時期になると、わずかにそわそわしだす者もいた。しかし、今年は。彼は考える。祭りの日付が変わっていた。さらに例年のような宣伝もない。なぜだ? 地元の名士の老人が毎回喧伝しているのに? 三年で何かあったのか? 刹那、巨大な高層ビル群が、彼の脳裏に浮かんだ。




他の例にもれず、カオリは夏休みが楽しかった。だれとも無理矢理に話さなくて良いからである。カオリは、家で、祖母に教えられた押し花やお絵かきをした。祖母はためこんでいたカレンダーをカオリに渡し、「これの裏に書いて御覧」と言った。カオリは鉛筆を不器用に握りしめて大きな紙に大きく絵を描きだした。一月、二月、とカレンダーの裏は瞬く間に埋まってゆき、祖母は昼寝をはじめていた。カオリは脇目を振らずに鉛筆を走らせた。

母親が怒鳴っている声で、カオリは我に返り、

祖母は目を覚ました。

「なんなのこの絵は」

鉛筆の濃く太い線で、女と男が抱き合っている姿が描かれていた。

カオリはきょとんとし、祖母は、わずかに顔を引きつらせたが、黙っている。

翌日、母親はカオリをカウンセリングへ連れて行った。

「どうして、この絵をかこうと思ったのかな」机に広げられている絵を見ながら温和な雰囲気の中年の女性は、油断のない目つきで尋ねた。

「ゆめにいつもでてきたから」

「何が夢に出てきたの?」

「おとこのひととおかあさんがハグしてるところ」

「いつも見る?」

「いつも見ている夢。おばあちゃんが、スケッチていうお絵かきをおしえてくれて、それで、お絵かきした」

「他に何か変わったものは見えるの?」

「おもち」

絵では、たしかに鉛筆で黒黒と、丸い形のものが降り注いでいた。



日が陰るころ、仕事を終わらせて電車に乗り込んだとき、胸ポケットに手をやり、男は思い出した。祭り。あわてて時計を見ると、午後六時。男はそわそわと手をすりあわせ、窓の外を見る。七時からの餅撒きに間に合うだろうか。それにしても、と男は考えていた。

本当に今日なんかにやって大丈夫なのか?

男は祭りの日付が異なっていることに、いいしれぬ不安を感じていた。

神社に向かうかれを、高層ビルの光が照らしていた。明かりが消えることもなくなった、夜の街である。



「それは夏祭りのゆめだね」カオリの祖母は団扇をぱたぱたやりながら言った。

「ここらじゃ有名な祭りだよ」祖母は語る。

「おもちをまくおまつりなの?」アイスをかじりながら、カオリは尋ねる。カウンセラーから話を聞いていた母親の形相から、夢の中の人物について触れるのは躊躇われているようだった。

「神様が三年に一度、お腹が空いてさみしくなるから、食べ物を撒いてみんなで拾って、賑やかにするんだよ。カオリちゃんが五歳の時にお祭りがあったから、丁度この時期だったねえ、そろそろ祭りがあるはずだよ」

「ふーん」ぺろり。

「でもヘンだねえ。知らない祭りがどうして夢に」団扇で仰ぐ手は止まり、祖母は眠そうにあくびをした。

母親は、三年前を思いだしていた。



男が神社についた頃、神主が御輿によじのぼっているところだった。例年よりもいくばくか少ないが、それでも地方の祭りにしては多数の

人々が集まっていた。まだ仄かに明るいが、ほとんど闇に沈みかけている時刻。餅が山積みにされて籠をしょいこんで、神主が御輿にかけられた梯子を登っている。

彼の目が、ある一点を捉えた。女。



そこで、彼に会った。彼は、わたしのことを忘れていた。



「覚えてないの?」彼女は言った。びっくりしている様子だった。

「覚えてない」彼は答える。その時だった。

「うわあ」神主が叫び声をあげた。梯子から脚をすべらせていた。「足らずの神様、お許しを」と声を挙げながら、落ちていく。

餅が宙に舞った。

「思い出した」彼は言った。

「ユキちゃんだね」

どーん、と鈍い音がして、悲鳴があちこちであがった。「前に一緒に、お祭りにきた」



カオリの母親、ユキは、涙をながしていた。あのとき、私は夫よりも、彼を選んでいた。カオリのことを夫のせいにして、あの祭りに逃げ込んだ。高校の時から好きだった、彼に会うために。



二人は抱き合っていた。神主が落ちてからも、なぜか降り注ぎ続ける餅の中で、二人は抱き合っていた。だが、夫に対しての未練のため、ユキは言うべき言葉が見つからずにいた。

「来年も、来てね」とだけユキが言い、二人は自然に離れた。

男は、餅を拾い、かじった。

「来年も、来るよ」



カオリが駆け寄ってきて言った。

「わたし、あの夢の中のパパにあいたい」

ユキは、大切にしまっておいた、カチカチに固まった餅を取り出して言った。

「いこうか、パパに会いに」

餅には、綺麗な歯形がついている。

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