モスキート
@shirayukiderera
モスキート
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日本の首都の中心街から少し離れた町にある、ごく普通の小学校である。黒ずんだ外壁に四階建てだ。校庭では五年生がどこか陰りある表情で活き活きと体育の授業を受けている。生徒たちは担任教師の機嫌をとるように活き活きとした様子を演じてみせているのだ。担任教師の無言かつ笑顔の圧力が生徒たちの顔に陰りを作っている。しかし、顔の陰りの主たる理由は次の時間、つまり四校時目での音楽の時間への憂鬱によるものであるらしい。三週間後に開かれる全国音楽会へ向けた練習を行うのである。生徒たちはやがて来る四校時目の始まりを少しでも引き延ばせないかと、この重苦しい体育の授業を時計と担任教師の顔色を交互に見ながら過ごしている。延々とボールを蹴り続けて……。
そして担任教師による授業終了の合図。チャイムは鳴らない。チャイムの音程が耳につく外部のクレーマーによってある日から音は消えたのである。生徒たちはその時同時に何か重要なものを失ったような気がした。
体育の授業を終えた生徒たちは暗澹としてのろのろと着替える。皆は他愛ない話をして笑い合っているが、口の端には深刻に緊迫した気持ちが表れている。ここで、ある生徒同士が話し合っているのが目につく。
「あいつは頭がおかしいよ。俺らが小学生で知恵が無いと分かってあんな仕打ちをするんだ。担任でさえ何も言えないんだから困るな」背の高いカマタが言う。
「そのとおりだ。俺はもうなやみになやんで親にチクったら分かってくれたけど、嫌な親だと思われるのがやだから何も言えないってさ。何のために親がいるんだか。そろそろ我慢ならないな」眼鏡のヤマモトが言う。その後彼らは何らかの相談をして大きくうなずき合った。目が輝いている。
彼らは親友同士、普段は非常に従順な生徒で担任にもかわいがれているのだが、それはいわば「昭和な」考えを持っている大人の扱い方を理解しているに過ぎない。彼ら二人は小学校高学年にしてすでにマイケル・ジャクソンやら安部公房やらヒッチコックやらを好んでおり、周りの生徒たちより幾らか知恵があった。彼らが珍しく反抗的に「あいつ」と呼んでいるのは音楽会の練習のために来た女性の外部指導者、ミサワである。
さて、四校時目が始まる直前になると、五年生全クラスがぞろぞろと体育館に向かう。各クラスの担任も無表情でついて行く。体育館につくと、ミサワがいる。生徒たちの顔が一瞬にして曇る。
「なあにをぐずぐずしているのっ」ミサワの声が体育館中に反響する。カマタが顔をしかめヤマモトがうなり声を小さくあげた。
「はやくひな壇に上がるのよっ」五十代とは思えないミサワの声は高く高く響き、音に敏感な生徒は本能的に耳を塞ぐほどだ。また彼女の叫び声を聞くのはなんとしても避けたく、生徒たちは急いでひな壇に登る。ほとんど間髪を入れずにミサワが、
「では最初のパート、ソプラノからっ」と言って、指揮をはじめる。ひな壇の右側に位置するソプラノの生徒たちは引きつった顔で歌いはじめる。するとほとんど進まないうちにミサワが
「何回言ったら分かるの、ずれている人がいるわ。それに、ここはクレッシェンドでメゾフォルテまであげるのよっ。何故出来ないのっ。そこの二段目のあなた。そうよあなたが出来ていないのよ。あなたが出来るまでやるわ。あなたが出来ないと曲の魂が抜けるの。皆完璧に歌えないと魂が入らないのっ」とカマタを指さして轟音を響かせる。ミサワが嫌われる所以の第一はここにある。すなわち間違いをしている生徒を晒しあげ、直るまで一人歌わせるのである。だが彼女はこのやり方でたいへんな実績をあげていたので、自信を持っている。カマタはこうした精神的苦痛を与える指導はひどく嫌いであり、いままでの同様な行動も相まって遂に彼を怒らせた。体がわずかに震えている。
生徒たちのミサワへの恐怖はそればかりではない。一人での歌が上手くいかないと……。
「ちょっとあなた」とミサワが怒鳴ってひな壇に登り、カマタをひっつかんで強引に引きずり下ろした。カマタはヤマモトを一瞥する。カマタを気の毒そうに見つめていた全ての目が見開き、そしてヤマモトを除いた全ての目がカマタから視線をそらす。全ての音が反響して皆の耳に飛び込む。教師らは伏し目で床の白い線やらをみつめている。ヤマモトの目がピクリと動く。
一瞬の静寂。カマタがミサワを、ミサワがカマタをにらむまでの緊迫した静寂。
静寂が破られる。ミサワの叫び。
「何であなたはいつもずれているのっ。練習が足りないのよっ。私の言うとおりにすれば出来るの。あなたは聞いていないのよっ。耳の穴が棒かなにかを突っ込んで開けられた節穴なのよ。それから声も。酷い声よ。薄汚い猿の方がましな声をだすわ。全国音楽会まで日が無いの。猿なみの声のあなたがみんなの足をひっぱってるの。消えるか一人で歌うかしなさい。消えるか一人で歌うかしなさいっ」反響。反響。ミサワの声はまるで生徒一人一人に向けられたように各人の耳に入る。教師たちはミサワに視線を向けたが、口を駱駝のように無意味に動かすだけでなにもしない。カマタの担任の教師などは床に座りこみ白線を撫でている。何人かの女子生徒は耳を塞いでしくしく泣いている。ひな壇にいる者ではヤマモトだけがじっとミサワとカマタを凝視している。ヤマモトはこのとき、ヒッチコックの「鳥」に出てくる男の台詞が頭に浮かんだ。
「世界の終わりだ」
この場でのカマタにおけるミサワ対処方法は全生徒が知っている。意欲を見せる。そして謝る。口答えはしない。しかしカマタは声を震わせてこう言ったのだ。
「酷い侮辱です。あなたが人に物を教えることが信じられない。僕の声は猿なみのようですが、僕にはあなたの頭が猿なみに思えます」
教師たちが一斉に吃驚してカマタを見たのとほぼ同時に、激しい音がする。
パチン
カマタは右頬を押さえてミサワを見てニヤリとし、こう言った。
「さっきのあなたの発言は、ヤマモトくんが録音しておいてくれました。」カマタの脳裏にも、あの台詞が浮かぶ。
「世界の終わりだ」
ヤマモトがひな壇で立ち上がり、カマタ同様ニヤリとして口笛を吹いた。ミサワは後ろに尻餅をついてヤマモトを見る。彼女は落胆したようにのろのろと立ち上がり、深呼吸をして言った。
「私が狂っていると思っているでしょうね」
ミサワは次の日から来なくなった。ヤマモトやカマタの保護者を通じた激しい抗議の結果である。音楽会の指導は若く温厚な音楽教師が行うことになった。生徒たちは雀躍した。担任らは変わらずに白線を眺めていた。
やがてカマタやヤマモトを含めた生徒たちは気づく。歌が乱れていることに。新音楽教師や担任らは何事も無かったように生徒たちを褒めたが、生徒たち自身は気づいている。合唱にはたしかに魂が入っていない。大切なものが欠落している。それはチャイムが消えたときの気持ちに似ていた。
全国音楽会まで二週間、一週間……。
全国音楽会当日、喝采を浴びながらステージに登り、ニコニコ顔の音楽教師の指揮のもと、彼らは歌った。
ついに自由は彼らのものだ
彼ら空で恋をして
雲を彼らの臥所とする
ついに自由は彼らのものだ
ついに自由は彼らのものだ
太陽を東の壁にかけ
海が夜明けの食堂だ
ついに自由は彼らのものだ
ついに自由は彼らのものだ
太陽を西の窓にかけ
海が日暮れの舞踏室だ
ついに自由は彼らのものだ
ついに自由は彼らのものだ
彼ら自身が彼らの故郷
彼ら自身が彼らの墳墓
ついに自由は彼らのものだ
……。
暗澹とした顔だった。彼らの歌が終わったとき、まばらな拍手がおこり、観客は彼らの歌を忘れた。
その時である。カマタは観客席の真ん中にミサワを見つけたのだ。ミサワはカマタをまっすぐ見つめてニコリと笑った。カマタもニコリと笑いかけた。
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