思い出は苦しく、時に温かい

『サラ……サラ!』


 どこからか、リューの呼ぶ声がした。そこで初めて、サラは自分が呆然としていたことに気付いた。


「リュー。いたんだね」


 サラは落ち着いていた。否、思考を放棄している、といった方が正しいのかもしれない。

 群衆に流されるまま、サラはあのときの広場にやってきていた。

 結局、未来は変わらなかった。


 サラは止めようと様々な行動を起こした。しかしそれがすべて無駄だったのだと、この景色を眺めて痛感する。


「エデンは、この未来を知ってて私に見せたの?」


 群衆の中にいつつも、半透明な姿で傍観を貫くエデンに問うた。

 終始眺めていただけの彼が、ようやく口を開く。


『そうだね。アリア=イースターはここで果てる運命だった』

「だったら、なんでこんなことをしたの」


 サラは静かに促した。

 低く小さな声とは裏腹に、抑えきれずに今にも爆発してしまいそうな怒りを潜めている。

 その怒りを受けてなお、エデンは笑って答える。


『未来にいくつもの道はあれど、結果はそう変わらない。もっとも、今のサラが何もしない限りはね』

「私が?」

『君は知ってるはずだよ。そして君の相棒はもっとよく知っている。アリアを助けるもっとも簡単な方法をね』


 ……知っている。今までは考えないようにしていた、たった一つの方法がある。

 何度もリューに囁かれ、サラが諭していた手段。

 しかしそれは、彼女にとってもっとも愚かだと思っているものでもある。


「そんなことをしても、何の意味も」

『それでアリアは生き延びることができる。それ以上の意味はあるのかい?』


 じわじわとエデンの言葉が頭から離れなくなっていく。

 サラが語っているのはあくまで理想。対してエデンは、もっとも現実的なものを用意している。


 アリアの教えを守りたいのか。アリア自身を助けたいのか。そんな葛藤がせめぎ合って、サラには未だそれに返す言葉はなかった。


「……私は」


 聞こえなかったはずの群衆の声が、空っぽになりかけているサラの頭を侵す。


「しかし隣村の薬屋が魔法使いだったとは。薬と称して毒を飲ませてたのか?」

「馬車に轢かれた女の子に魔法を使ったんだってよ。今更人を救おうなんて」

「ああ恐ろしい。あの村ごと焼き払いたいわ」


 十字架に群がる人々を、暗い瞳が見据える。

 ゆらりと、右腕を伸ばす。


『殺せ』


 リューの声が聞こえる。いつもは反論していたが、今ばかりはサラの背中を強く押した。


 ああ、殺してしまおう。

 一息に、一思いに。

 そうすれば、アリアを……


「アリア、は……」


 ふと、十字架を見上げる。

 あのときと同じ、優しく穏やかな笑みだった。その裏に潜む無念や悲しみを覆い隠す、そんな強がりの笑みを。


 サラの目から、涙が溢れた。


 もう枯れたと思っていた。感覚すら忘れていた涙が溢れて、心臓が捻じ曲がったように痛みに、声にならない悲鳴を飲み込む。


「ごめん、ごめんね。アリア……」


 燃えていく様を、サラは潤んだ瞳で見つめる。

 何度も、何度も謝りながら、その場に泣き崩れた。


 押し殺していた感情が、涙と共に溢れて止まない。

 目の前で大切な人が殺された憎悪。失った喪失感と、底知れぬ孤独。


 それらを抱えてなお噛み殺すことができたのも、すべて彼女と過ごしてきた時間が、与えてもらったものすべてがあったおかげだ。


『何故、助けないんだい?』


 喜ぶでもなく、怒るでもなく、エデンは淡々とそう問うた。

 この場の誰もが、正解を思い描いていた。あとはサラがそれを起こすだけだったが、彼女はやらなかった。

 エデンも、リューでさえもその疑問を抱いた。


 涙を拭い、サラはゆらりと立ち上がる。

 半透明な者でも、彼女を取り囲む群衆でもなく、真っ直ぐに燃え盛る炎に焦点を合わせた。


「私は、アリアをなにも知らない。どうしてそんなに優しいのか、どうやったらそんなに優しくなれるのか。……私は、アリアのようになりたい。これは誰かのためじゃなくて、私がそうしたいと思うから」


 炎を見てもなお、サラの心は痛まない。

 否、その痛みを受けてなお、希望を見据えられる。


 もう、アリア=イースターはこの世にはいない。たとえ夢の中の世界であったとしても、もう二度と会うことはできない。

 だから前を向くしかないのだと、割り切った。


「それに、力づくで助けたりしたら、最初こそ感謝してくれるけど、最後には怒りそうだから。……アリアに怒られるのは、とても怖いからね」

『だそうだ。我が主はどこまでも愚かで、しかし見ていて飽きない』


 諦め交じりの乾いた笑いを零すリュー。対して、エデンは眉を潜めたまま黙りこくる。

 あったかもしれない未来を差し出した。最愛の人を救う方法すら教えた。だがそれを知ってなお拒絶するサラが、納得できないのだろう。


「私が生きるのは、アリアの願いを叶えるため。恩を返すため。でも、どうやって生きていくかは私が決めるから」


 まだアリアのような優しい笑顔は作れない。しかし、今のサラにできる最高の笑顔を作ってみせた。

 ぎこちなさの残る、しかして内に潜む暗さを感じさせない、温かな笑み。


 同時に濃い雲のかかっていた空は真っ白に染まり、街も群衆も、炎すらも白い世界に吸い込まれていく。

 眩しいのか、はたまたただの白なのか。サラの目は眩んで、ふわりと身体が浮かんだ感覚が走った。


 ――


 ――――


 …………空が見える。白く塗り潰された、柔らかな光が降り注いでいる。


 ここはどこなのだろう。身体は地面に張り付いたように重く、半身には冷たくも熱くもない、水に浸かっている感覚がある。

 頭だけは陸にあるようで、ようやく上半身を起こす。


「これは……?」

「生命の泉。あらゆる怪我や病を治す万能の水さ。もっとも、僕の作ったこの世界でしか効果はないけれど」


 首だけ振り向くと、サラの背後にエデンは立っていた。

 表情は変わらずも、どこか不服そうな雰囲気を醸し出している。

 サラは微笑を浮かべ、問うた。


「なんだか、とっても身体が重いんだけれど」

「記憶の再現と、世界の構築に少し力を貸してもらったからね。魔力を補填するためにも、この泉に入ってもらったわけだ」


 なるほど、と水を手で掬う。

 ただの水というにはあまりに濃密なマナが詰まっており、ものの数分で回復してしまいそうだ。

 そうぼんやりと眺めていると、エデンが続けた。


「すまない。僕はてっきり、君がアリアに囚われた可哀想な子だと思っていた。けれど、あの世界で見てわかった。君はとっくに、サラ=メルティアという人間になっていたんだね」

「確かに、私はまだ囚われてるかもね。今だって、久しぶりにアリアを見て寂しくなった。でも、もういないから」


 まだ15年という短い人生の中で、そのほとんどを彼女と過ごしてきた。

 そう簡単に忘れることもできない。


「私は旅が楽しい。それに今はリューもいるから、寂しくはない」


 胸元に戻ってきた水晶の首飾りを撫でる。

 リューはなにかを返すでもなく、いつものような減らず口もない。

 代わりに、不満そうに答える。


「我はお前の暇つぶし道具ではない。我がお前を利用しているのだ」

「ありがとう。これからもよろしくね」


 立ち上がって泉から飛び出し、エデンの正面に立つ。

 そして、深々と頭を下げた。


「エデンもありがとう。おかげで、前を向いて歩けるよ」

「……君の旅路には、まだ多くの困難が立ちはだかるだろう。だがそれと同じかそれ以上に、たくさんの幸福が君を待っている。未来を視る魔法使いが断言しよう」


 エデンが手を振ると、サラの身体はふわりと浮かび、まっさらな空に吸い込まれていく。

 元居た世界に帰るのだと、サラは直感した。地面に立つエデンに、手を振った。


「また来るよ」

「期待しているよ。最後のメイガス」


 ――次に視界を覆ったのは、大地に芽吹く緑の草花。

 青々とした空には、小さな白い雲が点々と飛び、照らしつける太陽がサラの目を眩ませる。

 色鮮やかな世界は刺激的で、やはり懐かしい風景だった。


『よかったのか?』


 曖昧なリューの質問に、サラは首を傾げる。


「なんのこと?」

『ほかにも聞きたいことがあったんじゃないか? 魔女狩りだとか、魔法使いの話だとか』

「……忘れてた」

『おい』


 あまりにも多くのことが起こり、最初に聞こうとしていたことがすっかり頭から抜けていた。

 言われるまで完全に忘れていたことに、サラは苦笑した。


「でも、いいよ。今は知らなくていい。自分の足で歩いて、自分の目で歩きたい。私は今、旅がしたい」


 広大すぎる草原は、距離感を奪うほどに果てしなく続いている。当然行く先も決まっていない。

 それでも、今のサラには杞憂などない。


 明日は何をしよう。そんな漠然とした思考で、また歩き出す。

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