壱:凪ぎの海に 渡り鳥:Ⅰ
その日も、海は凪いでいた。
そこではない遠くではどうなのか知らなかったが、少なくとも、海上基地で休息中のアンジェラを取り囲む海は、優しい潮風の通行を許すくらいには、凪いでいた。
「……」
彼女は本を読んでいた。表紙には『たとえ孤独に沈んでも』と印字してある。
それは、先日に得た稼ぎを使ってマーケットから入手した小説で、その本の著者は、彼女のお気に入りだった。
ある閉鎖的な国に拉致された少女が主人公で、故郷に帰るために、あの手この手で奮闘するという、暗いながらも常に一縷の希望を残しているような物語。
その中で少女は、襲い掛かる困難にもめげず、時に友人たちの助力を得ながらも立ち向かい、目標に向かって突き進んでいく。そして最後には、見事に脱出を果たすものの、その過程で見てきた数々の出来事や犠牲を思い、独り涙を流す、と言う締めくくりになっている。
そこまで読み終わり、アンジェラは、ほうと息を吐く動作と共に本を閉じた。
「うん。これも面白かった」
「何が面白かったの?」
そんな彼女の背後から、相棒であるアナトリアが声を掛けた。
アンジェラが声に反応して振り向くと、そこには軍用の服に身を包んだ彼女が立っており、手には、飲み物の入った金属製の保温コップを二つ持っていた。
「ん、この前買った本。さっき読み終わった」
「え?もう?早くない?届いてからまだ三日だよ?」
コップを置き、対面位置に座ったアナトリアが、これでもかと疑問符を並べつつ苦笑する。
「普通だよ。それに、面白いものはどんどん読みたくなるから」
そんな彼女に、アンジェラはさも当然というような口調で答える。そして本を脇に置き、コップを手に取った。中身を軽く確認してから口に運ぶ。
「ふぅん?ねえ、その本って、どんなお話なの?」
脇に除けられた本の表紙をちらと見やってから、微笑を浮かべてアナトリアが尋ねる。
アンジェラは、口の中に在る飲み物を飲み込んでからコップを置くと、その本を手に取った。
「閉鎖的な風土の国に連れ去られた少女が、友達の力を借りながら脱出する話。痛快な部分もあるけど、大筋は人間ドラマかな」
「人間ドラマ、ねぇ……。アンジーって、最近そう言う本ばかり読んでるよね?最初は専門書とか、学術書とかだったのに」
少し過去の事を思い出しながら、アナトリアは笑った。
「うん。興味があるんだ。こういう心情とか友情とかの、そう“絆”とか。この本も、そう言う感じ……」
しかし、そこまでは楽しそうに話していたアンジェラだったが、急に、声の調子を落として黙ってしまった。表紙を隠すように本を置き、再びコップの飲料を口に運ぶ。
「どうしたの?」
「……いや、ちょっとね」
その問いかけに彼女は頷くと、コップをテーブルの上に置いた。
「私達には、そう言う人が居てくれるのかなって。誰かを助けて、その先で、私のために泣いてくれるような人が、居るのかなってさ」
本に目を向け、どうしようもなく諦観した微笑を浮かべながら、アンジェラは問いかけに答える。
「うん。これは無意味な疑問だよ。死ぬまで死ねない私に、意味を考えたらダメだ、きっとね」
「アンジー……」
「ああ、そうだった。この後、仕事だよね?すぐに準備するよ」
彼女は本を懐にしまうと、いそいそと立ち上がる。
「あ……」
そして、いつもの表情を残して立ち去る彼女の背を、アナトリアは何も言えずに見送るのだった。
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