(3)
「
ヨタロの口から出てきたその名前に、わたしはうろたえた。
ウソを言うか、真実を話すか迷った末に、わたしは「……うん」とだけ答える。
ヨタロの顔は、心なしかないつもよりけわしいものに見えた。それはわたしの錯覚かもしれなかったけれども。
「どういう知り合いなの?」
いつもなら、ここで別の話題を口にするだろうヨタロは、珍しくわたしが突っ込んで欲しくない部分に言及する。
わたしはますますまごついて、舌が急に重くなったような気になった。
体からさーっと血が引いて行くと同時に、背中に冷や汗が浮くような感覚に襲われる。
「どういう……」
そうは問われても、実際のところ自分でもうまく説明できない、というのが本当のところだった。しかしそれを口にすれば言い訳じみている気がして、わたしはどう表現すればいいのか、袋小路にでも入ったような気分になる。
「田口さん、葉月のことについて聞いて回っているみたい」
ヨタロは動揺するわたしを見てもなんとも思っていない風だった。
それがわたしを不安にさせると同時に、ちくちくと胸を痛ませた。
なんとなく、ヨタロはわたしの味方でいるような気がしていたから。だからわたしの言いたくないことは聞かない。そんな風に思い込んでいた。
単なる身勝手な思い込みでしかないのに、なんだかわたしはヨタロに裏切られたような気になった。
「ヨタロはなんて答えたの?」
口から出たのは自分でもびっくりするくらい、つっけんどんな響きを伴っていて、わたしは密かにうろたえる。
違う。こんな風にヨタロを責めたいわけじゃないのに。そうは思っても、一度口に出してしまった言葉はもとには戻らない。
うまく他人と関わりが持てない。そんな自分がひどくイヤになった。
「別に。あたりさわりのないことを言っておいたよ」
けれどもヨタロはそんなわたしのひどい態度も気にはならないようだった。
それはヨタロが「大人」だからなのか、それともそういうことには鈍感だからなのかは、わたしにはわからなかった。
「……ふうん。そのひとはなにについて聞いて回ってたの?」
わたしは先ほどの発言に含まれたものを流されたことで、ちょっとだけホッとした。
そしてよせばいいのに、「田口さん」についてヨタロに聞いてしまう。
ヤブヘビだってことはわかっていた。それでも、「田口さん」がいったいどんなことをヨタロに聞いたのか、好奇心が勝ってしまったのだ。
「ふだんはどんな様子かとか……。ねえ、知り合いなの?」
わたしはなんだかヨタロに責められているような気になった。
ヨタロはわたしに他人に話しにくいだろう家庭の事情を話してくれた。
けれども、わたしはだんまりだ。親が離婚したことも、どうして離婚したのかも、ヨタロは知らない。
その事実が、わたしの心をちくちくと責めさいなむ。
「おれには話したくない?」
「……そういうわけじゃない」
「でも、葉月はすごくイヤそうだ」
「なのに聞くんだ」
今、わたし、すっごくイヤな子だ。
そう思うと、気分が海の底まで沈んで行くような感じだった。
けれどもどうしてもこの調子を崩せない。相手に対して無駄にバリアーを張っているかのような、かたくなな態度を。
「葉月、なやんでるでしょ」
心臓がドキリと跳ねた。
ヨタロはじっとわたしの目を見ていた。
わたしはヨタロのミルクティーみたいな優しい色の目を見ていられなくて、なんでもない風を装って背景の木々に目を向ける。瑞々しい若葉の色が、わたしにはいつもと違って見えた。
「言ったら楽になれるかもよ」
「イヤだよ」
「なんで?」
「なんで、ヨタロはそんなこと聞くの?」
「葉月のことが知りたいから、かな」
「知ってどうするの?」
「……別に、葉月のことを責めたいわけじゃないよ」
ヨタロのこと――つまり、人格とか――を信じていないわけじゃない。むしろ今やお父さんよりも信頼の置ける相手だと思っているくらいだ。
でも、怖いのだ。万が一にもヨタロに失望されたりするのが、わたしには怖かった。
だって、こんなにも心を許せる相手は今まで出会ったことがなかったから。
そこまで思ったところで、その「心を許せる相手」に秘密を明かせない自分が、なんだかひどく汚いもののように思えた。
「葉月がどんな人間でも、おれはそれでいいよ」
「急にどうしたの?」
「……あのね、田口さんから本当はいろいろ聞いたんだ」
わたしはいよいよヨタロの顔を見れなくなった。
自然と、顔はうつむいて、膝小僧が視界の中心を陣取った。
じわじわと絶望感、みたいなものがわたしの心臓からあふれてくるようだった。
「どんなこと?」
「……呪われてるって」
「……それ、聞いてどう思った?」
「……別に。ただ、それで葉月が苦しんでるんだとしたら、イヤだなって思った」
「……そう」
わたしは、観念した。
わたしは呪われている。
生まれる前からその運命は決まっていたと、お母さんは強く信じていた。
なんでもわたしがお母さんのお腹の中にいるときに、よく当たるという占い師に言われたから、らしい。
なんてひどいひとなんだろうとわたしは思ったけれど、その占い師のひとにとっては、告げないことのほうがもっとひどいことだったのかもしれない。
わたしは呪われている。それは、たぶん、本当だ。
なにに呪われているのかはわからない。
ただ、今までに出会った「霊能力者」とかいうウサンクサイひとたちは、みんなそれは「強い」のだと言っていた。
だから、それを祓うのは無理らしい。
けれどもそんなことを言ってお金を取らなかったひとはほんの少しで、その他の多くのひとは詐欺師そのものだった。
そこにはお母さんが信じてしまった宗教の教祖さまってやつも、含まれている。
そしてそいつらのせいでわたしの家は壊れてしまった。
――いや、本当は、わたしのせいだって、わかってる。
だからわたしはお父さんがお母さんと離婚することになにも言わなかったし、聞きもしなかった。
そしてそのことを未だに言えないのは、お父さんに捨てられたくないから。
でも、もう、こんな田舎の家に預ける時点で、お父さんはわたしに嫌気が差しているのかもしれなかった。
わたしは呪われている。
それはどこへ行ってもやってくる。
段々と家に近づいてきて、家の周りに足跡をたくさん残して行く。
それはたくさんいるらしい。だから、強くて、ちょっとやそっとのことでは祓えないものなんだそうだ。
次第にそれは家の中に入り込んで、たくさんの足跡を残す。砂利と泥にまみれた足跡を残して行く。足を引きずっているような跡もある。
そうやって家の中をめちゃくちゃにされて、わたしたちはそれがやってきたということを知る。
そうしたら次は、逃げ出すしかない。
そうやってわたしたち家族は住居を転々と変えていった。
それを放置したらどうなるのかは、わからない。
ただろくでもないことになるだろうことは、なんとなくわかっている。
わたしはそれらを見てしまったから。刀や包丁を持つ手を、悪意ある姿を見てしまったから。
お母さんは夢にも見ていたらしい。くわしくは知らないけれど、それはお母さんにとっては悪夢そのものだったらしい。
だから、お母さんはすがるものを求めてしまった。弱った心を休める場所を、求めてしまった。
だから、わたしはお母さんを責められない。弱いお母さんを恨みながら、その何倍もわたし自身を呪っている。
わたしは呪われている。
「霊能力者」を名乗る田口さんはそう言ってわたしが居候している親戚の家にやってきた。
田口さんはわたしに憑いているものを祓える方法が「なくもない」と言った。
親戚のひとは、田口さんのことを怪しんでいたが、田口さんはお父さんに頼まれてやってきたのだと言う。
足跡は、すでに近くまで来ている。
家からそう遠くはない農道に、無数の足跡が残されていたのを、親戚のひとが見つけていた。
じきにそれらは家の周りを包囲して、次に家の中に入り込んでくる。
わたしがこの村にいられるのも、あとわずかのことだ。
「イヤだよそんなの」
ヨタロがめずらしい声を上げた。弱々しくって、泣きそうな、そんな声だ。
でも、わたしが出した声も、似たようなものだった。
「わたしだってイヤだよ。……でも、どうしようもないんだよ。足跡がくる。足跡がきたら逃げなきゃいけない。……そう決まってる」
「お祓いを受けなよ。田口さんなら、どうにかできるかもしれない」
「できっこないよ。霊能力者なんて、ウソツキばっかりだもん」
「でも、受けてみないとわからないよ。次の手を考えるのは、それからでもおそくはない。……おれは、葉月と離れたくない」
「……わたしだって……」
わたしだって、ヨタロとは離れたくなかった。
できることならずっとここにいて、ヨタロといっしょになにもかも忘れて遊んでいたい。
けれども、それはできない決まりなのだ。わたしが生まれる前から、たぶんそれは決められていた。だから、わたしにはどうしようもできない。
……でも、もしもその決まりを破れるのなら?
ヨタロの言葉に、わたしの心は揺れ動いた。
「お父さんに頼まれてきたってことは、お父さんはなにかしら、田口さんのことを信用できると思ったんじゃないかな」
「……そうかな」
「怖いなら、おれも葉月といっしょにいる。……葉月といっしょにお祓い、受けるよ」
ヨタロの手が、わたしの手に重ねられた。
ヨタロの手は冷たくて、緊張しているのだということが伝わってきた。
このときにわたしは、ヨタロもわたしと同じ気持ちなのだと、わかった。
「……わたし、ヨタロといっしょにいたい」
「うん……」
「……お祓い、受けるよ」
ヨタロの指に力が入る。冷たいヨタロの手が、ぎゅっとわたしの手をにぎった。
膝小僧から視線を上げて、ヨタロを見る。
ヨタロは、微笑んでいた。
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