第42話 父の想い
厳かな書斎は整列した本棚の群れに囲まれ、それらが日差しを浴びないように設計された窓を背に男は筆を動かしていた。
時折揺れる幅の広い肩には筋肉がへばりつき、短めの髪と威厳を示す髭は背景の海と空の青さを裏切るような黄朽葉色を湛える。
斜め後ろに静かに佇む人相の悪い初老の執事は、中肉中背の身体をピクリとも動かさずに
「旦那様、少しご休憩なさってはいかがでしょう」
「……ああ、そうだな」
そう答えると男は筋肉質な手を湯飲みの取っ手に伸ばし、口元に近づけながら一つ息をついた。
冷めきった茶は器すら熱を失い、気怠い脳味噌を覚醒させるにはちょうどいい。
誰にともなく弁解して、男は陶器の湯飲みを
「お代わりをお持ちいたします」
「いやいい。……それより」
歩き出そうとする執事を止め、ボルボ・マニセランは声を潜めた。
鷹のような鋭い目には怪しい光が差している。
「うまくいきそうか」
主語さえすっ飛ばした質問だが、執事は狼狽えずに口を開く。
「はい、既に罠は仕掛けてございます。問題は彼奴らがそこに辿り着けるほど有能かというところですが……」
「そうでないに越したことはないのだ、保険だと思えばよかろう。あとはあの娘が本当にジャルガの嫁となれば完璧なんだがな」
腕を組み唸るボルボの眉間の皺は深い。
しかし「あれは商才には恵まれたが、男としてはな……」と息子を案じる彼の心理は、比較的穏やかであった。
今の所カムトが『身内には懐が広い』という主人の評価を変える必要性を感じたことはない。
「ハル様に関してですが、仰せの通りできる限りのおもてなしをさせていただいております。ですがご本人は豪奢なものに抵抗を感じていらっしゃるらしく、お着物もタグル様がお召しになられず処分するようにと仰ったものの中からお選びになったそうでございます」
「……それは本人の意思か?」
「はい、最初は予備の侍女服をご所望になったとか。さすがにそれは難しいとお伝えしたとのことですが、元々一般庶民と似たような暮らしをなさっておいででしたらかなり常識的なお考えをお持ちの方と存じます」
途端に黙り込む辺境伯。
機嫌が悪い訳ではなく、ただ単に考えを巡らせているだけである。
それを当然理解しているカムトは飲みかけの湯飲みに静かに「"
ボルボは再び湯気を上げ始めた茶に視線だけ送る。
スーパーコンピューターのような脳がしばらくそうして誰にも分からない結論を探ってから、彼はふっと眉の筋肉を緩めた。
「なあカムト」
「はい、何でございましょう」
「あいつは……ネスカはまた目を覚ますだろうか」
それは言うなれば深海の底のような、はたまた森林の最奥のような。
眠り姫の呪いが解けるのを待ち続ける男の横顔は、長年連れ添った執事にはどこか年相応にくたびれて見えた。
「……ハル様なら、あるいは」
絞り出した答えは希望的観測に過ぎない。
しかしその願いは二人の中で重なり、静まり返った空気に溶けていく。
きっと訪れる未来に想いを馳せながら、ボルボはまた湯飲みを持ち上げた。
「……そういえば、明日は青髪の誕生日だったな」
「そうでございますね」
「明日で18か」
「月日が経つのは早いものでございます」
ボルボは娘のことを名前では呼ばない。
それは彼女の存在を認めていないことの表れであり、そうでなければならなかった。
本当に娘を取るに足らないものとして捉えているならば、明日が一体何の日かなど記憶の片隅にもないはずなのだ。
それは遠ざけ続けた娘には伝わることのない本音の裏返しでもあることを、本人たちは未だに分かっていない。
全く世話の焼けるお方だ、とカムトは目つきの悪い目をほんの少し細めた。
幼い時から仕えていた男が無意識に見せた親の顔は切なく、痛んだ胸に緩くなる涙腺は自分の年齢をまざまざと感じさせる。
どうして素直になれないのか。
理由を知っているにもかかわらず、影の薄い執事は下唇を噛み締めると外からかけられた声の主を招き入れに扉の元へと向かった。
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