閑話1 ルノイとギーナ

 大通りから細道に入り、二つ先の角を左に曲がりさらに路地裏へと進むと、看板も窓もない魔術屋『鶏足の小屋』が見えてくる。

 小路に人通りはなく、時折遠くで大きな笑い声が聞こえるほどで、潮の香りをやんわりと拒んだような風の運びが迷い込んだ者を撫でていく。


 先ほど解いた布を無意識に右手でこねくり回し、ふと気づいて腰紐に挟んだ。

 狭い道を固める長方形の石の群れを踏み歩くと、伸びた前髪が視界上方を遮る。


 やっと止まった自分の足音がどこかでこだまするのを感じながら、ルノイは見慣れた木の扉に手をかけた。




 ルノイがこの国にやってきたのは、彼が八つの時だった。


 13年前、メックラコンリ共和国では欲深な政治家たちの搾取に耐えきれなくなった過激派の若者集団が暴動を起こし、それに触発された人々が国内各地で蜂起、規模は拡大を続けて紛争になった。

 両親や祖父母は巻き込まれて命を落とし、混乱の最中に唯一生き残った弟とははぐれてしまった。


 ルノイは同じ髪色の弟を探し続け、その後半年かけて第二次亡命船に乗せられて国を出たという可能性に辿り着いた。

 船はイーリエシア王国の港街マニセリルに直行するもので、彼は弟を追おうと僅かな期待を胸に、人混みを掻き分けて亡命船にこっそり忍び込んだ。

 自分の防災手形はいつの間にかなくしてしまい、それがなければ本来乗ることは許されなかったからである。


 しかしルノイはマニセリルに着いた直後、亡命を望む他の乗客に紛れて降りようとした際に役人に見つかってしまった。


「君は、メックラコンリ共和国の子か?」


 大の大人に片腕を掴まれ振り解くこともできずに、「手形がないなら降りられないよ」と言うもう一人の困ったような顔を見上げる。

 ルノイは為すすべもなく、下唇を噛んだ。



 その時。



「……ああ、こんなところにいたの!」


 甲高い叫び声が後方で上がった。


 振り返ると、血のような色の髪をした女が彼を見て、「さ、帰るわよ」と妖艶に微笑みかけている。

 ルノイは呆然と女を凝視する役人の腕を振り払い、後も見ずにに女の元へと走った。



 ルノイがマニセリルの港に足を踏み入れることができたのは、彼女のおかげであった。



「ありがとう」


 手を引かれるままに通りを歩き、しばらくしてからルノイは言った。


「気にしなくていいわ。子供は大人の協力が必要だもの、親切は遠慮なく受け取っておいて損はないわよ。騙されないようにだけ気をつけることね」

「……そんなに子供じゃない」


 斜め上にある艶やかな顔に向けて無愛想に告げる。

 女はさも愉快そうに笑うと、頭二つぶん小さい少年の紫色の髪をわしゃわしゃと撫でた。


「わっ、何するんだよ!?」

「んー? なんとなく?」

「なんとなくって……。…………そういえばあんた、」

「あんたじゃないわ、少年」

「え?」


 見上げると、女はわざとらしく紅い唇をへの字に曲げてみせる。


「ギーナよ。ギーナ・リリゾネ・ヤーガ」

「ギーナ……さん?」

「さん付けはいいわ。それで? あなたは何を言いかけたの?」

「あ、ああ……なんでメックラコンリの言葉を喋れるのか気になって」


 メックラコンリはイーリエシアとは言語が違い、人々はメック語と呼ばれる言葉を話す。

 ルノイは勿論イーリェを話すことなどできないので、本来ならマニセリルの人と意思疎通を図ることは不可能なはずだった。

 当然彼女との会話は彼の母国語で行われている。


 ちなみに言うと亡命船の役人たちもメック語を話す人ではあった。

 しかし言語の違いをすっかり失念していたらしく、ルノイを呼んだ女がメック語で話していたことに気づかなかったようで、幸運なことにルノイは無事にマニセリル入りを果たすことができたのである。


「なんだ、そんなこと」


 ギーナと名乗った女は会得したように頷くと、不敵に笑う。

 どうにも食えない人だ、とルノイは心の中で呟いた。


「まあこんなに生きてるとね、余計な知恵ばっかり身につくのよ。ふふ、細かいことは気にしなくていいわ」

「ああそう…………でも助かった。本当にありがとう」


 ルノイが動きにくい表情筋で目一杯口角を上げると、女はキョトンとした顔をして、それから悪戯っぽくニッと笑ってみせた。


「あら、タダって訳じゃないわよ」


 え、と斜め上に視線を送る。

 彼女はなぜか自信を顔に滲ませながら立ち止まり、紅く縁取られた唇を開いた。


「少年。今日からあたしの弟子になりなさい」




 それが、ギーナとの出会いだった。




 初めてやってきた時から変わらない位置に据え置かれている円卓で、紅黒あかぐろい髪色の魔女は本の山に囲まれて眠りこけていた。


「……ったく、もう若くないんだから、ちゃんと布団で寝ろっての」


 ため息を吐きつつ奥から持ってきた膝掛けを肩にかけてやる。


 前はよくこうしていた。

 ふっと懐かしさが脳裏を横切る。


 あれから14年か。

 月日が経つのは早い。

 気づけば人生の半分以上はこの地で暮らしている。



 弟は、未だに見つかっていない。

 ギーナにも協力してもらって街中を隈なく探したが、どこにもいなかった。

 せめて居場所だけでも分かればと、店を手伝うかたわら旅人や行商人に片っ端から聞いて回った。

 山小屋に移り住んでからもここを度々訪れては、弟についての情報を求めている。


 それでも消息を掴めずに人知れず気落ちするルノイに、たった一人気づいたのは目の前で安らかに眠るギーナだった。

 無表情の裏に隠した絶望を見透かして、彼女はいつものように余裕の笑みを浮かべ、何か分かったら必ず伝えると言ってくれた。


『大丈夫。きっとまた会えるわ』


 ルノイは胸に染み込んだその言葉を思い出し、時計の音と魔女の寝息しか聞こえない部屋で、紫色の前髪を手で梳いた。


 出会ってから全く変わらない横顔には、皺一つない。


「……これで50超えてるとか、やっぱ人間じゃないな」


 ルノイは自覚なく微笑むと、師匠が起きるまで部屋を片付けてやろうと苔色の扉の向こうに消えた。

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