第2話 湯殿でボコる

 野々宮濃紅ののみやこべには脱衣場で姿見の前に立った。

 さらりと流れる黒髪、紅玉に例えられる赤い瞳、今日も一点の崩れもない美しさだ。浴衣を脱いであらわになった真白な肌がまた瑞々しい。

 「美しいという言葉はわたしのためにあるのね」

 造化の神もさぞかし改心の出来であろうと書き割りの雑草みたいな前髪の少年みたいな台詞を口にして吐息を漏らす。

 だが、少々腑に落ちぬことがある。なぜか自家うちの風呂が妙に古めかしい。いつもより狭い上に藤製の脱衣籠などがある。


 「もしかして下男か門弟の風呂だったかしら」

 まあいい。とにかく今は稽古でかいた汗を流したい。

 誰かが入っているか確認するという発想はなかった。男湯であったとしても女性が気まぐれで使うことを考慮しておかない方が悪いのだ。

 湯殿へ続くガラス戸を開けると男がいた。

 二十代ぐらいの青年とばったり全裸で鉢合わせたのである。


 「……天誅っ!」

 痴漢に情無用、迷わず正拳を繰り出した。

 泰山鳴動流剣術・目録の濃紅は素手でも高い戦闘能力を誇る。過去にも寄宿舎の男女共用風呂に先に入っていた男を邪魔だと追い出して湯舟を占拠してやったこともある。あのときは女生徒から英雄扱いされたものだ──それが、

 「えっ?」

 ぶっ飛ばしたはずの拳がスカッと空を打った。

 生意気にも男は紙一重でかわしたのだ。


 「避けるな! 殴られなさいよ!」

 ご無体もいいところの難癖をつけながら、濃紅はいったん下がって浴衣をまとうと、獲物の木剣を探した。

 「ない⁉ 乙女の護身用の愛刀はどこへ行ったの⁉」

 「おまえ、またイキってた頃へ記憶が戻ったようだな」

 初めて男が口をきいた。侮蔑のこもった声だ。

 「わけのわからないこと言っていないで、聖なる乙女の裸身を覗き見た報いを受けなさい! この女の敵! 人倫にはずれた屑男クズオス!」


 「ほざくな人の雌の分際で!」

 ホラーな現象が起きた。男の口から犬の顔が突き出したのだ。

 手をかざすと濃紅の体が浮き上がった。

 (不動金縛りの術⁉)

 男は念力の使い手らしい。少女を固定してから悠々と着物をまとう。

 「お、下ろせ痴漢!」

 じたばた暴れる濃紅は空中でクロールでもするよう日本家屋の中を移動し、陽当たりのいい二十畳の大座敷へ運ばれた。


 「あん! いたいっ!」

 畳の上へ落された黒髪の後頭部が踏みつけられた。

 「いい加減身の程を知れい! おまえ程度の裸身など目の穢れ! そんなものを不可抗力で見る〝不運〟に見舞われた俺の心痛は計り知れぬぞ!」

 顔面が畳にめり込む勢いでストンプされる。


 「何事です清丸きよまるさま⁉」

 廊下を滑って現れたのは背中が茶縞になった猫。

 「またこのニンゲンの娘が粗相でも⁉」

 猫は流暢に人語を話す。おまけに二足歩行で前掛けまでしている。

 「このアホがアホがアホがアホが……!」

 「清丸さま、落ち着いてくださいまし」

 「口を出すな猫村!」

 「僕はしげでございますよ」

 不満をこぼすものの体のサイズに合わせた可愛いエプロンをかけた賄い猫は、どう見ても猫村さんである。


 「アホがアホがアホがアホがアホが……!」

 途切れず続くストンピングで濃紅はやっと思い出した。

 (そうだ……わたしは犬神の奴隷なんだ……)

 おのれの力を過信し、三つの首を持つ猛犬を満身創痍になるまで追い詰めながらも後一歩というところで逆転され、凌辱されて死んだ──。

 (今のわたしは野々宮濃紅の娘……というより生まれ変わり……)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る