第5話 家族
「おはよう、
朗らかな声と、勢いよく打ち鳴らされた手の音で目を覚ました。ぼやけて定まらない視線を向けると、昨日とは雰囲気の違うユーリアの姿がそこにあった。
「――ぁ」
すらりとしたジャケットは男物のように無駄がなく、中に着たシャツはカジュアルな物。細身のズボンは彼女の鋭い雰囲気を更に引き締め、その素顔はサングラスで覆われていた。
弱っていた少女から一転して、大人びた重厚感を感じさせられる。
そして、その瞳は正面から廉太郎の視線をとらえていた。
「始めましてと言いたいのよ。この通り、万全だからね。……おかげさまで」
そう言うとサングラスをわずかに下ろし、その瞳を覗かせてくれた。仄かに赤く光っている。昨日言ったように、視力を確保できているのだろう。万全になったということは、体調と共に魔力も回復したということなのだろうから。
目元が隠されていても、表情ははっきりとわかった。それまでの余裕のなさそうな、ともすれば冷たい印象を与えるものと変わり、親しみのある微笑を浮かべている。
大人びた服装の中で浮かぶその笑みが、隠しきれない少女性を示していた。
「……あ、うん。おはよう」
返した挨拶は、どこか浮ついていたと思う。
ユーリアにとってはこれが初の顔合わせでもある。それで、しげしげと廉太郎を観察していた。
「ふぅん……」
値踏みされているようだが、嫌な気には全くならない。
むしろ
清潔感のある整えられた黒髪、性格を反映したような柔和な顔立ち。適度な運動で鍛えられた健康的な体。
第一印象ではおおよそ、好青年という評価を得ることができる。それはある程度意識している事でもあるが、姿を見せるのに一晩の間を置いたことなどは一度もない。
第一印象とは言えないその対面に、妙な緊張を覚えてしまう。
身構える廉太郎に対し、ユーリアは可笑しそうに笑いながら、言った。
「ごめんなさいね、気が利かなくて。身支度を整えてくるといいわ……ひどい格好よ」
そう言われて、昨晩は肌着で寝ていたことに気付かされた。
不可抗力とはいえ、人に見せられる姿ではなかった。
「ご、ごめん」
仮にも女性と顔を合わせるときは、身支度を整えるべきだと弁えていた。それもこんな寝起きの姿など、廉太郎は親にも見せようとも思わない。
別に恥ずかしいとも思わなかったが、相手に申し訳ないとだけ思っていた。
「いいのよ、急に部屋に入ったのは私なのだから」
印象が変わるくらい上機嫌に、彼女は言った。
差し込んだ朝日に照らされた亜麻色の髪が、どうにも眩しく目に映る。
「朝食を食べに行きましょう」
建物は昨夜とうって変わり、人の出入りが激しいようだった。身支度を整えて外に出るまでに十数名とすれ違ったが、皆同じ制服に身を包んでいた。
私服でいるのは廉太郎とユーリアぐらいで、浮いてこそいないものの居心地が悪い。
自然と、ジャケットに手を入れて歩く背中に声をかけていた。
「どこまで行くの? そこにも食堂はあるようだけど」
建物の一階には隣接した食堂があり、食べ物の匂いに人が吸い込まれていくのが見えた。
ユーリアはそこに見向きもせず、建物に背を向けて遠ざかるように歩きながら、言った。
「あそこね、人が多いのよ」
どこか影の差す言葉だった。人が多いと落ち着かないとか、並ぶのが面倒だという感じではなく、人がいるから嫌だと言いたいかのよう。
昨日の様子を見ても、彼女はあまり人に対して好意的ではないようなことは伝わってくる。
ちらりと中を目にしただけだが、空席が目立つほどである。
「そっか。俺も、人が多いところは避けたい方だよ」
外食自体、周りに気を使って落ち着かなくなる。
「そう、いくらか気が合うのかもね」
返されたのは、大してそう思っていないような声だった。
人混みを避ける理由自体は全く異なるのだろうと、廉太郎も朧気に思う。
泊めてもらった建物へと向かう人の流れに逆らうように、大通りから離れていく。
建物が密集した小通りはいくらか日の通りも悪く圧迫感を覚えたが、清潔で、むしろ雰囲気のある通りにも思える。
早朝だからか、静かで人の姿も見えなかった。
「ここよ」
やがて、一軒の建物の前で立ち止まった。ガラス越しに中を伺うと、おもむろにドアを開いて声をかける。
「おはよう、アイヴィ」
「――ユーリア!? あぁ、戻っていたのね……」
中に入るなり一人の女性が駆け寄ってきた。廉太郎から十センチ以上背が低いユーリアの、そのまた十センチは低い子どものような人だ。つまり百五十ほどの、小中学生ほどの背丈しかない。
それでも幼さをまるで感じなかったのは、彼女の顔つきがあまりに端整だったからだ。
一目で、年上だと思わされてしまう程に。
その人は真ん中で分けられた金色の長髪を乱しながら、ユーリアの目の前まで走り寄ってくる。
見た目も声も、可愛らしい少女のものであるのに、その目つきだけで年月を重ねた女性であると思わされる。
鋭いのではない、力強かったのだ。
彼女――アイヴィはユーリアの姿を確認すると、安堵の表情を浮かべた。かと思えば、次の瞬間には泣き出しそうな顔で、ユーリアに詰め寄っていた。
「し、心配してたんだから。昨日、仕事に行ってから帰らなかったし、怪我でもしたんじゃないかって……」
「怪我なんか……してないわよ」
まくし立てるような剣幕に、ユーリアは気圧され言葉を濁していた。
「ねぇ、ユーリア……あなたが呼ばれたのって、クラポットさん家のことでしょう?」
「な、なんで知っているのよ?」
昨日、ユーリアが洞窟で負傷していた理由を廉太郎は知らない。アイヴィも、推測でしか話を切り出せないのだろう。
「だって、ものすごい騒ぎだったんだもん。耳にぐらいするわよ……あの家族、誰もいなくなっちゃうし」
「……そう」
「ねぇ、あの人達は――」
「ごめん、言えない」
ユーリアは、何も答える気が無いようだった。答えられないようだった。
彼女の表情の意味するところを、廉太郎は察することができない。しかし、アイヴィはそれですべてを察していた。
表情が、悲痛なものへと変わっていく。
「……ごめんね、一番辛いのはあなたなのに」
彼女の手は自然とユーリアへと伸び、そして、名残惜しそうに空中で止まる。
その手を柔く握ると、微笑みながら話を終わらせていく。
「ううん。あなたが無事で本当に良かったわ。さぁ、入りなさい……ところで――」
そこで、『何かご用ですか?』というような視線を廉太郎は向けられていた。蚊帳の外だった廉太郎が不意に存在に気づかれたかのようで、戸惑いながら言葉に詰まってしまう。
「はじめまして……その、俺は」
ちらりと、横目でユーリアに視線を送ってしまった。見かねたのか、彼女は助け舟を出してくれた。
「……連れてきたのよ。かまわないでしょう?」
「――えっ!?」
何気ないはずの言葉だったが、アイヴィは大げさに驚いて見せた。そのまま、目を見開いてユーリアと廉太郎の顔を交互に見比べている。
「嘘でしょう? あ、あなたが誰かとご飯を食べようとするだなんて……。だ、誰……まさか友達? それも人間の!?」
それまで感情は見せながらも知性的で落ち着きがあったアイヴィが、急変したように声を張り上げながら驚いている。その様子に、当事者である廉太郎は恐縮するしかない。
ユーリアは大声を出した彼女を、うっとおしいかのような表情であしらおうとしていた。
「あーもう、うるさい。昨日ちょっと……世話になった人よ」
「人間なの……っ!?」
「何回確認するのよ!」
信じられない物を見るような表情で廉太郎を凝視し声を上げるアイヴィに対し、流石に腹に据えかねたのか同じくらいにまで声量を上げてユーリアが制止する。
アイヴィもそれで少しは落ち着いたのか、問いを重ねていく。
「あ、あなたが人間の手を借りるなんて……やっぱり、とんでもない事があったんじゃないの……?」
たかだか人を食事に誘うぐらいでこれほど驚かれるなんて、普段どんな態度を見せているのだろうかと不安になってしまう。
思い返すのは、昨日二人の人間に見せた不遜な態度だ。まさかあれが素ではないだろうが、それでも背筋が寒くなる。幸い廉太郎に見せている態度は百八十度真逆なのだが、その理由がわからないだけに少し怖い。
何が怖いかと言われれば、何をきっかけに嫌われるか分からないことである。
ユーリアは呆然と呟いているアイヴィを呆れたように素通りし、家屋の奥へと入ってしまった。一礼して後に続こうとする廉太郎に、静かに呼び止める声が届く。
「――ま、待って。その……ありがとう、あの娘の力になってくれて」
振り返って目にしたのは、真剣に見つめてくる顔だった。
「そんな……俺はただ、偶然居合わせただけですよ。大したことなんてしてません」
だからむず痒く思う。事情は言えそうにない以上、下手をすればとんでもない大恩人だと思われてしまいかねない。
「ううん、それだけで本当に嬉しいのよ。あの娘の傍に誰かが居るだけで」
「は、はは……」
そこまで言われてしまうと、ユーリアが普段どうやって生きているのか心配になってしまう。
「ねぇ、名前を教えてくれない? ……嫌じゃなかったらだけど」
そう言うと、彼女の表情には僅かな影が差していた。露骨なものではなかったが、人の顔色を伺う癖のある廉太郎には、敏感に察することができてしまうのだ。
「
名乗り合うことなど嫌であるはずもないのに、それを不安がらせるということは警戒でもしているのだろうか。
それを和らげようと、できるだけ友好的な態度で笑いかけていく。
「そう、変わっているのね。いろいろと」
するとアイヴィは、安心したように優しく微笑みながら右手を差し出してくれた。
初対面での握手というものは、実生活でなかなか味わったことのないものだった。文化にない。それも、女性相手ともなれば二重に緊張してしまう。
それでわずかでもためらいを見せるのはあまりにも格好がつかず、また相手に失礼でもあるように思う。
「よろしくね、廉太郎くん」
「はい。こちらこそ」
握ったその手はやはり小さかったが、それでもやはり、変わらず同じ人の手であった。
招かれたのは飲食店の、それも喫茶店のような店構えだ。嗅ぎ慣れた珈琲豆に似た匂いが立ち込める、品のいい店だった。
アイヴィの他には、従業員も客も他にいない。開店時間外なのだろう。客としてきたのではなく、個人的な来訪のようだ。
ユーリアは店内の最奥、店内から死角となっているボックス席に腰かけた。廉太郎はそのテーブルを挟み、対面に同席する。
アイヴィが引っ込んでいった厨房へと顔を向けながら、ユーリアは笑うように言った。
「ごめんなさいね、うるさい人で」
うるさいとは言いつつも、そこまで疎ましがってはいまい。彼女たちの仲が相当にいいのはわずかな会話だけで伝わってくる。
廉太郎もユーリアも、互いに相手が口数が多くないということに気付いていた。だからこそおしゃべりな知人の紹介に、一言の断わりが入っただけ。
「気にしないよ」
言葉数が少ないからと言って、話好きの人間を必ずしも嫌いになることはない。むしろ、心地よく思うことすらある。
静かな環境を求めつつも、完全な無音には耐えられないことをよく知っているからだ。
「その――」
ユーリアが躊躇いがちに口を開く。奥へ引っ込んだアイヴィには聞こえないように、小声で。
「私からもお礼を……改めて言わなければならないのよ」
「え?」
「――ありがとう、本当に。昨日はろくにお礼も言えなくて悪かったわ。あなたがいなければ、死んでいたでしょうし」
「いや……」
伏し目がちにそんなことを言われてしまうと、恐縮してしまう。
一晩たって蒸し返されると、気恥ずかしくて照れくさい。
大げさで不必要。廉太郎は大したことはしていないと思っていたし、誰でもできたようなことだと思っている。
「お礼を言うのは、俺のほうだよ」
「えっ……?」
「昨日、逃がそうとしてくれただろ。あんな怪我までしていたのに」
「あぁ……そうね」
そのことに触れると、彼女は気まずそうに顔を逸らしてしまう。
言葉はためらいがちになるというのに、一度切り出すと
「その、詳しくは言えないんだけど……」
とても心苦しい。
「俺はお金も持ってなかったし、行くべきところも分からなかった。だから、君と出会えなかったら、寝る場所も食べる物も手に入らなかったというか……」
「そう」
「だから、君と出会わなかったら死んでたと思う。俺の方こそ」
「……大げさなことを言うのね」
伝わらないことがもどかしい。
こうして身構えることもなく迎えている朝が、廉太郎にとってどれほど恵まれているものなのか。
自覚してしまった以上、感謝は正確に伝えてやりたい。
「だから、出会えただけで幸運だったんだ……ありがとう」
顔が赤くなるのを隠すように、頭を下げていた。
別の世界から来たという事情が話しづらいせいで、言葉がどうにも不自然なものになってしまう。遠回りをしたつもりで、もの凄く
ユーリアと出会わずとも、世界が違うと気づくのにそう時間はかからなかっただろう。そうなれば、誰かに声をかけられたとは思えない。
別世界にいると気づいてから、未知に対する恐怖が止まらない。そして世界に対する恐怖は、住人への恐怖にもつながる。
そんな異世界の住人となし崩し的に交流の機会を得たあの瞬間は、本当に偶然で、幸運でしかなかった。
「分かった、分かったわ……任せなさいよ。この町で暮らせるようにしてあげるから」
「え、この町で……?」
そんなつもりはなかった。
しかし口をはさむ前に、ユーリアの中では方針が固まってしまっていた。
「すでに戸籍は用意させたし、住む場所と仕事も
「えっ――? ちょ……ちょっと待って!」
矢継ぎ早に話を進めようとする彼女に、慌ててストップをかけた。この町に永住する気などないのだ。働く気もないし、そんな暇はない。
廉太郎は、一刻も早く帰らなければならないのだ。
方法は分からない。だからそれを調べなければならないのだが、この世界において別の世界の存在が認知されているのかも、その移動方法が確立されているのかも分からないのだ。
あるかどうかも分からない手がかりを一から探すことになる以上、当面の生活基盤は必要なのだが、ユーリアにそこまでの手配を頼むのはいくらなんでも世話をかけすぎることになる。
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