第24話 「主の息吹」

 佐々波さざなみと挨拶を交わしたあと、四人は外へ出て庭園に並ぶ花壇近くで芝生に視線を向けていた。

 もちろん芝生を観察しているのではない。

 芝生の上に置かれた小さな陶器製の壺を見ているのだ。

 長さ三十センチほどのかなり使い込まれた壺。

 口には蓋がしてある。

 濃い緑色にこげ茶色の模様が入っている。


 表面にはヘブライ文字で旧約聖書の一節が彫り込まれていた。

 フィリップが部屋のトラベルケースから持ってきたのだ。


「わしらは人間じゃからして、神のように千里眼をもっておるわけではない。

 したがっての、こうしてしゅのお力をお借りして悪魔を捜しだすのよ」


「へえっ、そのちょっと小汚い壺に神通力でもあんの?」


「まあっ、きりったら。

 小汚いだなんて失礼よ。

 由緒正しきいにしえの壺って言わないと」


 姉妹のやりとりを苦笑しながら聞くフィリップ。


「まあ、たしかに古い壺ですからね。

 八百年以上にわたって使用されております」


「ほらぁ、八百年ってよ」


「ああ、そうか、そいつはすまない」


 フィリップはしゃがみ、胸元で十字を切る。

 ゆっくりと蓋を取った。

 なにが出てくるのかとワクワクするらんときり。

 ところが。


「えっ、カラっぽじゃん」


「得体のしれない化け物でも封印してあるかと思ってワクワク、いえ、ドキドキしておりましたのに」


 拍子抜けするふたり。

 マルティヌスは杖で芝生の上を突きながらカラカラと笑った。


「いや、すでに壺から出ておるぞ」


 らんときりは不思議そうに顔を傾けた。


「このなかには、『しゅ息吹いぶき』が入っているのです。

 無色透明ですから肉眼ではもちろん、臭覚でも感知できません。

『主の息吹』は大気にまじり、風となって大空へ舞いあがります」


 フィリップは眩しそうに太陽の輝く空を見上げた。


「さよう。

『主の息吹』はどんな場所へも流れていく。

 そして憎っくき悪魔の所在を調べ上げるんじゃな」


 きりは人差し指で口元を押さえながら、らんに言う。


「それって式神しきがみに似ているんじゃね?」


「そうそう、そうですわね。

 わたしたちは式神を使いませんけど、東北方面の地区保安官で式神をわんさかとご使用になるかたも、たしか」


「おおっ、いたな。

 それにさ、なんでも在野ざいやの術者で、むしに憑依させて式神にしている奴もいるって聞いたことがあるな。

 ほら、あたしらの同期で遊撃部隊の『漆黒しっこくたか』に所属している蟲使いさ」


 フィリップは美しい姉妹の心地よい声音に、若者らしくときめきを感じる。

 あわてて首を振り、立ち上がった。


「らんさん、きりさん、ぼくたちはただ待っているわけにはまいりません。

 先ほど佐々波副長もおっしゃっていたように、悪魔はこのオオサカ南部に潜伏しているのは間違いないでしょう。

 探索に出かけたいのですが」


 マルティヌスが大きな欠伸あくびをする。


「きょうびの若いモンは、ことを急ぎたがるのう」


「しかし、先生」


 らんが手を挙げる。


「了解でございまぁす。

 ねえ、きり」


「おうさ!

 あたしらの機動力を使えば、すぐに見つけられるってなもんよ」


 まだグズグズとしているマルティヌスに、フィリップは腰を屈めて師の顔をのぞき込む。


「さあ、先生。出かけましょう」


「枕が変わるとなかなか寝付けなくてのう。

 夕べは何度も寝返りをうっておったわい」


「なにをおっしゃいますか、先生。

 先生のいびきは隣室までよーく聞こえましたよ」


 マルティヌスは下を向いて、チェッと舌打ちした。

 四人が庭園で会話をしているさまを、源之進げんのしんは本宅三階にある自室のカーテンに隠れるようにして、ジッと眺めていた。


「社長、そろそろご準備を」


「あっ?

 ああ、そうだね」


「異国からのお客人が、やはり気になっておいでですね」


 高見沢たかみさわはスーツ姿で立っている。

 源之進の自室は二十畳ほどの広さがあり、応接セットに高級マホガニーのデスクに革張りの椅子、大きな書棚などの調度品がおかれていた。


「エクソシスト、だったかな、あの神父さまたちは」


「はい、詳しくは機密事項ということで、お話くださいませんでしたが」


「ようは悪魔祓いだよねえ。

 なんだか映画の世界にでも入ったような、不思議な感じだよ。

 あの子たちも魔物を退治するお仕事をしているんだけどさ、やはり兄としては心配なんだ」


 源之進は白いポロシャツにジーンズ姿で、額を指でつつきながらため息を吐いた。


「社長のご心配は、この高見沢も同じです」


 ふと源之進は顔を上げた。


「少々訊ねたいのだが」


「はい、わたしでわかることであれば」


 高見沢の生真面目な顔を見つめながら、源之進は意外な質問をした。


「たしか、わが『紫樹むらさきエンタープライズ』では必ず年間有給を消化するように、全社員に守らせていたっけ」


「えっ?

 あっ、無論です。

 先代のときから社員の有給は百パーセント取得するように、人事から通達をだしております」


「それは、役員も含めて、と解釈してもよかたのかな」


「はい、社長。

 わが社で唯一有給を一度も使用されていないのは、社長、ご自身だけです。

 これもわたしの不徳のいたすところと、猛省しています」


「ということはだね。

 高見沢くんも有給を消化していないと」


 高見沢は恥じ入るように頭を下げる。


「わたしは社長と一蓮托生いちれんたくしょう

 したがって有給なぞ必要といたしません」


「それはいかんなあ、高見沢くん」


「はっ、申し訳ございません」


「いや、きみを責める筋合いの話ではないよ。

 これは陣頭指揮を執るぼくの失態ミスだ。

 ということでだね」


 源之進は眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、ニヤリと口元を曲げた。


~~♡♡~~


 大阪市中央区ちゅうおうくの繁華街、心斎橋しんさいばし

 ここから難波なんばにかけて、大阪市内でもっとも人通りが多い。

 心斎橋筋商店街、デパート、高級ブランドショップなどが建ち並び、インバウンド効果でむしろ外国人のほうが多いくらいだ。

 

 昼前の心斎橋界隈。

 買い物客や旅行客たちのざわめきに、新御堂筋しんみどうすじを行き交う車の騒音が重なる。


 その新御堂筋の舗道で異様な集団がビラを配り、拡声器を使って若い男性が声を張り上げていた。


 百人を超える集団は全員が黒いTシャツを着ている。

百式党ひゃくしきとう」員たちだ。


「みなさん!

 現在わが国は未曽有の危機に包まれています!」


 拡声器を持った男性は叫ぶ。


「この国を変えなければ、わたしたちに未来はない!

 わたしたち『百式党』は必ずみなさまに幸福な未来をお約束いたしますっ。

 現大阪知事ではなしえなかった改革を、わたしたちとともにやりとげましょうっ」


 バックパックを背負った外国人や、デパートの買い物袋を抱えたご婦人たちに党員は無理やりビラを押し付ける。


 そこへ派手なシャツや銀色のジャケットを着た、いかにもその筋とわかる五人連れが通りかかった。

 人通りが多く、すれ違うにも斜めに身体を傾けねば困難な人ごみのなかを、肩で風を切る勢いで歩いてくる。

 外国人たちでさえわかる、いわゆる町のチンピラ連中だ。


 党員のひとりが無言で差し出すビラを、真ん中の男がむしりとった。

 スキンヘッドで顔には揚羽蝶のタトゥが入っている。


「おおうっ、なんだこりゃあ」


「おい、おまえさ、いま兄貴が要らないっていうのに押し付けたよな」


 地元の暴力団に盃をもらっているのか、チンピラたちは因縁をつけ始めた。


「おいっ、誰の許可を得てここでビラを配ってんだ。

 市民のみなさんが通行の邪魔になるって言ってんだ。

 おい!

 責任者!

 出てこいやっ」


 チンピラたちは脚を広げて凄む。

 遠巻きに通り過ぎるひとたち。


「おいっ、こらっ、責任者を出せって言ってんだろ!」


 真っ赤なスタジャンを腰に巻いた長髪の男が声を荒げる。

 大抵の場合、「ここは穏便に」と幾枚かの万札をそっと渡してくるのが慣例であった。


 ところが黒Tシャツの集団は無言のまま、チンピラたちを取り囲み始める。


「おっ、おうっ、なんだなんだ!

 てめえらおれたちが誰か知ってて絡んできてんだろうな!

 あとからごめんなさいじゃ済まないって」


 最後まで言葉を続けられなかった。

 周囲の見物客を押しのけ、党員たちが五人を取り囲んでいく。

 誰も声を出さず、無言でだ。


 チンピラたちの顔色が変わる。

 恐怖。

 それであった。

 通行人たちはTシャツ集団に囲まれたチンピラたちが見えなくなっている。

 悲鳴が中心部から聞こえるが、周囲の雑音にかき消されていた。

                                  つづく


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