第5話 「月光に浮かぶ影ふたつ」

 自然界の地上において、まことの闇は存在しない。

 ホモ・サピエンスなる知的生命体が長い年月をかけて築き上げた文明のなかにだけ、暗黒の空間がある。


 人里離れた山並み。

 午後十時過ぎ。

 もちろん外灯などあるはずもないから、山肌に根付いた杉や赤松などの大樹が密生した斜面は暗い。

 とはいえ、けっして黒く塗りつぶされた大気ではない。


 山並みの遥か上空では、橙色のおぼろげな光を放つ月が「うさぎ」の影絵を浮かべ、そしてまたたく幾千もの星々が柔らかな灯火を放っているからだ。

 

 大和葛城山やまとかつらぎさん、標高九百五十九メートル。

 奈良県ならけん御所市ごせしと大阪府南河内郡みなみかわちぐんをまたぐ。

 金剛生駒紀泉こんごういこまきせん国定公園内にあり、北の二上山にじょうさんや南の金剛山に連なる金剛山地の山のひとつである。

 山頂付近にはツツジが多数植生しており、例年五月上旬から咲き始め中旬に見頃を迎えるため、この時季には多くの観光客が訪れる。


 登山道から遠く離れた斜面。

 樹木や熊笹が自然のままに、といえば聞こえはよいが、山に住まう動物以外を拒絶するかのように雑然と密生している。

 月や星々の降り注ぐ淡い光も、樹木の葉が幾重にも覆い、はねかえしてしまう。

 つまり、自然がつくりだすもっとも濃い闇に包まれていた。

 ひとふりの風さえそよがぬ。

 ために葉擦れの音も聞こえない。


 ふいに斜面の下方からザザザッと熊笹のあいだを走る音が大気を震わせた。

 穴熊や野兎のような小動物が走る音ではない。

 もっと大型の獣が疾走する音だ。

 葛城山には熊は棲息していない。

 では、いったいその正体はなんであるのか。


 暗闇のなか、さらに速度を上げて駆け上がってくる。

 その後方から、同様に上へ向かって走ってくる音が重なった。

 二体の未確認生物が、追いつ追われているような緊張感に大気が固まる。

 

 後方の走る音が止まった。

 その直後、樹木のあいだを縫うように、回転し大気を切り裂く音が前方を駆ける物体に向かって飛んだ。


 シュルシュルシュルッ!


 入り組んだ枝葉をすり抜けて、音は前方の物体にぶつかった。


「ギャワッ」


 甲高い悲鳴が斜面をすべり落ちる。

 回転する鋭利な音は弧を描き、後方へ戻っていく。


「当たり、ですわね。

 さすがはわたくし」


 場違いな、鈴を転がしたような美しい声音。

 斜面の後方に立っていたのは獣ではなく、人間の女性であった。

 声からすると、かなり若そうだ。

 不思議なのは、若い女性がたったひとりで現れる時間帯でも場所でもないということだ。


 回転する物体が、速度をゆるめずに女性に還ってきた。

 それを予想していたように右手を伸ばす。

 手には黒い革手袋が装着してあり、ガシッと飛翔体つかんだ。

 回転が止まる。

 それは、くの字型で全長五十センチほどの武器、ブーメランであった。


 女性のかむる黒いフリッツ型ヘルメット。

 濃いグリーンのゴーグルに目元が隠されており、表情はわからない。

 上下黒の革製ジャケットパンツ、編み上げの黒革ブーツ姿は、警察のSATであろうか。

 それとも陸上自衛隊のレンジャー部隊か。

 警察官や自衛隊員が、ブーメランを武器として使用することはあるのだろうか。 

 胸元にはプラスティックのような黒い光沢のあるプロテクターを装着している。

 実際にはカーボンナノチューブで作られた超強度のブレストアーマーだ。

 この装備は警察官でも自衛隊員でもない。

 そして左腕に巻かれた赤地の腕章には、「保安」と白い明朝体の文字が刺繍してあった。


 女性はブーメランを素早く背中のさやに納め、腰のベルトから細長い三十センチほどの筒をはずすと、斜面を駆け上がって行く。

 いったいこの若い女性は何者なのだろうか。

 ブレストアーマーの背中には「KBEC」と白文字が浮かんでいた。


 ~~♡♡~~


 わが国、日本には天照大神あまてらすおおみかみを頂点とする多くの神が存在している。

 一般的には八百万やおよろずの神々と呼ばれている。

 ところが神といってもすべてが民草たみくさの味方ではない。


 高天原たかのあまはらの神々に従わず、また高天原に帰属しない荒ぶる神なる存在もある。

 神威が激烈なあまり、人々に災いをもたらす邪悪な神。

 さらにやっかいなことに、眷属である悪鬼や妖物もまた多く存在しているのが、この大和やまとの国だ。


 古来より荒ぶる神や眷属から民衆を守護する組織があった。

 それが検非違使けびいしである。

 平安初期に設置された令外りょうげの官だ。

 時代の流れにより武士が勢力を持つようになると、検非違使は表から消えた。

 武士たちにとって、妖しげな呪術を使う陰陽師おんみょうじや統括する検非違使は、目障り以外なにものでもなかったからだ。


 だが武士が日本を治めるようになったからといって、荒ぶる神が現れなくなったわけではない。

 武士の刀では冗談ではなく太刀打ちできないことは誰もが解っていた。

 そのため検非違使は、時の権力者から極秘に引き継がれていったのである。

 影となった検非違使は、荒ぶる神の悪行から人々を守るために、表舞台ではなく、人知れずに闇の舞台で邪神たちと戦ってきているのであった。


 そして現在。

 検非違使は宗教法人を統括する文化庁と同じく、文部科学省の一庁、検非違使庁として存在していた。

 この事実は一般市民にはほとんど知られてはいない。


 ~~♡♡~~


 特殊武装に身を包んだ女性はまるで昼のなか、明かりが見えるかのような速度で山の斜面を駆け上がって行く。

 ゴーグルには暗視装置も装備されており、足もとは気にする必要がないのだ。


 ザンッ!


 熊笹を飛び越えると、ブーメランで攻撃した対象がうめき声を上げ、草の中にしゃがんでいる。

 そして横には三歳くらいであろうか、おかっぱ頭にかすりの着物を着た男の子がちょこんと腰を降ろしていた。

 子どもは泣くでもなく震えるでもなく、じっと細い目で女性を見上げている。

 ツーッと小さな鼻から青っ洟あおっぱなが垂れた。

 ズズッと吸い込み、はあっと口から息を吐くと、また鼻水が流れ出る。


 女性は子どもを一瞥いちべつし、うめき声をあげている対象物へ顔を向けた。

 手にした筒を軽くふる。

 すると一メートルほどの純白の棒がシュンと伸びた。


「検非違使庁地区保安官、紫樹むらさきらんから逃げられると思っておいで?

網切あみきり』の刃で作られたブーメラン、『影斬かげぎり』はよく切れるでしょ、うふふっ。

 いっておきますけど、その傷はそんなに簡単には治らないの。

 影さえも切断するコワーイ武器。

 ごめんあそばせ」


 紫樹らんは、フリッツ型ヘルメットからのぞく口元に白い歯を見せた。

「網切」とは鳥山とりやま石燕せきえんが安永五年(一七七六年)に刊行した妖怪画集「画図百鬼夜行」にもある日本の妖怪だ。

 蛇に蟹の鋏を付けた姿で、漁師の釣り網を切って悪戯をする。

 その鋏で作られた「影斬」は鉄骨でさえ切断する。

 うめき声をあげていた異形がゆっくりと身体を起した。


「あらっ、あなたは『猿神さるがみ』ですわね?」


 らんは世間話でもするような軽い口調で言うと白い棒を構えた。

 棒と呼ぶよりも、銀色の鋭利な針のような獣毛がみっしりと生えた動物の尾だ。


「これはね、『九尾剣きゅうびけん』。

 そう、あの『九尾狐きゅうびのきつね』の尻尾から作られた、これまたコワぁい剣ですのよ。

 動かれますと、スッパリ斬らしていただきますっ」


 らんの口調が変わった。


「グルルゥ」


「『猿神』がこんな悪さをいたすなんて。

 かなりやんちゃなタイプとお見受けいたします」


 立ち上がった相手は全身がこげ茶色の剛毛で覆われた猿であった。

 日本猿の顔を持つゴリラのようだ。

 その双眸そうぼうは真っ赤に燃え、凶悪な光が宿っている。

 二メートル近い体型は背中がいびつに曲り、丸太のような太い腕。

 大地につきそうなくらい長い。

 これで殴られたら即死であろう。

 らんはまったくお構いなしに口をきく。


「たとえ『猿神』とはいえ、わたくしは成敗する権限を国家および神宮より与えられておりますの。

 ここからスタコラ退散するなら見逃してあげてもよくてよ」


 神宮とは三重県の伊勢いせ神宮を指す。

「影斬」で受けた背中の傷からは、鮮血ではなく真っ黒な煙が立ち昇っている。「猿神」は耳をふさぎたくなるような不気味な遠吠えを上げ、いきなりジャンプした。

 らんに襲いかかると見せて宙で回転し着地すると、さらに上方へ逃亡を図ったのであった。

                                  つづく


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